記念日のため息
岡本紗矢子
第1話
まったく予想外のことに出くわすと、人は一瞬、思考力を失ってしまうものである。
「え?」
昼時を過ぎて、人気もなくなった学食の片隅で。陽介はそんな一瞬ののち、美沙の言葉を聞き返していた。
自分ではさりげなく言ったつもりだったが、声は意外に裏返っていたらしい。向かい側でコーラのプルトップと格闘していた、美沙の親指が止まってしまった。続いてしげしげとこちらを見つめ始めた彼女の瞳は何なんだといわんばかりの雰囲気に満ちあふれており、陽介は平静な表情を保つのに内心必死になる。
「なに? そんなにびっくりした?」
「……え、あ、い、いや、別にびっくりしてないよ、ほんと、全然……ただ、ちょっとよく聞こえなかったんで……」
「だからぁ。12月24日はだめになっちゃったっていったの」
美沙はこともなげにそう言うと、またプルトップをいじりはじめた。
「だけど、美沙。24日は一応前からさぁ……」
「うん、パーティーするって約束してたけど——陽介ごめん、これ固くて開かないんだ。ちょっとやってみてくれる」
陽介はなかば無意識にコーラを受け取り、ひっぱるまま跳ね上がったプルトップの感触とぷしゅっというガスの音とを、他人事のように感じ取った。あ、サンキュ、と手を出す美沙に、一回10円とかなんとか軽口を返す「普段の自分」がいたけれども、本当の意識は、どこか遠いところをふわふわと漂っている。
「で、美沙」
なのに、続けて話し出す口調は「普段」のまま。陽介は姿勢を正しつつ、自分を演じている自分を滑稽に思った。
「話の続き。24日、どうしたって?」
「ちょっと待って。一口だけ」
美沙は、コーラを幸せそうに飲み下すと、居住まいを正した。
「あのね、実はさ。その日急に友達と会うことになっちゃったんだよね」
「急に? 友達と? イヴに?」
「イヴだね。だから?」
「………」
そう言われては返す言葉もない。陽介が思わず口をつぐむと、美沙はテーブルに上半身を乗り出した。
「あー、分かった。陽介、イヴは彼氏彼女と過ごす日だと思ってるでしょお? でもさ陽介、だいたいだよ、クリスマスとかって本当は宗教的イベントじゃない。その過ごし方を、こう!て決めちゃうのはちょっとヘンだと思わない?」
「うん……ま、そーだけどさ……」
「でしょぉ。だからさぁ、24日……ね? 今度おごるからさ」
「まあ、別に、いいけど……」
「ほんと? ありがと! よかった——ぁ——」
そのまま語り続けようとしたのだろう。だが美沙は、突然口をつぐんだ。
陽介は途中から学食の外にばかり視線を走らせていたのだが、気配を感じてそれを美沙に持っていった。彼女と目があった。思った通り、美沙は肩を縮め、申し訳なさそうにこちらを伺っていた。
「ていうか……ごめん。謝ってなかった」
「謝ることじゃないよ」
陽介はまた視線を窓の外に向ける。視界の端っこで、美沙が首を横に振った。
「ううん。ごめん、ほんと。ドタキャンでさ……すっごく悪いと思ってる。だけどあの、その友達ってめったに会えない子で、SNSではつながってるけど小ちゃい頃に海外渡ってそのまんまで、……えっとそれで、もう、日本のこととか全然わかんないらしくって、あさって……ていうか24日は、空港まで迎えに行ってあげたいなって。あ、その子はあたしの幼なじみで、もとの家は近所で、こっちに帰ってきた理由はつまり——」
「い、いいよ美沙。分かったからさ」
陽介は、だんだん弾みがついたように早口に、そして何だかしどろもどろになっていく美沙をさえぎった。
「気にしなくていいよ。まあそりゃちょっと残念だけど、確かに、別にイヴにパーティーする理由なんかないしさ。だからさ、また別の日にでも飲みに行ければ、それで帳消し」
「陽介……、そんなこと言って、もしかして怒ってない?」
「そんなことないって。そのかわり、本当になんかおごれよ」
