愛、あるいはウェイトベアを
アイビー ―Ivy―
愛、あるいはウェイトベアを
背負い籠いっぱいに、プラムや、梨や、ラズベリーを詰めて、カミルは頰をばら色に染めながら丘を駆け上がっていた。
梅雨の長雨のあとの、みずみずしい晴れの日のことである。爽やかで花の匂いがする風が吹き、カモミールが丘の頂上で、波のように揺れていた。その花畑の真ん中にはどっしりと赤煉瓦の家が立ち、綿雲のような煙を吐き出している。扉に黄色のペンキが塗られ、窓にはモスリンのカーテンがかけられていた。
カミルは今年、十一歳になる少年であった。つばの広い麦藁の帽子をかぶって、長袖の上下に、ネイビーの日傘を差している。首筋にしっとりと汗をかくほど暑い日だったが、カミルがこんなに厚着なのには訳があった。
丘を登りきり、家の裏口の戸を開けると、水甕のひんやりした空気がすっと肺に入っていく。カミルは日傘をたたみ、帽子をとって、袖をまくると、明るく愛らしい声で言った。
「ただいま戻りました、おばあさま!」
はらりとうなじにかかるのは、白百合のように透きとおった髪。清潔に整えられているが、今は汗に濡れていた。まつ毛も穢れなき純白で、髪と同じ色をしている。ぱっちりとした真紅の瞳はいつでも楽しげな光が浮かんで、笑顔を見せるとえくぼができるのだ。カミルはアルビノである。
裏口はすぐキッチンに繋がっていて、かまどでは白銀の髪をぎゅっとまとめ、頬がふっくらとした老婆が、腰を曲げて灰をかき出していた。カミルの声を聞くなり、ひょいっと眉を上げて腰を伸ばし、しわくちゃの顔にうららかな笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。梨はどうでしたか」
「豊作だそうですよ。ほら、こんなに丸々としているんです」
「本当。では、プラムはひとつ、つまみ食いしてもいいですよ。その代わり、梨のタルトを焼くのを手伝ってくださいね」
「はい!」
そこでふと、カミルはほんのりラズベリージャムの甘い匂いと、硝子のポットになみなみとあるダージリンティーに気づいた。台の上に、カップケーキと一緒に置かれている。カミルは小首をかしげると、老婆に尋ねた。
「誰か、お客さまでもいらしているのですか?」
「まあ。なぜ?」
「カップケーキからラズベリーの匂いがします。おばあさま、ラズベリーはお好きじゃないでしょう?」
僕は好きだけれど、とこっそり心のなかで呟くと、老婆はさらに笑みを深め、しっかりと頷いた。
「えぇ、えぇ。いらしていますよ。ほら、いつも、ぶどう酒やラム酒を持ってきてくださるおじさまです」
「えっ!」
途端に、カミルは飛び上がって、目をきらきらと輝かせ、老婆のエプロンをぎゅっとつかんだ。
「おじさまですか? あの、ガルシアおじさま? 間違いないのですか」
「もちろん、間違いはありませんよ。ご挨拶していらっしゃい。いらしてから三十分も経っているのよ」
「大変! おばあさま、籠はここでいいですか。洗うのはあとででいいですか」
「わたしがやっておきますよ。早くお行きなさい」
カミルは高鳴る心臓を押さえつけて、上ずる声で「ありがとうございます」と言うと、革財布を老婆へ返してから、ぱっと居間のほうへ駆け出した。
***
アーサー・ガルシアはもう四十路にもなるおじさんで、きつくつり上がった目とは対照的な、穏やかな光を瞳に宿した、街道の隅で営んでいる酒屋の店主だった。細身だが、がっちりとした体つきをしていて、カミルを見かけては撫で、お菓子をお出しすれば褒めちぎり、ときには不思議な話をする、気のいい人だった。もう足腰の弱い老婆や、力のないカミルに代わって、荷車を引いて酒を売りに来てくれている。
居間では、カーテン越しに白い日光が差し込んでいて、窓際のミニバラが淡い色にふわふわと輝いている。カミルが刺繍をしたテーブルクロスはきっちり敷かれていて、そのなかで、ひげをたくわえたガルシアが蔦模様のティーカップで紅茶を飲んでいた。
「ガルシアおじさま!」
ガルシアは顔を上げて、輝かしい笑顔でこちらへ駆けてくる雪玉みたいな少年を目に入れると、「おぉ!」とカップを置き、これでもかと破顔した。
「カミル! 元気か」
