子供の頃から大工になりたかった。近所の街道にたたずむでんとした役所は、そのころ建て直され、そこそこ有名な建築士がデザインしたもので、白い炎が天に向かって勢いよくくねるような躍動感ある風貌をしており、のちに見た目があまりに芸術的で市民が入りづらいという欠点が指摘されたが、建設当時の評判は良かった。それを自転車の信号待ちで正面から見た彼の心は、役所の形と同じく天へ昇るようだった。自分も絶対にこういう建物を作る人になるんだ、と彼は誓った。

 ただ、彼の希望の持ち方は普通の子供とはちがっていた。彼は自分が大人で立派な男で、世間からチヤホヤされている一流の建築家だと思い描いた。普通でもこのくらいはするだろうが、彼は本気でそうなったと思い込んだ。それは、「このままでは、成長しても、とてもそうはいきそうにない」という動かぬ現実をとうに気づいており、それを完全に忘れ、心の地下室に封印するためだった。完全に現実からの逃避だった。


 彼が建築に憧れを抱いたのは確かだが、彼は幼少から自分に絶望していた。どんなに夢を描いても、絶対に実現しない、全てが無理、不可能だと固く信じていた。

 美術室で壁ぎわの棚に小さな白い貝の彫刻を見た。これが自分だと思った。いっけん貝だが、決して口があくことのない、永遠にひらく可能性のカケラすらそもそも意図されずに作られた完全なるまがい物。ひらく口などないのに、口の形だけを、その側面をヘラでぐーっとえぐって作ってある、口のふりをしているだけの誤魔化し。事実はなく、全てがフリのみで出来ているもの。それが彼だった。


 なんとなれば、彼の母親は表向きは彼を甘やかして大事にしているふうに見えたが、腹では彼を利用して使い捨てることしか考えていなかった。だが彼女自身もそう育てられたので、ただ家系の伝統を受け継いだに過ぎない。母親は、出世した立派な人間で、どこに出しても自慢できる美しい息子である以外の彼をいっさい認めなかった。本来の、弱さも欠点も豊富な人間的な彼は、誰からも顧みられることがなかった。

 これが絶望の原因だったが、むろん子供の彼にそれが分かるはずもなく、また大人になっても現実逃避は変わらなかった。というより、ますますひどくなった。幼児期に形成された自己放棄のシステムは彼の確固たる核になり、それによってどんなにひどい目に遭わされようが、ぴくりとも動くことはなかった。

 たんに悪い癖などは、痛い目を見れば徐々に治っていくだろうが、彼の場合は、学校でのいじめや仕事先から受ける仕打ちなどで、どんなに手ひどく虐待されようが、死を望んで幾晩泣き明かそうが、絶対に薄まることはなかった。それは折り重なった確固たる地層、あるいは今からどうあがこうが動かしようのない歴史のような、厳然たる事実として彼を強固に取り巻いていた。

 

 小学校から必死の作り笑いと、怯えをたたえた上目を猫背で見せ付けてくる卑屈な態度で、周りから気味悪がられ嫌われ、当然のようにいじめの対象になった。だが彼の生きた二十世紀末はまだ人種や性別などへの様々な差別が横行し、苛めの被害者の存在もまだ許されていたので、とりあえず自殺はせずにすんだ。

 しかし二十一世紀になると人類平等が提唱され、逆にどうしても差別されるしか道のない者、虐げられる以外に行き場のないものは、存在自体してはならないことになった。かくして学校ではいじめられっ子がバタバタと自殺し、大人でも社会不適応な者、人並みになれぬ落ちこぼれが絶望し命を絶つケースが増え、日本の自殺者の数は先進国一になった。

 彼は成人して新聞やニュースで子供の自殺を知るたびに、自分の「恵まれていた」ことを悔やんだ。「いま子供なら、こんなダメな俺は、とうに楽になっていたはずだ」と、不謹慎にも、簡単に死ねる今の若い者をうらやんだ。


