おやすみカレンちゃん

「パピーちゃん、もう大丈夫だからね」


 カレンちゃんはすりすりと俺に頬ずりしている。


「大変だったわねぇ……」


 幼稚園に迎えにきたママさんは、先生から一部始終を聞いたらしい。いつもより俺を手放したがらないカレンちゃんを優しく慰めつつ、夕日を背に受け帰り道を辿る。


 道すがら俺の触診もしてくれたママさん曰く、俺は結構ボロボロだそうだ。


 まぁ、もうカレンちゃんのぬいぐるみやって長いからな。あちこちガタが来ているのは勲章のようなものだよ。……さすがに今日の騒動はきつかったが。


「あいつ、しょーがっこーになったらパピーちゃんとはおわかれだっていうんだよ。ひどくない?」


 カレンちゃんはあのガキ大将のことをぷんぷんと怒っている。


 カレンちゃんはガキ大将が自分に向ける感情の正体にちっとも気づきゃしない。まぁあんなアプローチならば嫌われて当然だがな。ガキ大将くん、南無。


 ママさんはカレンちゃんをまぁまぁとなだめながら、かたわらでうーんとうなってもいた。


「カレンちゃん」


「なぁに?」


「今日みたいなことがあったわけだし、パピーちゃんを幼稚園に連れていくのはもうやめたら?」


「え……?」


 カレンちゃんの腕に抱かれている俺だからわかる、カレンちゃんのショックの音が聞こえてきた。


「あの子がやったことは悪いことだけど、小学校にパピーちゃんを連れていけないのは本当だもの……」


 ママさんの表情にうっすら暗い影が落ちている。


 カレンちゃんには酷だが、ママさんの言っていることは正論だ。


 ママさんにしても、良くも悪くも今日のことをきっかけにしたいのだろう。カレンちゃんの俺への依存はあまりにも深すぎるからな。……あ、いやのろけじゃなくて。


 カレンちゃんは、現実を突きつけられて涙目だ。


「や、やだ……」


 泣くな、カレンちゃん。小学校は社会の始まりだ。ルールは守らなくちゃならねぇ


 俺だって、本当に悲しいんだ。


 もう俺ァ、これからはカレンちゃんをおはようからおやすみまで見守れなくなるんだからな……。


 俺の綿が悲しみで冷え固まっていった、そのときである。


「こんばんわぁ」


 カレンちゃん、ママさん、そして俺と全員がうつむいていたところに、のんきに話しかけてくる人がいた。


「あら奥さんこんばんは」


 ママさんは慌てて笑顔を取り繕いあいさつを返す。


「カレンちゃんもこんばんは」


「こんばんはおばさん。ほらパピーちゃんもごあいさつしなさい」


 カレンちゃんがずずいっと俺をその人の前に突き出したので、俺は綿に冷や汗をかきながら心中で這いつくばるようにして礼を尽くしたあいさつをした。


 こんばんは、おばさん。それと……パピーちゃん。


 その人はカレンちゃんの家の近所に住むご婦人だった。相棒は、パピーちゃん(セントバーナード5歳)である。


「カレンちゃん、元気ないわね」


「今日は大変だったんですよぉ。ねぇカレンちゃん?」


 ママさんとおばさんは、その場で立ち話を始めた。


 主婦同士の会話というものは、とかく終わりがない。果てがない。時間という概念がない。カレンちゃんという幼子をよそに、ママさんとおばさんはずっと喋り通していた。


 俺は綿がじりじりと焦げる思いだった――。


 パピーちゃん(セントバーナード5歳)が、はっはっと荒く呼吸をしながら俺に熱い視線を送る。


奇しくも俺と同じ名前の大型犬を前に、俺は戦々恐々としていた。


 圧倒的強者のオーラ、フィジカルの王、人間相手でも余裕で勝利を勝ち取る強靭な牙の持ち主――は、俺を見る目がいつもキラキラ星のように瞬いていた。


 まるで――獲物を捕捉したときのように。


「ねぇ……パピーちゃん」


 カレンちゃんは、俺にしか聞こえないような小さなちいさな声で言った。


 俺はパピーちゃん(セントバーナード5歳)への警戒を緩めて、カレンちゃんの言葉に耳を傾ける。カレンちゃんのことは、いつだって最優先事項だ。


「いっしょだよね? ……ずっと、いっしょだよね、しょーがっこーにいっても……」


 カレンちゃん……。


 カレンちゃんに抱きしめられている俺には、カレンちゃんの不安が鼓動を通して伝わってくる。


 カレンちゃんだってよくわかっているのだ。俺の手を放して、ひとりで小学校に通わなくてはいけないことくらい。


 今、カレンちゃんは戦っている。孤独に前を進まなくてはいけない、その状況を突きつけられ、それを受け入れようと必死に戦っている。


 なぁカレンちゃん。


 きっとこういう日は、いつかは来るんだ。


 それが今なんだ。ただ、それだけなんだよ。


 ごめんな、おはようからおやすみまでカレンちゃんを見守るのが俺の生まれた意味ってやつなのに、その使命を果たせなくて。


 俺にできるのは、戦っているカレンちゃんを応援することだけ――。


「わぁっふ!」


 !?


「えっ!?」


 それは唐突なことだった。


 パピーちゃん(セントバーナード5歳)が盛大にしっぽをふったかと思うと、カレンちゃんにとびかかってきたのだ。


 カレンちゃんあぶない! そう思ったが、パピーちゃん(セントバーナード5歳)の関心は俺にあった。


 幼稚園児の腕力にはどうにか耐えられた丈夫な造りの俺もさすがに獣の牙には勝てず、俺はみるみるうちに無残な綿塊と化していった。


 さながら古代ローマコロッセオの獅子と対峙させられた奴隷のように、俺の身体はものの見事にバラバラにされていく。


「パピーちゃん、パピーちゃん!」


「あ、これパピーちゃん(セントバーナード5歳)! だめでしょ! ぺっしなさい!」


 おばさんはパピーちゃん(セントバーナード5歳)の口から俺をもぎとると、よだれでべとべとになった俺をカレンちゃんの前に差し出した。


「あら~……ごめんさいね、カレンちゃん……」


「パピーちゃあん……」


 カレンちゃんは、震える両手で綿と布切れともつかないボロと化した俺を持った。


 カレンちゃんの大粒の涙がぼたぼたと、俺に落ちてくる。


 それは、あまりに突然の別れだった。


 孤独に戦いを挑もうとするカレンちゃんの応援をすると決めたばかりの俺だったが、どうやらここまでらしい。


 カレンちゃんが小学校に行っても、家でその帰りを待って癒してあげることくらいならできると思っていたが、甘かったようだ。


 俺のぬいぐるみ生、これにて終了のお知らせ也――。


「どうして、パピーちゃん、どうしてぇぇ……」


 泣くな、カレンちゃん。


 むしろすまねぇな。


 俺はあんたを見守るのが生まれてきてた意味だっていうのに、そんな漢の使命も果たせねぇんじゃカレンちゃんのぬいぐるみ失格だ。


 最後に……これだけ言わせてくれ。


「今までありがとう……おやすみ……パピーちゃん……」


 先に言われちまったな、ハハ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る