言霊美術館

佐倉有栖

一日目:出汁茶漬け×あんず飴

 周囲を警戒しながら、慎重な足取りで歩を進める。

 歩くたびに、タイル張りの床が大きな音を立てる。普段は革靴など履かないため、スニーカーと同じように歩くとどうしても踵が鳴ってしまう。しかも、おろしたての安価な革靴は硬く、靴擦れが起きているのがわかる。チクリとした痛みに、思わず顔をしかめた。


 懐中電灯の光が、壁にかかった絵画をとらえる。写実主義の絵は細部まで緻密に描かれていて見事だが、暗闇の中で見たいものではない。皴の一本一本まで丁寧に描かれた彼らは、本当にその場にいるかのようだ。

 ゾワリと腕に鳥肌が立つ。

 誰かの視線を感じるが、誰のものかは分からない。平面の世界からこちらを見つめている目は、いくつもある。

 これはただの絵で、神経が過敏になっているから視線を感じるだけ。そう心の中で何度も唱えるが、一度抱いた不安は自己暗示だけでは解消できない。

 やはりあのときに断っておけば良かったと、今更ながら後悔する。


 四日間だけ夜間警備のバイトに行ってほしいと頼み込まれたのは、先週の終わりだった。サークルで何度か見かけたことはあるものの、あまり話したことのない先輩からのお願いに、最初は面食らった。

 聞けばお姉さんが出産間近で、幼稚園児の甥っ子を連れて里帰りしているのだが、両親が不慮の事故でケガをしてしまったらしい。ケガ自体はたいしたことはなかったのだが、腕白盛りの甥っ子を見ていることができない。


「予定日はまだもう少し先なんだけど、甥っ子の時も早かったし、万が一のときに今の両親じゃ動くことができなくてさ。義兄さんは激務で頼れないし。……本当はもう一人の姉ちゃんが来てくれる予定だったんだけど、飛行機が取れなくて」


 国際結婚をして今はカナダにいるんだと、照れくさそうに、でも少々誇らしげに付け加えた。その姉が帰国する前での間、代わりに先輩が行くことになったそうだ。


「ただ、こんな直近だし四日間だけだし、俺が代わりの人見つけてきますよって言っちゃって。予定がなかったらで良いんだ、バイト代もちゃんと渡すし、なんならちょっと上乗せするから頼めないか?」


 理由が理由だし、困ったときはお互い様だ。幸い、夜への恐怖はだいぶ前に卒業している。

 二つ返事で引き受けたのだが、今朝になって急に先輩が不穏なことを言ってきたのだ。


「そういえばあの美術館、夜に絵が全然別の場所に移動してることがあるけど、気にしないで良いから」


 そんなことを言われても、絵画が勝手に移動するなんて異常事態を気にせずにいられるわけがない。

 夜への恐怖と一緒に、幽霊へのそれも卒業していたが、それまでの人生でそんなものはいないと理解したからだ。実際にいるのだと言われれば、恐怖しないほうがおかしい。


 急く心を抑え、湧き上がる恐怖を押し殺して、なんとか最終通路を歩く。この直線さえ見終われば、あとは警備室で監視カメラを見ながら早番の到着を待つだけだ。

 やけに響く自分の足音にさえ怯えながら、異常の有無を確認する。

 今のところ、異常はない。

 最後の絵画を横目にふっと肩の力を抜いた時、本来は何もないはずの壁に一枚の絵がかかっているのに気付いた。




「それで、走って警備室まで逃げ帰ったのね」

「はい……」


 あの後、ガタガタと震えながらもなんとか早番の人の到着を待ち、業務の引継ぎをして美術館を後にした。五時の交代よりも十分ほど早く現れた早番の人は、絵画が移動していたという報告に「あぁ、そうですか」と気怠そうに相槌を打っただけで、それ以上は何も言わなかった。

 先輩からは、愛想の良い明るい人だと聞いていたのだが。


「でも、偉いじゃない! 私だったら朝までなんていられないわ」

「仕事……ですし」

「職務に忠実なのも良いけど、仕事よりも大事なことがあるでしょうに」


 甘い低音に似合わない、しっとりとした女性のような口調で男性がそう言う。

 美術館から帰る道すがら、改めて襲ってきた恐怖に震えていると、彼が親切にも声をかけてきてくれた。この近くに早朝からやっているバーがあるからちょっと休憩していきましょうというお誘いに、何も考えずに乗った。


 そのお店は大通りからだいぶ外れた場所にあり、裏道を何度も曲がりながらようやく到着した。おそらく一人で来いと言われても、辿り着けないだろう。

 テナント募集の看板が掲げられたアパートの隣にひっそりと建つバーは、一見するとお洒落な喫茶店だった。アンティーク感のある扉を押し開ければ、お酒とコーヒーが混じった匂いがした。喫煙席は設けられていないのか、タバコの臭いはない。どうやら、昼は喫茶店で夜はバーに切り替わるお店のようだった。

 勝手知ったる様子で入っていった男性が、手鹿な席に腰を下ろすと「出汁茶漬け二つ」と、勝手に注文を通した。


「絵画が移動するなんて普通じゃないですよね」

「絵画に足はついてないからね」

「やっぱりこれって、幽……」

「あぁ、ダメダメ!」


 幽霊と言いかけた言葉を飲み込む。話を遮ろうと立ち上がった男性の胸元で、ターコイズ色の石がついたループタイが揺れる。


「言霊って知ってる? もっと明るい想像をしましょうよ! 例えば、ぬいぐるみさんが悪戯で運んだのかもー! とか」

「何でぬいぐるみなんですか……」

「フランス人形よりも、ウサギのぬいぐるみのほうが可愛いでしょ?」

「それはそう、ですけど」


 比べる対象が悪いとしか言いようがない。

 フランス人形が自分の体よりも大きな絵画を持って夜の美術館を徘徊していたら怖いが、それがウサギのぬいぐるみに変わったからと言っても可愛いとはならない。


「さぁさ、出汁茶漬けが来たわよ! 食べましょう!」


 男性の言葉に目を向ければ、いつの間にかテーブルには小ぶりな丼が置かれていた。透明なだし汁の中には軽く焦げ目のついたおにぎりが沈んでおり、昆布だしの香りと醤油の香ばしさが鼻をくすぐる。ちょこんと乗った彩の三つ葉が高級感を演出していた。

 白く立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、ほっと息を吐く。恐怖で凝り固まっていた心がほぐれるような、優しい匂いだった。

 木の匙で焼きおにぎりを崩し、十分に出汁と混ぜると口に運んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る