「はい。おじさま、僕は今年、一回も風邪をひいていないんですよ。おじさまもお元気ですか? お風邪を召していませんか?」
「なに、このおれが流行り病になんぞなることはない。いつも薬酒を飲んでいるからな」
「おばあさまが飲んでいらっしゃる薬酒ですか? それなら安心ですね。だって、おばあさまは今年も、リウマチにならなかったんですよ」
「そうか。そんなら、長生きするだろう」
膝によじ登って頬にキスを交わすと、カミルはにっこり笑いながらガルシアの肩に顔を置いていた。
丘をくだって街までは三十分もかかるし、カミルは日光にあたれないから、街にはあまりいられない。八百屋で果物をほんの少しおまけしてもらって、肉屋で揚げたての骨付き肉をほんの少しかじらせてもらって、糸を買って型紙を貸してもらえば、カミルは同い年の子どもとも遊ぶことなく帰らなければならないのだ。
でも、ガルシアは毎回家に来てくれるし、たまに同い年の、アンドリューとレイチェルという街の双子を連れてきてくれることもある。カミルはこれでもかと懐いていて、おじさまと呼び慕っていた。
「ねぇおじさま。その袋はなんですか? 綺麗ですね」
ガルシアの横の椅子にあった、黄色のりぼんがかけられた小袋を指差す。大きくて、カミルが両腕を広げてやっと抱えきれるくらいだ。いつものお酒かしらとは思ったが、それにしては横幅があるし、ごつごつしていない。それに、装飾がつるばらの模様で、可愛らしくて、品が良かった。お酒にこんな包装紙は使わないだろう。
ガルシアはハッとしたように目を広げ、それからすぐ笑顔になった。
「おまえへの贈り物だよ」
「えっ!」
一瞬、ぱっと火花のように瞳を輝かせたが、すぐに眉尻を垂れて、困惑したように首をかしげた。
「でも……。でもおじさま。僕の誕生日までは、あと一ヶ月以上もあるんですよ。今日はなんでもない日なのに、いいんでしょうか」
「応とも。いいんだよ。受け取っておくれ」
カミルは落ち着かなさげに指を絡ませながらも、ありがとうございますと喜色をにじませた声で頭をさげた。ガルシアは照れたように頭をかき、手を振ってあけるように促している。
カミルはそっとりぼんに手をかけて、ゆっくり結び目をほどき、包装紙の中をのぞきこんで……カミルは湧き立つような歓声をあげた。
「気にいったかい」
「はい!」
大きなミンク毛皮のぬいぐるみだった。
くりくりとした目は明るく輝いていて、首元にはサテンのりぼんがかけられていた。ふわふわと手触りはよく、腕を首にかけることもできる。ぎゅっと抱きしめるとやわらかい感触がカミルを押し返した。まるで雲海を詰め込んだようなクマのぬいぐるみである。
何より、そのクマはとても重かった。持ち上げようとしてわかったのだが、赤子くらいずっしりと重いのだ。危うく取り落としそうになって、カミルは慌てて椅子に座らせて、腕を回して抱きしめた。
「ありがとうございます、おじさま。とっても嬉しいです。毎日いっしょに寝たらいい夢が見れそうですね。ねぇおじさま、この子は汽車に乗る夢を見してくれるかしら?」
「見してくれるだろうとも」
「そしたらこの子もいっしょに行きたいな。一人旅なんて嫌です。つまらないし寒々しいでしょう?」
「一人旅は嫌かい」
「はい。おじさまは大丈夫なのですか」
「いや。……」
それっきり、ガルシアはむっつりと黙ってしまって、窓の外をながめていた。
なだらかな丘をくだったさきには、石造りの家が並んで、電飾がいたるところにめぐらされているのだろう。煤けた看板と、しなびたキノコや野菜を並べた八百屋の老爺が不機嫌そうに新聞を読み、猫がすばしっこく、ラズベリーをひとつ、くわえて走っているに違いない。赤やら灰やらの家がごちゃごちゃとしているが、カミルはここに住むことを夢見ていると思えば、ガルシアは胸の左側がするどく痛んだ。
しばらくそうしていると、ガルシアはふっと、大人しくぬいぐるみを抱いてたたずんでいるカミルを見て、軽く微笑んだ。
「このぬいぐるみを縫った針子の話を聞きたいかい」
途端、カミルは飛び上がらんばかりに目をきらめかせた。ガルシアがこう言うときは、大抵、面白くも不思議なお話を聞かせてくれるのだ。カミルは、汽車で黄金の国に行った話だとか、八百屋の老爺が実は船乗りで、嵐の中、イカの化け物と戦ってお宝を見つけた話だとかが大好きだった。
