諜報員は騙されない。 ――ぬいぐるみ編

猫屋 寝子

第1話

 それは、大学のベンチにポツンと座っていた。


 ――可愛らしい白猫のぬいぐるみ。


 猫が大好きな貴家さすがまなぶは思わずそれを手に取った。それは見れば見るほど妹を思わせる。色白なところも似ているし、少しだけつっている瞳も似ている。猫ということは性格もツンデレで似ているはずだ。


 学は可愛い妹を思い出し、思わず口角が上がった。


 その時、後ろから誰かに声を掛けられる。声色的に、男性だろう。


「あの、すみません」


 学はぬいぐるみを手に取ったまま後ろを振り返る。そこには想像通り、男性――それも恐らく男子学生であろう人物がいた。学は見覚えのない顔に首を傾げる。


「なんでしょうか?」


 男子学生は人懐こそうな笑みを浮かべると学の手元に視線を向けた。


「それ、うちの妹がさっき大学へ遊びに来た時、忘れていってしまったようで、取りに来たんです」


「ああ、そうだったんですね。可愛いものだったから、つい手に取ってしまって。総務に届けようと思っていたところなので、ちょうどよかったです」


 学はにこりと笑うと、男子学生にぬいぐるみを返す。もう三月末だというのに、彼は手袋をしていた。


「それじゃあ――」


 学はそう場を後にしようとするが、男子学生に呼び止められる。


「あの、ここにいるっていうことは、理工学部生ですか?」


 学は不思議そうな顔を浮かべると、なんてことない顔で嘘を吐く。


「そうですけど、それが何か?」


 男子学生はほっとしたような顔を浮かべると、恥ずかしそうに頭を掻いた。


「よかった。実は僕、今年度ここの大学の理工学部へ編入することになっていて、今日その引っ越しでここに来たんです。家族が大学を見たいというので見学がてら遊びに来たんですが……大学を見ていたら段々と緊張してきちゃって。でも、同じ学部の人と会って、それも優しそうな人だったんで安心しました」


 学は恥ずかしそうな男子学生に笑いかける。


「そうだったんですね。初めは誰でも緊張しますよ。でも、安心してください。理工学部の教授達も優しい人ばかりですし、この大学にはそこまで癖の強い人はいませんから」


「ありがとうございます。それを聞いて、さらに安心しました」


 互いにそう笑いあうと、男子学生は右腕の時計を見る。


「あ、それじゃあ僕はこれで。そろそろ家族が帰らないといけない時間なので。ぬいぐるみ、ありがとうざいました」


「いえいえ。大学生活、頑張りつつ、楽しんでくださいね」


 学はそう一礼すると、ベンチに腰掛けスマートフォンを開く。ある人物と待ち合わせをしている――設定だ。


 それを見たまま受け取ったのか、男子学生は迷わない足取りで北門――教授達が出入りする門の方へと向かった。確か、北門の近くは教授達の使用する研究室が並んでいる。


 学はそれを見て違和感を覚えた。一般向け駐車場は東門が近いし、駅に向かうバス停なら南門が近い。そのため、北門を学生が利用することはめったにないのだ。


 男子学生の後ろ姿がだいぶ遠くなったことを確認すると、学ぶは立ち上がりその後を追った。



***


 男子学生の後を追うこと数分。彼は、もりという理工学部の教授の研究室を訪れていた。まるで中に誰もおらず、鍵が開いていることを知っているかのように、ノックもせず扉を開ける。


 学はすぐにその研究室の隣――研究準備室に忍び込む。こちらは鍵が閉まっていたため、5秒でピッキングをして開けた。学の器用さは、スパイ一家である家族の中でも秀逸だ。


 準備室に忍び込むと、研究室と隣り合わせになっている壁を軽く押す。すると押していた壁の部分が音も立てず奥に動いた。これはあらかじめ学が用意しておいた仕掛けで、研究室の手伝いをする――という名目で部屋へ入ったときにこっそり加工したものだ。別の件で準備したのだが、それについてはひとまずおいておこう。