 しかしこの世は、彼がいえぬ傷を、カゴいっぱいの花のように胸に抱えながら生き続けることを強いた。また彼が生き延びるための現実逃避という「技」を、幼少時、無意識のうちに自分で「開発」してしまったので、死ねなくなったのは自業自得ともいえた。

 全ては親のせいだったともいえるが、今では、もしちゃんとした家庭で愛情を注がれて育ったとしても、自分の場合はやはりダメだったんじゃないかと思うようになった。何十年も人間の屑をやってきたので、今さら今と違う人生の可能性など想像もできない。それは、それほどまでに自然なことだった。






 しかし世の中には不幸な女がいるもので、こんな彼と縁ができて二人の子供を持った。彼は母親と同じように子供を使い捨てる虐待を繰り返すはずだったが、あまりそうはできなかった。つまらないことで怒るようなこともあったが、子供たちに期待するのは女房の仕事で、彼には関係がなかった。そして女房は彼の母親とちがい、子供をそう利用しようとはしなかった。

 かといって八つ当たりもせずに立派に教育できたわけではない。同じ薄幸な育ちでなければ彼などと縁ができるはずもなく、若い頃はよく薄給の彼に愚痴を言って噛み付いた。

 彼と縁が出来、どんなに貧困でも別れなかったのは、たんに共依存の関係にあったからだ。

 それは出会いからしてそうだった。


 月並みな出会いだった。ジャズ喫茶の客だった。

 彼が水曜、土曜の午後六時過ぎごろにカウンターに縮こまった背を向けて座ることを女は知っていた。半ばアル中で毎日通ううち、ある曜日のある時間だけ、店の隅っこにぽつんと座る冴えないコートの男がいると知った。気になった。男のコートは常に黒ずんだ深緑で、そのよれた皺だらけの背中は、暗い影だらけの彼という人間をよく語った。


 ある晩、あまり酒が入っていないうちに隣へ座り、音楽の話などをずけずけした。顔を見る前からぴんと来ていたが、見たらドンピシャだった。あとは彼が宇宙人だろうが金持ちだろうが関係なかった。気がつくと結婚し、二人の息子が生まれた。どんなに八つ当たりしても怒らず、ただ目を閉じてうつむくときの、彼の眉間に寄る深い皺が好きだった。普通は口数の少ない男と付き合うと不安になるものだが、彼女にそんなものはなかった。


 世の魅力的なゴロツキは、暴言やDVという捨て身でむき出しの自分を使って薄幸な女の心を掴むが、彼はそれらの代わりに、ジャズ喫茶の出会いから、彼独自の素晴らしい武器を披露した。

「僕は建築家でね」

 知ってはいても、マイルスだかゲッツだか誰が演っているのか分からない曲が遠いさざなみのように流れる中、彼はカウンターで、ストレートのジンが入ったグラスを回し、中で滑る氷を見つめて言った。一級建築士で、もうすぐ都内にでかい某有名企業のビルを建てる予定である。この街にも、自分の建てたビルがいくつもある。ほら君も知ってるだろう、駅前の○○屋(大型デパートの名前)、あれも僕の作だ。あの特徴的な看板のデザインには苦労してね。紙の上と実物とはえらい違いだ。それを成し遂げた建築会社は本当に偉大だ。あそこは日本の誇りと言ってもいいよ。そうだ、新しいビルが建ったら今度、連れてってあげる。きっと気に入るよ。入り口の周りに君の好きなスカイブルーのラインが引いてあってね――。


 最初のうちは、へえそうなのかと思ったが、すぐに嘘だと分かった。帰宅後に、彼が建てたという○○屋をネットで検索した。出てきた設計者の名前もプロフィールも、彼のそれとはまるで違っていた。顔写真も見た。彼とはまるで似ても似つかぬ別人だった。

 ふつうなら、こんな嘘吐きは気持ち悪いと思い、二度と会わないだろう。だが彼のまやかしに満ちた嘘話は彼女に刺さり、その奥深くまで響いた。彼の武器は彼女にド直球にヒットした。この人といつまでも一緒にいたい、と思った。

