『わたしの相棒はぬいぐるみデス』

龍宝

『わたしの相棒はぬいぐるみデス』




 雨が降っていた。


 先ほどまでは西日の差し込んでいた病室の片隅で、すっかりと暗くなった窓の向こうに首を向ける。


 いつの間にか、眠ってしまっていたのだ。


 自分のミスに気付いたと同時、簡易イスに腰掛けていた少女――花宮千歳ちとせは、慌てて正面に向き直る。


 自分が座っているすぐ傍の医療ベッドの上では、最後に見た時と変わらず、赤い髪の少女が包帯姿も痛々しく横たわっていた。




「ごめんね、紅ちゃん。寝ちゃってた」




 やたらと乾いた両眼をこすりながら、ぴくりともしない幼馴染に声を掛ける。


 紅ちゃん――赤嶺あかみね紅緒べにおが、原因不明の崩落事故に巻き込まれたと知ったのは、二日前のことだった。


 連絡をもらってこの病室に駆け込んだ時、いつもは勝ち気で不敵な笑みを浮かべてばかりいる紅緒の、別人のように静かな寝顔が視界に入ったものだから、動揺して随分と取り乱した。


 仕事があるだろうに、落ち着くまで傍に付いていてくれた看護師には感謝している。


 幸いにして命に関わるような怪我ではなく、また後遺症なども残らないだろう、と担当の医者からは聞かされた。


 早く、眼を醒ませばいい。


 それからいつもみたいに、辛気臭い顔をしてくれるな、とからかってほしい。


 そう思って、この二日は学校にも行かず、千歳は付きっ切りで紅緒の傍にいた。


 戻ってきた幼馴染に、誰より早く気付けるように――。




「――千歳ちゃん。今日も来てくれてたのか」




 病室のドアが開いて、中年の男が入ってくる。


 手前で眠る少女の父、赤嶺蘇芳だった。


 両親が共働きの赤嶺家は、やむなく交代で娘の様子を見ることにしたようで、先ほどまでは母の朱音が千歳とイスを並べていた。




「おじさん。……ごめんなさい、こんな遅くまで。どうしても、見てたくて」


「謝ることなんてない。私たちが、礼を言いたいくらいだよ。親として、この子にずっと付いていてあげなきゃいけないところを、君が代わってくれているんだから」


「仕方ないことです。仕事ですから。それに、わたしは無遠慮なだけで」


「君は、家族の一員だ。遠慮など要らないさ」




 蘇芳の声は、温かだった。


 物心がついた時から、一緒に過ごしてきた幼馴染とその家族だ。


 当たり前のようなその心遣いがうれしくて、少しだけ心が軽くなった気がする。


 返礼のつもりで笑顔を作れば、ベッドを挟んだ反対側で荷物を置いていた蘇芳が硬直し、それから息を吐いた。




「遠慮は要らないが、自分の体調への配慮は必要だよ。千歳ちゃん」


「はい?」


木乃伊ミイラ取りが、というわけじゃないが。無理をして君まで倒れては何の意味もない」




 そんなにひどい顔をしていただろうか。


 ベッドサイドにあった鏡をのぞき込めば、どす黒いくまを目の下にこさえた女が、辛気臭そうにこちらを見ていた。




「……ここは私が見ておくから、一度家に帰って、まともなところで寝なさい。眠れなくても、眼をつぶって横になれば、少しはましになる」




 思わず、見上げたままだった視線を紅緒へ戻した。


 離れがたい気持ちの火は、まだ消えていない。


 だが、うっすらと痛む頭でどう考えても、理は向こうにある。


 こればかりは有無を言わさぬ、といった様子の蘇芳に、千歳はしばらくの沈黙を置いてから、首を縦に振った。








 日付の変わろうかという時間だった。


 あの後、タクシー代を手渡されて家に帰って来たものの、やはり疲れが溜まっていたのか、リビングのソファーに腰掛けた辺りからの記憶が飛んでいる。


 キッチンの明かりだけがいたうす暗い室内で、千歳はまたしても自分が寝落ちしていたことに気付いた。


 と、ぼんやりとした頭を持て余しているところに、甲高いインターホンのチャイムが響いた。


 思えば、さっきもこの音にレムだかノンレムだかの睡眠を断ち切られて目が覚めたような気がする。


 こんな時間に、という疑問はあった。


 だがもしかすると、この数時間で紅緒の身に何か変化が起きて、蘇芳か朱音のどちらかが自分にも知らせに来てくれたのではないか。


 うまく働かない頭でそんなことを考えつつ、千歳は玄関へ向かった。


 日頃の習慣から、のぞき穴を通して外の様子を窺う。


 人の姿は見えない。


 単純に近所の不良や、帰宅途中な酔っぱらいのいたずらだったのか?


