モスマン帝国の野望

矢尾かおる

第1話 モスマン帝国の野望


 昨年近所にできたハンバーガーショップ『モスマン帝国』の定番メニューはA・B・Cセットの3つで、どれも満足度は非常に高い。がしかし田中のお気に入りはダントツでAセットだった。


 モスマンで一番安価なAセット。フライドチキンとオニオンリングとハンバーガーが一緒になったその格安メニューはなんと880円で、今の時代では信じられないくらいコスパが良い。

 ハンバーガーのバンズはパリッと火が通してあって、麦の香りが香ばしい。シャキシャキのレタスには甘く爽やかなハニーマスタードがよく馴染み、食べ始めると止まらない。

 熱々のパティは香辛料がよく効いていて、噛めばじわっと脂が出てくる。そんなちょっとした感動すら味あわせてくれる100%ビーフの肉厚パティが、なんと二枚も入っているんだから信じられない。この店でAセットを完食する度本当に採算は取れているのだろうかと心配になる田中だが、多分オーナーが道楽でやっている店なのだろうと自分を納得させている。

 誰かに旨いハンバーガーを食わせるのが趣味の大金持ち。

 多分油田とか持ってる感じの、品の良い初老のおっさん。

 そんな妖怪みたいな人物が存在しなければ、こんなに美味い店がこんな深夜までこんな値段で営業している理由がない。

 スーツの裾を少しまくり、田中は死んだ魚の眼で腕時計を眺めた。時刻はもう午前二時だった。田中は社畜、仕事終わりである。


「Aセット一つ」


 手狭なカウンター席でそう言うと、いつもの店員が無言で頷いた。実に愛想のない人だ。入店時に「いらっしゃいませ」と言われたことは未だに一度もありはしないし、オーダーを繰り返されたこともない。

 全く以て教育がなっていないと思う。彼女がもし我が社に入社することになれば、きっと死ぬほどいびられるだろう。……なんて可哀想なんだ、こんなに可愛らしい女の子が、あまりに無惨だ、ブラック企業なんて滅びてしまえ。

 田中が一人そう考え落ち込むくらいには可愛い顔した若い店員は厨房の方へ消え、ジャージャージュージューとやり始める。


 店の奥から漂ってくる良い香りに、ぐぅと腹が強く鳴った。

 田中は、腹が減ると少しばかりイライラするタチだ。がしかしいくら普段社内で奴隷のような業務に勤しみ、はち切れんばかりの鬱憤が溜まっている田中でも、「オセーゾバカヤロー!!」などと叫ぶことはない。田中は普段常識人を演じている。無論、腹の中はそうでもないが。


「オセーゾコノヤロー!! ……しかもなんだぁテメェ? このクソなげぇツインテールはよぉ? 飲食店の店員がしてて良い髪型じゃねぇなあオイ? オラちょっと匂いかがせろ。 ……あぁ、たまんねぇ、一発ヤらせろこのヤロー、S(セックス)セットプリーズだ」


 ドンと置かれたトレイの音で、田中は死んだ魚の眼を開いた。

 うとうとしている間に口のハシから漏れた下卑た妄想の跡を拭い、こちらを見下ろす女店員から目を逸らす。

 年上の男を舐めきった若い女の目。これ以上そんなものを眺めていたら、本当にどうしようもなくなってしまう。三日も仕事で家に帰れず、溜まっているのだ、こっちは。


「ありがとう、いただきます」


 死んだ目にシワを寄せ、田中は楽しみにしていたハンバーガーを頬張った。

 合間合間に水を飲み、オニオンリングとフライドチキンをむしゃむしゃやって、僅か五分の間に完食。大変旨い。旨いがしかし、なぜだろう。今日はいくら食べても食べ足りない。


「……Bセット追加で」


 ちょっとばかり常識はずれな田中の注文を聞いて、店員はあざ笑うような笑みを浮かべた。ニヤリと上がった女の目尻を見上げる田中はやはりまだ空腹なようで、ひどくイライラした気分だった。


「店内でお召し上がりですかあ~?」


 当たり前だろそんな事。

 ムッとする田中を歯牙にもかけず、女はその身を翻す。細長のツインテールは弧を描き、触覚のように田中を見据えた。見え隠れする小さな尻に、田中は密かに唾を飲む。

 今日は特別イライラする。誰かにこの気持をぶつけずにはいられない。……そう例えばあの店員に難癖をつけ、無理矢理にねじ伏せて、恐怖に歪む生意気な瞳をジッと見ながら、思い切り腰を……。


「……Cセットまでいっちゃうんですかあ~?」


 いつの間にか運ばれていたBセットを口へ運びながら、田中は自分を見下ろす女に頷いた。


「……あぁ、そうだった。早く、何でもいいから持ってきて」


 目の前に置かれたトレイには、もう何も入っていない。乱暴に食い散らかした跡だけが残るBセットの内容は、……何だったろう? とにかく次だ。そうじゃないと、このイライラを眼の前の女にぶつけてしまう。