「聞きたいです。聞かしてください!」
「はは。そんなにかい」
「そんなにです。ね、おじさま。その針子はお姫さまのぬいぐるみも縫ったの?」
「ぬいぐるみは縫っていない。が、ドレスは縫ったことあるな。ほんの少し、だがな」
「すごい!」
カミルはすっかり興奮してしまって、頬は紅潮して、心臓はドキドキと跳ね回り、耳元で血がごうごうと流れる音を聞いていた。
そんな一気に体温があがったようなカミルを見て、ガルシアはさらに微笑み、穏やかな口調で語り始めた。
「あの、丘のふもとの街の、ベーカリーの曲がり角に、仕立て屋があるだろう。……あすこにかつて、気狂いの女がいた」
カミルは心臓がとまるほどびっくりして、ぽかんと口を開けたまま、何度か瞬きをした。ふさふさとまつ毛が揺れて、ぎゅっと手を握り合わせる。
ガルシアはいつでも優しくて、穏やかで、気のいいおじさまだった。……気狂いなんて乱暴な言葉、カミルは、一度もおじさまの口から聞いたことがなかったのだ。
「気狂いだが、美しい女だった。そして腕のいい針子だった。十二から働き始めて、十八で少し、王女さまのドレスの刺繍を少し、したんだからな。素晴らしく才気に溢れた娘だった。
けれど、気狂いは気狂いだ。毎夜、裏路地を歩いては滂沱と泣き暮らしていたそうな。がりがり壁を引っ掻いていた日もあったらしい。シンナーでもやっていたのかな」
「……なんで、おかしくなってしまったんですか? 嫌なことでも、あったんでしょうか」
「さて、な。……その娘は美しかったから……あんまりにも美しかったから、誰もが虜になった。すずらんみたいな声で泣いていたら、抱きしめたくなった。黄金の髪を揺らして夜に出歩いていたら、声をかけたくなった。そのうち、娘の崇拝者は増えて、けれど娘は救われなかった。救いようがなかったんだ。はじめっから……」
プラムの甘い匂いがする。老婆がパイを焼いてくれているのだ。はちみつを入れたハニーパイ。普段なら、プラムが大好きなカミルは、この匂いを嗅ぐなり老婆のもとへ駆け寄って、かまどの前で歌を歌うものだが、今のカミルに到底そんな気持ちはなかった。
ガルシアに、夜明けまえの瑠璃色の感情が、瞳にぼんやりと浮かんでいた。ほの暗くて、何かを思い出すように語らっている。
「やがて、娘は一人の子を産んだ。ある男の子どもで、男は恋人だった。婚約するまえに産んだんだ。……その、生まれた子を見て、娘はひどく動揺した。何でだと思う? ……手を震わせて、金属がこすれるような声で息をしていたんだ。そんで、『わたしは月の子を産んでしまった』と言ったんだ」
「……月の子?」
「そうだ。月の子だ。この子は月の子だと、わたしは浮気をしてしまったのだと、ひどくわめいて、産婆や看護師に取り押さえられるほどだった。焦点がぶれていた。それで、その子は粥が食べられる年頃になると、捨ててしまったんだ」
「えっ!」
カミルは目がまんまるになって、前のめりになり、甲高い声で叫んだ。
「捨ててしまったんですか!」
「そうだ。捨ててしまったんだ。その子を見るのが、どうしても、耐えられなかったらしい。浮気の証拠だと何回も言っていた。……今はどうしているか、知らん。風のうわさで、元気に、優しいひとに拾われたとは聞いているがな」
「……それなら、いいですけど、でも、お母さまがいなくては、さみしいのではないですか」
「カミルは、さみしいのかい」
突如、目を向けられて、カミルはドキリとした。
確かに、カミルは自分の父母を知らない。ぼんやりとした記憶もなく、物心ついたときには、老婆との二人暮らしだったのだ。それに不満を感じたことはなかったし、アルビノに産んだ両親を恨んでもいなかった。日光を浴びれないのはかなしいが、けれど、たくさんの楽しみがカミルにはあるのだ。
カミルはあっちこっちに視線をさまよわせ、やがて、捨て犬を拾った子どものような目でガルシアを見上げた。
「恋しくなるときは、ありますけれど、でも、僕は毎日楽しいです」
「そんなら、その子もそうなんじゃないかい」
「……だと、いいですね」
カミルはやっと、胸のつかえが下りたような心地になり、ふわっと花開くように笑うと、ガルシアは優しい顔でカミルの頭を撫でた。
