乗客

傘立て

 

 タクシーの運転手などという仕事をしていると、いろんな種類の人間を見る。神様に見えるほど優しい人から、お前よく今まで今まで刺されずに生きてこれたなと思うのまで、様々だ。イマジナリーフレンド透明なお連れ様とともに乗りこんでくる人というのも、まあ、ごく稀にいて、そういう事態にも顔色を変えずに対処できる程度には、我々運転手は慣れされている。だから、大きな黒いぬいぐるみを抱いていたその若い男が「この人もいいですか?」と訊いてきたときも、とくに驚きはしなかった。

「もちろんです、どうぞ」

 そう答えると、男はほっとした顔になって、それから申し訳なさそうに、

「あと、荷物もすごく多いのですが」

 とつけ足した。

 たしかに荷物は多かった。海外旅行にでも行くような大きなスーツケースのほか、底の広い紙袋が足元にいくつも置かれている。それでも、車のトランクと座席をフル活用すれば入らない量ではない。スーツケースといくつかの紙袋はトランクへ、入りきらなかったぶんは座席の足元に詰めて、なんとかおさまった。随分重いなと思ったら、紙袋の中はすべて本だった。二人がかりで持ち上げたスーツケースも同様だと言う。

「全部本ですか。すごい量ですね」

「古本屋のおつかいなんです。車がないから少量だけ引き取る約束だったのが、膨れ上がっちゃって」

 常連客が引っ越すにあたり、蔵書の整理に呼ばれたのだと言う。車なしでこの量はいくらなんでも膨れ上がりすぎだし、不用品をていよく押しつけられたのだろう。目の前の男は若くていかにも人の良さそうな風貌をしているから、舐められたに違いない。グレーのパーカーにデニムという格好も、頼りなさに拍車をかけている。

「学生さん?」

 何も知らないアルバイトの子が派遣されたのかと思って訊くと、「会社員です」と意外な答えが返ってきた。

「書店の従業員の方じゃないんですか」

「ただの客なんですよ。何回か通って顔は知られているんですけど、今日たまたま立ち寄ったら、そこの店長に暇なら行ってくれって」

 いや断れよそこは、という声を喉元でなんとか堪えた。頼む方も頼む方だが、引き受けるのもどうかしている。人が良すぎるだろう、この人、大丈夫だろうか、新聞を何紙も取らされたり、妙な鍋や絵を売りつけられたりしてないだろうか。だんだん心配になってきたが、本人は気にする様子もなく座席に乗り込む。ご丁寧に、隣に座らせた黒いぬいぐるみにシートベルトまで掛けている。やっぱりちょっとおかしい人なのかもしれない。

 

 三鞘町まで、と指定された。古い建物が多く、ひと昔もふた昔も前の風情を残したエリアだ。狭い道が迷路のように入り組み、一方通行も多く、新人運転手泣かせの地区でもある。私自身、学生の頃は古い街並みが好きで何度も通ったが、ここ最近は足が遠のいていた。

 三鞘町の近くまでは、大きな道路をまっすぐ進む。休日の大通りは混みすぎることもなく、暖かい日差しもあいまって、車を走らせるにも気持ちの良い午後だった。何度目かの信号待ちでバックミラー越しに後部座席に目を向けると、座席に行儀良く座るぬいぐるみに視線がとまった。中型犬に近い大きさがあるが、黄色く光る目と鼻の短い丸い顔は、犬のものではない。

「猫ちゃんですか?」

 問いかけると、男はにこやかな様子でぬいぐるみをシートベルトから抜いて持ち上げた。

「猫又なんですよ」

 そう言って、ぬいぐるみの尻尾を掴んで見せる。なるほど、丸い体の下には、男が掴んだものに加えてもう一本、長い尻尾が垂れていた。

「猫又のぬいぐるみですか。珍しいですね」

「お守り替わりに持っていけって、店長が」

「ああ、古本屋さんの」

「そう。今日はもう遊びにいっちゃいましたけど」

「店長なのに……」

「いつもそうらしいんですよ。主な店番は甥っ子さんがやってます」

「お店は、店長さんとその甥っ子さんのふたりで?」

「あとは店主っていう、人間みたいな黒猫がいます」

「猫又だ」

「そうそう」

 喋っているうちに、周囲に古めかしい建物が増えてきた。三鞘町の入り口だった。男の案内で、入り組んだ町並みの奥へ進んでいく。複雑な道順だが、説明は澱みなく、行き止まりや一方通行を避けて適度な幅の道路を選んでいるのが分かった。曲がり角や進路の指示のタイミングも的確だ。随分、手慣れている。