 女の尻に手を伸ばしたい気持ちを抑えながら、田中はいつの間にかCセットまで平らげていた。腹だけはパンパンに膨らんでいたが、なぜか全く満たされない。田中は更に注文を続ける。


「……すっごい性欲ですねえ~、お客さん♥」


 カウンターの先から覗き込むよう田中の下半身を見つめる店員の胸元を、貪る田中も上から眺める。細い体には不似合いな二つの膨らみは、なぜなのだろう、いつものエプロンで隠れていない。


「いや、違う、俺はただいくら食べても食べ足りないだけで……」


 一体何でこっちが言い訳を探しているんだろう。

 明かりの消えた店内に全裸で立つ女を眺めながら、田中は震える手で財布を出した。もう帰りたいし、きっと帰らないといけない。ただその一心で過酷な労働の対価を差し出す。震える手で、何枚も、何枚も。


「いいんですよお~♥ 食べて寝て交尾する為にぃ、お客さんは生きてるんですからあ~♥」


 女の冷たい指に触れられると、田中の手に握られていた万札は呆気なくこぼれ落ちた。ひらひらと宙を舞う茶けた紙はやがて汚れたテーブルの上に落ち、ゆっくりと赤い染みを滲ませる。綺麗だと、なぜか田中はそう思う。

 いくら汚れても一円分の価値も失わないその紙切れを見詰め、田中は涙を滲ませながら、シャキシャキのレタスを飲み込んだ。


「……ウマすぎる」


 トレイの上に散乱したレタスの欠片を一つ一つ指に貼り付け、田中はそれを口へ運ぶ。その間もずっと、自分を見下ろすしなやかな女の体からは目を離せない。

 白・白・白。この街に降る雪よりもよほど純白なその裸体は少しづつ田中の方へ迫ってきて、やがて一面を覆い尽くした。

 自分を社畜たらしめる革のベルトを緩め、その奥から出てきたものを、田中は必死に擦りつけた。気持ちがいい。雪よりも柔らかく、そして何より冷たくない。

 仕事で家に帰れず三日ぶりとなったその恍惚とした感触は白く白く田中の意識に塗り込まれ、やがて意識を失うように、果てた。


「……」


 くたくたに椅子から崩れ落ちた田中のことを、女はやはり見下ろしていた。

 真っ白な肌。大きな瞳。触覚のようなツインテールをふわふわと蠢かせて、真っ白の粉を散らすその女は、もう明らかに人間の姿をしていない。だからこれはきっと夢に違いない。そうじゃなきゃ、ハンバーガー屋でこんなコト、自分が致すワケがない。

 微睡みに落ちてゆく田中の耳を、不意に甘ったるい声がくすぐった。


「いらっしゃいませぇ~♥ モスマン帝国へようこそぉ~♥」


 そして次に目を開くと、愛想の良い声を発するあの店員が居た。さっきまで裸の人外だったその女はいつも通り、モスマン帝国の制服を着用して、人間の姿をしている。田中も、いつもと同じヨレヨレのスーツを着ている。

 客と店員。いつも通りのその二人は、しかしちょっと異様な光景の中に居た。


「……ここ、どこ?」


 田中の立つ鬱蒼と茂る森の中には、見慣れた『モスマン帝国』の看板が立っている。見渡す限り緑色の自然風景の中にあるその電飾まみれの看板はあまりにも不自然で、しかし今はそんな事気にならない。それくらいには異常な行為が、森のそこかしこで繰り広げられていた。

 この異様な森の中では、成熟した裸の男女が、まるで動物のように行為に励んでいる。

 交尾の森。そう呼ぶに相応しい異形の世界で、田中は更に目を見開く。


「……中山!?」


 見知った人の顔を見て、田中はそこへ走り寄った。

 中山。そう呼ばれた若い男は、草陰から一瞬田中の顔を見た。がしかしすぐにまた、パートナーとの行為に集中し始める。

 中山は以前数ヶ月だけ田中の職場に存在した元同僚で、何を考えているのか分からない無表情の小男だ。机の中に辞職届けを置いて去っていったきり行方知れずだった中山が同性愛者だということなど、無論田中は今まで知りもしなかった。