 こんな話をしなければならないほどに、究極に弱い男。惨めな男。全くなにも持っていない、なにもないスカスカの人間。

 これだ。

 これこそが、ありえないとあきらめていたはずの、自分の仲間、同志。

 これこそが、心から求めていたもの――。


 もちろん凄まじい対人恐怖の彼が、女を落とすべくそんな話をしたはずはなかった。ただ、うっかり気を許したのだ。女は出会うなり、先に自分の話をべらべらした。ジャズにはそう詳しくないけど、小学校でピアノを習ってて、コンクールで何度も優勝したわ。あら、今はもうダメよ。忘れちゃったし。かけっこで負けたことなかったわ。学級委員もよくやらされてね。今は仕事場で班長やってるわ。手当ても出ないから嫌なんだけど、なんか頼まれちゃうのよね。困るわ。


 彼は最初は嫌な感じを持った。誰でも人に自分の自慢ばかりされたらいい気はしない。しかも彼女の話は、終いには本当かと疑いたくなるほどに武勇伝だらけだった。

 ところが会って二、三回目で、がらりと気持ちが変わった。彼女の口調、声の震え、雰囲気、態度、その全てから何か甘いものが漂っているのに気づいた。彼にはそれがありがたい後光にすら感じた。自慢、強がり、そしてそれらの裏に潜む弱さ、はかなさ、空しさ。それは、打ちひしがれて荒んでいるはずなのに、なぜかあたたかかった。ぬくもりだった。彼は初めて、たとえ表面的でも、それが一時の妄想であっても、安堵なる感情を一個の人間に感じることが出来た。聖母の抱擁。母の愛。


 彼には人間は恐怖でしかなかった。惨めな自分を平気で悪気なく暴き、痛めつけて殺す権力だった。この女も基本的にはそのはずだ。げんに寄って来たときはぞっとした。しかし、今はもう彼女の顔をちら見して、口元に笑みが浮かぶほどだった。

 彼はつい、彼の本性をさらしてしまった。極度に気が小さく、自分が砂粒ほどの大きさもないと思っている彼は、普段は自分の思ったことを他人に素直に喋ることを決してしなかった。自分の肩書きが嘘であるくらいは彼自身も分かっているので、それを少しでも悟れば周りは徹底的に軽蔑し、気味悪がり、排除するだろう。

 公安なのだ。人間は全て警察で、自分はすねに傷を持つ犯罪者である。身分がばれたらもう、どんな場所にも入れてもらえないだろう。自分を知ったものは全て嫌な顔をして、さっさと逃げるだろう。

 だから普通は自分の仕事を誰にも言わないし、そもそも他人とは最低限度の会話しかしないようにしている。だが彼女には自分が「建築家」であることを吐いてしまった。言葉は息つぐ間もなく流れた。聞きながら女の目は輝いていた。



 こうして、彼は己の究極に恥ずかしい忌むべき姿を見せる相手を得た。見せることで女に依存した。彼女のほうも口先の自慢を聞いてもらうことで彼に依存したが、その裏には幼児期に受けた親からも暴力など、自分が傷ついたあらゆる酷い経験から来た負の部分が隠され、マグマのごとく煮えたぎっていた。


 結婚後、口ばかりで生活費をたかる彼に対し、何度も感情を爆発させ、その煮えたぎる怒りと悲しみをスープのようにひっかけた。だが彼は怒ることなく、ただ気難しく黙っていた。

 彼女を嫌うことは出来なかった。彼女が目の前から消えたら、もう誰も自分を相手にしないからである。そして、それは女のほうも同じだった。どんなに食うに困っても別れなかった。心配してくれる親友はおろか、女には珍しく一人の友達すらいなかったので、離婚という考えは浮かばなかった。

 二人のまともな生活は、生まれた次男が成長し、PC関係に就職するまでおあずけとなった。

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