 あまりに不審だ、と傘立てから紳士用の雨傘を抜き出して右手に構える。


 意表を衝くためにも、勢いよく玄関のドアを押し開いた。




「……誰もいない?」



「――いいや、いるとも。ふぅん。キミはどうも、先入観にとらわれやすいタイプの人間のようだネ」




 正面から掛かった声に、びくりと身体をこわばらせる。


 ホラーは大の苦手なのだ。


 わずかに後退ったことで、千歳は自分の足元に何かがあることに気付いた。


 ――ぬいぐるみ、だ。


 おそらく猫のような、よく分からないデフォルメされたぬいぐるみが、玄関の石段に二本足で立っている。


 ……ん?


 立って、いる――?




「来客が、すべて自分の視界の範囲内から来るとでも? まったく、想像力のないことだ」


「う……うわああああああああああああっ⁉ しゃべったあああああああああああっ⁉」


「そんなで私の相棒が務まるとでも――ってぶべばァ⁉」




 理解の許容範囲をぶっちぎった得体の知れない存在に、思わず乙女らしからぬ驚愕の声を上げてしまった。


 とっさに手にした傘で思い切りすくい上げてしまった千歳の頭上で、スローモーションな放物線を描いて吹っ飛んでいくぬいぐるみ。


 しかも電柱にぶち当たった。




「………………」


「はァ……はァ……な、なにあれ……?」


「………………ぃ」


「え?」


「――キミぃ⁉ こんなに可愛いぬいぐるみをフルスイングで叩き出す人間がいるかい⁉ 信じられない加虐趣味者だヨ‼」


「わっ⁉ また来た⁉」




 尻の部分を夜空に向かって突き出すように倒れていたぬいぐるみが、やがて飛び起きてこちらに駆け寄ってきた。


 鬼のような剣幕で簡素な腕を振り回すぬいぐるみに戸惑って、千歳は玄関の鉄扉を閉ざす。


 直後、とてもぬいぐるみのものとは思えないほど重い、ノックの連打音が響いた。




「開けたまえヨ‼ キミには今の仕打ちの責任を取って、謝罪の上、今晩ワタシを抱いて一緒に寝ることを要求する‼」


「嫌だよっ⁉」




 ぬいぐるみ的な賠償の仕方が逆に怖い。




「ワタシを入れないと、きっと後悔することになるだろウ! それでもいいのかネ⁉」


「しゃべるぬいぐるみを家の中に招き入れちゃうこと以上の後悔なんてないよ!」


「ほうっ! ではそれが――、だとしてもかネ?」


「――ッ⁉」




 ドアを叩く音が止んでいた。


 早鐘のように弾む心臓は、先ほどまでのような、恐怖によるものではない。


 自分と、大切な幼馴染が何かに巻き込まれつつあるのだという、予感のようなもの。


 悪寒、といってもいい。




「真実を欲するなら、この無粋な鉄の扉を開けたまえヨ。――花宮千歳」




 息を呑む。


 意を決してドアを開けた先で、ぬいぐるみが仁王立ちに立っていた。











「――つまり、紅ちゃんが巻き込まれたのは、事故なんかじゃないってこと?」




 自室のベッドの上まで占領を許したぬいぐるみを見据えて、千歳は顎に指を遣った。




「その通り。襲われたのだ。アレは、人の身に宿った力を貪り喰らうバケモノ。特に、良質で大量に備えた者を好む。常人の眼には見えないがために、〝原因不明の事故〟という文言で片付けられているがネ」