「だめですよぉ、ちゃんとメスと交尾しないとぉ~」


 低い声で呻き合う中山と見知らぬ男を引き剥がすと、モスマンの店員は傍に寝転ぶ女にそれをあてがった。文字通り、その女の入り口に、未だ勃起しているクソまみれの棒切を。


「……困っちゃいますよねぇ?」


 なんだか煮え切らない様子で腰を振る中山から目を逸らして、店員は田中に微笑んだ。


「マジでここ、なに……?」


 再びそう聞いた田中の手を引いて、店員は森の奥へと歩き始める。入口も出口も分からない田中は、仕方なくそれに従った。

 暗く広大な森の中は、どこまで行っても交尾交尾。最初は普段見慣れない他人の生交尾にばかり目が行っていた田中は、しかし十分もしない内、ある事に気がついた。


「知ってますかあ~? 猫のメスは痛みを感じないと排卵しないんですよお~?」


 毛玉のように可愛らしいオス猫の股間から伸びる棘まみれの男性器を指差しながら、店員はそう言った。やがてそれが雌猫の中へ入り込むと、春の夜中に聞き慣れた、世にも不気味な音が響く。

 まるで車に轢かれた子供のような絶叫が響く森の中は、やはり交尾・交尾・交尾。

 羊・犬・豚・馬・牛・人。

 そこかしこで繋がり回るそれら動物たちは、しかし必ずや自分と同種のパートナーと、子孫を残すことに励んでいる。

 まるで初めから答えの決まっているパズルのような仕組まれた光景にやがて目眩がしてきた田中は、フラフラと森を進む。

 やがて緑は開けてきて、この森に集められた動物たちの『巣』とも言える群落へ辿り着いた。これだけ交尾をすれば当然だとばかりに大量繁殖した『様々な子供達』でひしめく居住区画を眺めながら、田中は再度店員に聞いた。


「ここは一体、なんなんだ……!?」


 繰り返す田中の問いには答えず、店員はただ微笑む。挑発するよう蠱惑的に、触覚のようなツインテールを揺らし、挑発的な声を上げる。


「まだ分からないんですかあ~?」


 フサフサとした白い触覚が田中の体に触れると、解れるようにスーツが溶けた。

 もう何年も続く過酷な労働で不健康に痩せこけた田中の体は、それなのに元気な下半身から真っ白の糸を吹き出す。

 くるくると弧を描き宙を舞い続けるその糸はビュルビュルと勢いよく溢れ続け、やがて田中の頭からつま先までを覆い尽くした。自ら作り出した真っ白の暗闇の中で、田中はやがて田中でなくなる。着ていたスーツと同じように、田中はパシャリと弾けて溶けてしまう。それでもなぜか生きている。さっきまで田中だった液体で満ちる白い繭の外から、女の声がまだ聞こえる。


「……まだ分からないんですかあ~?」


 甘ったるい女の声を聞き、液体の体は乾いていく。サラサラからドロドロになり、表面はカサカサして、気づくと一枚の膜に覆われている。

 先程まで消えてなくなっていた脳みそはすっかりと中で実を結び、普段無いくらい冴えている。こんなにも良く眠ったのはいつぶりだろう?

 やがて繭の中から出てきた田中だった何かは、這うようにして着た道を戻った。彼はもう田中ではないから立って歩くことができなかったが、だからこそ森の入り口へ戻り、交尾をするより術はなかった。

 退化したのではない。適応したのだ。この森に、さっきまで田中だった何かは。

 それを証明するために、彼はそこかしこで女を抱いた。


「やっと分かってもらえたんですねえ~♥」


 ハンバーガー屋の中であれほど興奮した店員の裸が目の前に現れても、もうそれは勃起しなかった。代わりにどこか慈しむような気持ちで、彼は掌の中の真っ白な生き物を撫でた。

 それは真っ白な蛾だった。ぼてっと重そうな体を持ち、翼は小さい。飛べず、代わりにもぞもぞと動き回り、必死にパートナーを探している。

 いつのまにか白い蛾で埋め尽くされていた地面にそれを置くと、彼女はすぐに交尾をおっ始めた。おんなじだ、自分と。

 白い蛾は交尾を終えるとすぐに息絶え、植え付けた卵から幼虫が孵る。最初黒かった幼虫は敷かれた葉っぱを貪って、やがて白く大きくなり、美しい繭を作る。そこが人生のピークという感じがするのは、彼が田中だった頃の名残だろうか。

 かつて田中だった家畜はそれをいくつか手に取り、店員へ手渡した。それが今の彼の仕事であり、やがて生まれてくる彼の子供の仕事でもあった。


「ご来店ありがとうございましたあ~♥」


 絹の繭を胸いっぱいに抱きながら店員がお辞儀をすると、田中は元居た場所に戻っていた。

 夜の街中に輝くモスマン帝国の看板をぼうっと見詰めながら、田中は頬についたケチャップを拭った。パンパンに膨れ上がった腹には、やはりまだ空腹感が残っている。

 そして、なんと都合の良いことだろう。近くの公園のベンチには、泥酔した若い女がいびきを立てている。

 腕時計は午前三時を差していた。明日もまた七時に起きて会社へ行く田中は一瞬だけ憂鬱な気分に囚われたが、そんなことはもう関係なかった。

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モスマン帝国の野望 矢尾かおる @tip-tune-8bit

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