「だが、な。最近のことだ。……その女は、やがて、ひとつのぬいぐるみを縫うようになった。高級なミンク毛皮を使い、サテンのりぼんには刺繍をふんだんに施して、糸すら、上等な錦糸をつかったんだ。一針一針、心を込めて縫っているように見えたし、そうだった。……そのぬいぐるみは、ウェイトベアだったんだ」
「……ごめんなさい、おじさま。ウェイトベアって、なんでしょう?」
「赤子と、同じ体重のぬいぐるみのことだ。その女は、かつて捨てた子と、同じ体重のぬいぐるみをつくっていたんだ」
カミルはもう、顎も外れんばかりに驚いてしまって、とっさに椅子をおりて、ぬいぐるみを見上げた。……ずっしり重いぬいぐるみ。こんなに大きいのには、わけがあったのだ。
カミルはガルシアをやっとの思いで見上げて、冷や汗がにじんだ手のひらを合わせ、肩を上下させ、あえぎあえぎ言った。
「お、おじさま。こんな、僕、僕……。もらえません。すっごく大切なものじゃありませんか!」
「いや、もらっておくれ。カミル。その女は、不治の病で、このまえ、死んだのだ。貰い手がいないのだよ」
「だ、だ、だからって。その子はどこへいるのですか。渡してさしあげないと。そうするのが、一番いいに決まってます!」
「許しておくれ。カミル。その子については、ほんとうに何もわからないのだよ。手がかりもない。探しようがないんだ。そのぶん、カミルは大切にしてくれるだろう。女といっしょに眠るよりは、そっちのほうがいい。もらっておくれ。カミル」
カミルはしばらくの間、ひどく動揺して、何度も何度もガルシアに言いつのったが、やがて諦めて、しぶしぶぬいぐるみの腕を抱きしめ、ぽつんと言った。
「蝶よりも、花よりも、大切にします。僕を信頼してくれてありがとう、おじさま」
「うん。ぜひ、抱いて眠っておくれ」
「汽車に、その女の人が来るといいなぁ。ね、おじさま。僕、話してみたいんです。夢なら会えるかな。このぬいぐるみは僕が引き受けたんですよって、お話したいんです」
「ぜひ、するといい。きっと喜んでくれるはずだから」
ふと、ガルシアは窓際のミニバラに目をつけると、「一輪、もらってもいいかい」と訊いた。カミルは喜んでうなずくと、ぱちんとハサミで切り落とし、カミルの耳元にかけてやった。
「……おじさま?」
カミルは美しい子供だった。
いつも梳いているのか、指通りよくまっすぐな髪には穢れがなく、いつもりんごの花のように純白である。瞳は燃えあがる炎の珠のように揺れ、肌は雪のように真っ白だったが、頬はいつでもばら色に染まっていた。その肌に、淡い色のミニバラはよく映えた。まるで精霊のようである。
この一年で、ぐっと背が伸びた。体も牡鹿のようにしなやかで、若木のような生気に満ちていた。
ガルシアは、かわいた大きな手でカミルを撫で、慈愛に満ち満ちた目を合わせ、目を細めて微笑んだ。
「よく似合っている」
そうして、ガルシアは帰ってしまったのだった。
***
カミルは夕飯のデザートに一切れのプラムのハニーパイを食べながら、向かいで紅茶を飲む老婆に尋ねた。
「ね、おばあさまは月の子って、どんな子だと思いますか? 僕はね、月女神さまみたいに美しい子どもだったんだと思うの。この世の人とは思えなくって、女の人は動転してしまったんじゃないかしら。だって、女神さまみたいな子どもを見たら、誰だって驚きますものね。ね、どう思いますか?」
「そうですねぇ……」
老婆は、すっかり顔つきが青年になってきた、若々しく美しい子どもを見ながら、ゆったりと微笑を浮かべた。
「わたしは、あなたみたいな子どもなんだと思いますよ」
「えっ。……僕みたいな、ですか」
「えぇ。日光の代わりに、月光をいっぱいに浴びて生まれた子どもなんだと思いますよ」
「そうなんですね」
ガルシアも、老婆も、何もかも知っていそうなのに、こうしてはぐらかすようなことを言ったり、不思議なことをしたりする。
早く大人になりたいなぁ、とカミルは思いながら、隣にぬいぐるみを座らせて、もう一口、パイを食べた。
愛、あるいはウェイトベアを アイビー ―Ivy― @Ivy0326
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