ビューティフル・ワールド
クニシマ
2018/03/29 12:46
庭でうぐいすが鳴いています。北の海辺のこの町にも、ようやく遅い春がやってきたようです。階下から聞こえるのは母が掃除機をかける音です。私は自室で机に向かっています。
ひと月ほど前、近所のお姉さんが死にました。私はお姉さんのことが大好きでした。いいえ、大好きでした、なんて、昔のことを言っているようで変ですね。今も、これからも、私はお姉さんのことをずっと大好きなままです。
物心ついた頃にはもう、私はお姉さんと大の仲良しでした。お姉さんは五つ年下の私をとてもかわいがってくれました。周りの人からはよく本当の姉妹みたいだと言われましたし、私たちもお互いにそう思っていました。
お姉さんはいつも優しく、とても綺麗で、なんでも教えてくれる、神様のような人でした。本当に神様だったのかもしれません。少なくとも人間ではありませんでした。お姉さんは、人魚だったのです。これは私だけが知っている秘密です。お姉さんは美しい鱗を持った人魚でした。
もう十年は経つでしょうか、私が小学二年生、お姉さんが中学一年生だった、夏休みのある日のことです。私は、夏休みが始まる前に学校の図書室で借りてきた本を持って、お姉さんの家へ遊びにいきました。私はあまり本を好きではない子供だったのですが、その本の表紙には見たこともないほどすてきな絵が描かれていて、すっかり心を奪われたのです。私が自ら進んで本を読みたいと思ったのは、それが初めてのことでした。お姉さんの部屋で、お姉さんと並んで座り、一緒にその本を開きました。外国の絵本で、悲しい話でした。
夜更けの海辺で美しい人魚と出会った男が、自分の暮らす村の話を彼女に聞かせたところ、その村の景色が見たいとせがまれるのです。危ないからと一度は断ったものの強くねだられ、しかたなく連れていってやることにしたのですが、途中で人に見つかってしまいます。人魚の肉は貴重ですから、彼女はすぐに捕まり、抵抗した男は大勢の村人たちに無理やり抑えられます。気がつくと男は自分の家で寝ていて、体のいたるところにひどい怪我の痕がありました。そばで手当てをしてくれていた村人が言うには、男は夜の磯で転んで海へ落ち、それから今まで気を失っていたのだそうです。人魚は、と男は尋ねましたが、夢を見ていたのだろうとそっけなく返されるだけでした。しかし、男にはどうしてもあの人魚の姿が夢まぼろしだったとは思えず、家を飛び出して彼女を探しました。奇妙なことに、外には人の気配がまるでなく、どの家を訪ねてみても留守にしています。ただ一軒、村長の家からだけ、人々の明るい声が漏れてきていました。入っていくと、そこでは楽しげな宴会が行われており、おいしそうな料理がふるまわれています。それはすべて人魚の肉で作られたものでした。彼女は解体されていて、使いものにならない頭の部分だけが残っていました。男はそれを抱え上げて泣き喚きながら海へ向かい、打ち寄せる波の前に崩れ落ちます。そのとき、不思議なことが起こりました。男の指の隙間からこぼれた長い髪の先が海水に触れると、人魚はみるみるうちに元の美しい姿に戻ったのです。男は喜びましたが、彼女はさみしげな笑顔を残して消えていってしまいました。
読み終えてしばらくの間、私は泣きました。お姉さんも少しだけ涙をにじませていました。
その日の真夜中のことです。一階の寝室で家族とともに眠っていると、誰かが軽やかな音で窓を叩きました。見れば、窓の外にはお姉さんが立っています。お姉さんはいつもどおりの優しい笑顔で私を手招きました。私はとても混乱したのですが、お姉さんのところへ行くことにしました。足音を立てないようにしてそっと部屋を出たので、父も母も目を覚ますことはありませんでした。
私はパジャマのまま、玄関にあった適当な靴をつっかけて外へ出ました。お姉さんは、ついてきて、と言って手を差し出してくれました。私たちは手を繋ぎ、しんとした道をゆっくり歩いていきました。玄関が暗くてよく見えなかったせいか、私が履いてきたのは父の大きなサンダルで、歩く途中に何度か脱げてしまいました。そのたびにお姉さんは立ち止まり、私がサンダルを履きなおすのをじっと待っていてくれました。
辿りついたのは海でした。泳げるような場所ではありません。ごつごつとして聳える岩々に、大きな波がぶつかっては砕けるところです。月の光ばかりが降り注いでいました。お姉さんは岩場に私を座らせ、ひとこと「内緒ね」とだけ言って、それから跳ねるような足取りで水面へ飛び込んでいきました。そのまま少しの時間が流れました。お姉さんの消えた海は静まり返ったまま、ただ黒々とした波だけが寄せ返していました。言いようのない不安に襲われた私が泣き出しそうになったとき、突然、光り輝く鱗が波間に現れました。私は息をのみました。それはひどく美しく、鮮やかに月光を映し出したのです。