美沙はちょっと口をつぐんで陽介を見つめたが、やがて口もとに笑みを戻した。
「そっか、良かった。あっ、じゃあこれ、今日渡そうと思って持ってきたんだ。ひとあしお先にクリスマス・プレゼントね」
**
今年最後の講義に出るからと言い残して美沙が席を離れたあと、プレゼントの包み紙をはがしてみると、へびの頭がでてきた。正確にはへびをかわいくデザインしたミトンタイプのなべつかみで、ちょうど親指の部分が“あーん”したへびの下顎になっている。一緒についていたカードには「Merry Christmas! まじめに自炊しろよ みさ☆」とあって、これにもサンタ帽をかぶったへびのイラストがあった。なるほど、へびがこんな格好をすると赤と緑のクリスマス・カラーになるわけで、これもなかなか可愛らしい。キャラものが好きな美沙っぽいチョイスである。
陽介はなべつかみに手を入れて、親指を上下に動かしてみた。空中で口をぱくぱくさせるへびは、何となくまぬけだ。のんきに歌でも歌ってるみたいにも見える。
きっと腹いっぱいでごきげんなんだろう、と、陽介は苦い視線をへびに送った。なにしろこいつはたった今、『彼女と過ごすイヴ』をまるごと飲み込んでくれたところなのだから。
バイト先で美沙と知り合ってトータル8ヶ月、つきあい始めてからは2、3ヶ月か?
そうなる前も仲は良くて、バイトの前後にさんざん遊びに行ったりしていたから、「つきあわない?」「うん」というやりとりを経たあとも、ふたりの間の雰囲気はそう変わっていない。とはいえ、それでも「彼と彼女」だし、恋人たちは一緒にイヴを祝うものだというのは現代日本の常識だから、陽介は疑いもしなかった。……今年のイヴは美沙とパーティー、という予想図を。
『イヴだね。だから?』
脳裏に美沙の言葉があざやかによみがえって、陽介はへびの下顎を動かすのを止めた。
——イヴだね。だから?——
「だから? て……」
イヴはイヴ、じゃないか。
いや、美沙の言うことは分かる。本来イヴは、別に宗教感情も何も持たない者にとっては何ほどのこともない日のはずなのだ。何もみんなして騒ぐことはない。まして彼だの彼女だのと過ごす日だと、いったい、いつ誰が決めたというのだろう?
だが陽介は、本当はどうしても、イヴを美沙とのパーティーで過ごしたかった。イヴという日にこだわっていたわけではなくて、そうしたいと思うもうひとつの理由があったから。
でも、それを美沙は知らない。
陽介は大きくため息をついて、かばんの中にへびのなべつかみをつっこむと、立ち上がった。学食の外に出ていくと、もう一度ついたため息が、いきなり真っ白にかわった。さっきからくもっているなと思っていたが、知らない間にずいぶん気温が下がったようだ。
こういう空と空気になったら、雪が降り出すのももう間近だ。
陽介は早足で歩き始めた。キャンパスを出、いつもなら用がなくても寄ってしまうコンビニも素通りして急いでいると、顔にやわらかいものがあたり、ほわりと溶けた。
雪が静かに、舞い降り始めていた。
雪はあっという間に本降りになった。過ぎた道も進む道もまっしろに覆い尽くし、今は視界すら白の点描の中に閉ざしている。
ダウンのポケットに手をつっこみ、マフラーに顔を埋めるようにして歩きながら、陽介はふと拍手の音を聞いた。実際の、ではない。遠い記憶の中の拍手だ。
同じ記憶の中に、ろうそくを立てたケーキがある。おめでとうという声が聞こえる。メリー・クリスマスと叫ぶ声が混じる。
『ハッピーバースディ陽介、それと、メリー・クリスマス!』
陽介は、飽きもせずひらめき落ちてくる雪たちを見上げながら、もう一度、消えてしまった美沙とのパーティーを思わずにいられなかった。陽介の誕生日。それは、クリスマス・イヴだった。
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