 蒙昧な連中だヨ、と笑うぬいぐるみが腕を組む。


 ファンタジーな存在が、何やらダークファンタジーなことをのたまっていた。




「力って?」


「魔力、霊力、仙力、妖力、こちらの人間の言い方は様々だが、すべて同じものを指している。アレにとっては、栄養のたっぷり詰まった肉袋といったところカ」


「肉袋……その、魔力?っていうのを、紅ちゃんが多く持ってたの?」


「いや、それは違う。赤嶺紅緒は、単なる人間に過ぎナイ。魔力量も、あくまで常人の域は出ないサ」


「……じゃあ、どうして?」


「もう、分かっているのではないかネ? 十六年間、幼馴染としてキミの一番近くで過ごしてきたのが、赤嶺紅緒だった。彼女は、ほんのわずかに移った残り香とでもいうべきものを、アレにぎ付けられた。だが、中身が普通のものだと知れて、喰われずに済んだのだヨ」




 にぃっ、と、ぬいぐるみの眼が細められたような気がした。


 馬鹿になってしまった心臓の音がうるさい。


 胃の底に何かがへばりついて、手足の温度が一気に冷えていく。






「――キミだ、花宮千歳。キミの潜在魔力は、常人を遥かに凌ぐ」


「――ッ‼」






 ぬいぐるみが言い終わるや否や、どこからか耳をつんざくような絶叫が部屋中に響き渡った。




「な、なにっ⁉」




 音だけではない。


 不可視の圧力を受けているかのように、身体が重くなる。


 よろめいて床に膝をついた千歳に、ぬいぐるみが窓の外を見遣った。




「言ったはずだヨ。赤嶺紅緒は、喰われずに捨て置かれた。何故かネ?」




 叫び声が、徐々に近付いて、来る。




「答えは、至極単純なことだ。他に極上の一品があると分かっていて、わざわざ匂いが良いだけで味のしない料理を食べる者はいないだろウ。よもや、それで腹を満たそうなどと」




 アレが、花宮千歳を食らいにやって来たのだ。


 怖気が、背中から身体中に走る。


 分かる。


 これは、ファンタジーなんかじゃない。


 現実なのだ。


 自分は今、確かに怪物に襲われて――食われそうになっている。




「逃げるよ! あなたも早く!」


「どこへ逃げるというのかネ? いくら潜在魔力があるとはいえ、今のキミはただの人間の子供だ。アレと競ったとしても、二、三十メートル行かずに捕まるだけだヨ」




 どうにか立ち上がった千歳の差し出した手を一瞥して、ぬいぐるみがベッドから降りる。




「だからって、このまま黙って食われたくないじゃん!」


「もちろんサ。この状況で、キミにもうひとつの道を示すために、ワタシが来たのだからネ」


「もうひとつの、道?」


「ワタシなら、キミの中に宿る魔力を、キミの意思で使えるように引き出せる。その力で、アレと戦う覚悟はあるかネ? 知らぬ存ぜぬの通らない、過酷な生存競争の世界に、足を踏み入れる覚悟はあるかい?」




 ぬいぐるみが、簡素な腕を突き出してくる。


 自分の魔力を使って、怪物と戦う?


 そんなこと、想像もつかない。


 怖くて、今にもへたり込みそうな自分が、戦って勝つ?


 そんなこと、できるか分からない。


 だけど――


 ここで、この腕を掴まなければ――


 自分は為す術もなく食い殺されて、その後は、紅緒たちが狙われるかもしれない。


 それだけは、駄目だ。


 分かっている。


 それだけで、花宮千歳が答えを出すには十分だ。




「――戦う! わたしが戦い続ける限り! わたしの大事なものは全部、誰にも奪わせない……‼」




 震える手で、ぬいぐるみの腕を取る。


 瞬間、ふたりの身体が淡い光に包まれた。




「素晴らしい! では、ワタシに熱烈なキッスをしたまえヨ! 花宮千歳!」


「うん、キスね! ……えっ⁉」


「早く! それが解放の条件なのだヨ! キス! したまえ! ヨ!」


「ええー……なんかうさんくさいけど、まァやるしかない、よね」




 持ち上げたぬいぐるみに、そっと顔を寄せる。




「まさか、わたしのファーストキスが、ぬいぐるみなんて」


「ワタシの名は、サザンカだ」


「サザンカ。……よろしく、相棒!」




 そのまま口に当たる部分へと、唇を押し当てた。




「――契約完了、だヨ」




 サザンカが愉し気な声を上げた瞬間、花宮千歳は閃光と化した。




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『わたしの相棒はぬいぐるみデス』 龍宝 @longbao

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