初め、私はそれがお姉さんだと気づけませんでした。私は岩場から身を乗り出し、その鱗の煌めきをもっとよく見ようとしました。けれどそのうちにふと足を滑らせてしまいました。あっと思う間もありませんでした。私の体は真っ逆さまに海へと落ちていきました。私は強く目をつぶりました。しかし、思っていたような衝撃は訪れませんでした。足から外れたサンダルが水面を叩くばちゃんという音だけが聞こえました。おそるおそるまぶたを開けると、目の前にお姉さんの微笑む顔がありました。白く細い腕をいっぱいに伸ばして、私を受け止めてくれたのです。その澄んだ瞳に、私の姿がくっきりと映り込んでいました。
お姉さんは私を抱き上げたまま、しばらく海を泳ぎまわってくれました。大きな月に照らし出され、私たちは夜の海を漂いました。いつの間にか私は涙をこぼしていました。何かが悲しかったのではありません。ただ、お姉さんも、空も、月も、波も、私自身さえも含めて、そこにあるすべてがあまりに綺麗でたまらなかったのです。
そこからどうやって家へ帰ったのかは覚えていません。気がついたときにはいつもと変わらない朝で、私は母に揺り起こされていました。海に落としてしまったはずの父のサンダルも、元のとおり玄関にありました。きっとお姉さんが見つけて戻しておいてくれたのでしょう。
その日もお姉さんの家に行きましたが、お互いに昨夜のことは話そうとしませんでした。なんとなく、なんとなくですが、太陽の明るい光が差す中でその話をすれば、すべて崩れてしまうような、忘れてしまうような気がしたのです。
私たちはまるで何もなかったかのように遊びました。その頃よく流行っていた、ビーズとテグス糸でネックレスやらブレスレットやらを作ることができるおもちゃを使い、お互いにアクセサリーを作って交換し合いました。私はお姉さんのために、青いビーズをたくさんと、星や月や貝殻の形をしたビーズをいくつか、それからマーメイドの形の大きなビーズをひとつ繋げ合わせてネックレスを作りました。使ったビーズが多すぎたせいで、やたら長く不格好なものになってしまいましたが、お姉さんはとても喜んでくれました。そして、桜色のビーズと花びらの形のビーズを使ったブレスレットを私に作ってくれました。
そのブレスレットはとてもかわいらしくて、中学生の終わり頃まで私はどこへ行くときでもそれをつけて出かけていました。高校に上がり、ビーズでできたアクセサリーを少し恥ずかしく感じるようになってからも、お姉さんと会うときは絶対につけるようにしていました。お姉さんもまた、私の作ったネックレスをつけてくれていました。
あの日もそうでした。お姉さんが死んだ日です。よく晴れていて、空気はとても冷たくて、町はずれの道は踏み固められた雪に舗装されていました。私とお姉さんは並んでそこを歩いていました。滑らないように気をつけてね、とお姉さんが気づかってくれたことを覚えています。
道の先の小さな横断歩道を渡ろうとしたとき、大型のトラックが凄まじい勢いで私たちの目の前を通りました。ふたりとも慌ててあとずさりました。そのとき、お姉さんの着ていた長いスカートの裾がはためき、大きなタイヤの回転に巻き込まれたのだったと思います。お姉さんは転び、強く頭を打ち、そのまま道を引きずられていきました。そして、路傍にあった、あれはなんだったでしょうか、ガードレール、それとも何かの看板だったかもしれません、とにかく、そこにネックレスが引っかかったのです。トラックは止まりませんでした。止まらずに、お姉さんの体を攫っていこうとしました。白い首筋にテグス糸がくい込み、少しの間だけかすかに震え、やがてぶつりと弾けました。無数のビーズが地面に飛び散り、勢いよく転がっては私の足にぶつかりました。お姉さんの顔はこちらを向いていました。まぶたは開いていて、まだ私を見ていました。ひとすじの赤い痕が首元に走っていました。
お葬式はその週末でした。近所の人がたくさん来ていました。みんな、私を見ると涙をこらえるようにしてうつむき、そっと声をかけ背中をさすってくれました。けれど私はそんなことをしてもらいたかったわけではありませんでした。だから出棺を見送ったあとはすぐに帰りました。
翌日、お姉さんの家族が私の家を訪れて、手のひらにおさまるような封筒をくれました。そこにはお姉さんの遺髪がわずかばかり入っていました。それが最後に見たお姉さんになってしまったからでしょうか、その日からどんどんと時間が経っていくにつれて、人魚だったお姉さんの姿を思い出せなくなっている気がします。あんなにも綺麗だった鱗の輝きさえ、思い描こうとするたびほつれるようにして薄れていってしまう気がします。
だから私は確かめにいくことにします。この遺髪をあの海の波間に散らしたら、またそこにお姉さんの美しい鱗が煌めくかどうかを。もしも、舞った髪がそのまま水面にまぎれて消えてしまったなら、そのときは私もお姉さんと一緒に海へ帰ろうと思います。
窓の外では、薄曇りの空からやや光が差し始めました。母は掃除を終え、庭で洗濯物を干し出したようです。私はひとりでうぐいすの声を聞いています。
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