「もしかして、店長さんのおつかいってよく頼まれるんですか?」

 思わず心配になって訊いてしまったが、男は笑顔で否定する。

「違うんですよ。頻繁に通ってるうちに道を覚えただけです。結構奥まったところにあるでしょう。最初のうちは迷うことも多かったので、いろんなルートを試したんです。それで、車で通るなら今日のこの道だなと思っていて」

 まあでも、一回引き受けちゃったら次も頼まれるかもなあと、男は屈託なく笑った。お人好しは天性で備わったものなのかもしれない。シートベルトに戻されたぬいぐるみの黒い頭を、男は本物の猫にするような手つきで撫でている。

 

 ここです、と言われて車を停めた目の前にあったのは、今にも崩れ落ちそうな古い建物だった。小さな店構えから、本が溢れ出している。店先の地面に置かれた「古書シャノワール」と書かれた立て看板だけが、妙に小洒落ている。

 車のドアを開けたところで、店のガラスの引き戸が開いて、奥から店員と思しき若い男性が出てきた。客と同じぐらいの年齢に見えるから、話に出てきた甥っ子のほうだろう。肩に垂らした長い髪に、黒猫のぬいぐるみと同じような艶がある。車から降りる人物を見て、おや、という顔をした。

「お帰りなさい……、あれ、吉川くん?」

「ただいま。なんか来たら店長に頼まれて」

「叔父さんに? え、じゃああの人……」

「そのまま遊びに行ったみたいだよ」

 喋りながら、吉川と呼ばれた客の男はぬいぐるみをシートから下ろし、店先のカゴに置き直す。「一冊五十円」と書かれた紙が貼られたカゴの本の山の中に、ちょうどぬいぐるみがおさまるぐらいの隙間があった。

 

——ごめんね本当に。叔父さんにはよく言っておくから。吉川くんも次は断ってよ。さっきから店主もいないしさあ。どこに行ったんだろう。ところでそのぬいぐるみ、何? 大きいね。猫? 買ってきたの?

 車から降ろされた荷物を受け取っては運びながら長髪の男はよく喋り、吉川は荷物を手渡しながらニコニコと頷いている。三人がかりなので荷下ろしはすぐに終わり、長髪の男は車代は自分が払うと言って大急ぎで財布を取りに店の奥に引っ込んだ。

 春のはじめの風と、やわらかな光が心地良い。代金を待つ間、車の外で待っていると、視界の端で黒い影が動いた。先ほどのカゴの中だ。動きを追うように目を動かして、驚いた。

「……あれ?」

 そこにいたのは、ぬいぐるみではなく、本物の黒い猫だった。かなりの大型だ。中型犬ぐらいはありそうな気がする。猫は丸い体をさらに丸くして、首だけをこちらに向けた。三角の耳が片方だけ、虫でも払うようにピシピシ動く。

「猫……?」

 こちらの様子に気づいたのか、吉川が近づいてくる。わけがわからないまま顔を上げた私に、吉川は含み笑いで応えて、片手をかざした。そのまま、人差し指を唇にあてるポーズをする。

「内緒にしておいてくださいね」

 店の奥に目をやりながら、人の良い笑顔でにこやかに言う。誰に対しての秘密なのかは、目配せで知らせてくる。吉川は黒猫と目を合わせてから、再びこちらを向いて、念を押すように微笑んだ。ぬいぐるみと猫との関係は、吉川だけが知っているのだろうか。お人好しにしか見えない男は、案外、悪い奴なのかもしれなかった。

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乗客 傘立て @kasawotatemasu

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