 学はわずかに開いた隙間から、小型カメラを入れ中の様子を探る。そこで写った景色に、学は思わず眉をひそめた。


 ――森教授が頭から血を流し倒れている。


 凶器は恐らく、近くに落ちている灰皿。透明な灰皿に、真っ赤な血がべっとりとついている。


 男子学生はその死体に驚くこともなく、机の上に先ほどのぬいぐるみと封筒らしきものを置いた。その時、倒れていた教授が「うう……」と声を上げる。


 亡くなったものだと思い込んでいた学は驚いて声を上げそうになった。それは男子学生も同じようで、彼は灰皿を左手で拾い上げると思い切り教授の頭を殴った。そしてため息を吐くと、自分が何か証拠を残していないか確認するようにあたりを見回し始める。


 ――そういうことか。


 学は即座に警察官である兄へと簡単にメッセージを送ると、先ほどの小型カメラの映像をスマートフォンに送り少しだけ加工する。


 そして壁を思い切り押し開くと、部屋の中へと入った。壁は先ほどと同じように戻しておく。


 突然現れた学に、男子学生は驚いたように目を丸くしている。学は可愛らしい笑顔を浮かべた。


「さっきはどうも。――殺し屋さん」


「き、君はさっきの――」


 動揺が見て取れる男子学生に、学はおかしそうに笑った。


「殺し屋さんがそんなに動揺しちゃ、ダメでしょ。ほら、仕事してる現場を見られたんだから、あたしを殺さないと。あ、でも、殺せないか。森教授の殺人容疑をあたしに吹っ掛けようとしているんだもんね。ここであたしが死んだら計画は台無し。殺すわけにはいかないよね」


 なんと言ってもこの場を誤魔化せないと思ったのか、男子学生はベンチで出会った時と全く違う、冷たい視線を学に向けた。いつの間にかその手にはナイフが握られており、刃先が学に向けられている。


「別に殺したってかまわないさ。君は森教授を殺したあと、後悔して自殺した。そんなシナリオでも問題ないからね」


「ふうん」


 つまらなそうに言った学。男子生徒はそれに舌打ちをすると、ためらいなく彼女に襲い掛かった。


 学はそれを簡単に避ける。そして楽しそうに笑った。


「君に、あたしが殺せるかな?」


 男子生徒は学を睨むと、懐から拳銃を取り出す。学はその安全装置が外されていることを確認した。しかし、彼が殺し屋であれば、同業者の可能性がある学の正体を知るまでは殺さないだろう。もし同じ組織やその関連のあるところの人間だった場合、色々と面倒になるからだ。


「お前、一体何者だ?」


 声を低くする男子生徒に、学はわざとらしく両腕をさする。


「怖いよ。そんな物騒なもの、か弱い女の子に向けないで」


「か弱い女の子? 殺意を向けられて泣きださない女がか弱いわけないだろ」


「ひどいなぁ」


 学はそう言うと、瞬時に男子学生との距離をつめて手首を叩いて拳銃を床に落とす。そして落ちた拳銃を蹴って扉まで飛ばした。


「っち」


 男子学生はとっさに反応し、ナイフで学を刺そうと腕を振る。学はその腕を掴むと、「よっこいしょ」と男子学生を背負い投げした。背中を思い切り打った男子学生は息ができないようで、苦痛に顔を歪めている。その隙にナイフを取ると、「これ、没収ね」と扉の方に投げた。


 ナイフが扉の前に転がった時、ちょうど扉が開いて兄である貴家さすがてるともう一人紺色のスーツを着た刑事らしき男が入ってきた。名前は分からないため、学は彼のことを紺色と勝手に呼ぶことにする。


 床で痛そうにもがいている男子生徒と学を交互に見る輝。学は慌てて両手を横に振った。


「正当防衛だよ」


 輝は笑うと、「分かってる」と頷く。学はほっとしたように短く息を吐いた。


 その会話で輝達の存在に気づいたのか、男子学生は背中をさすりながら、その場に座って輝達に訴えかけ始める。


「助けてください。彼女がこの教授を殺しているところを目撃してしまって、襲われたんです」


 その言葉を真に受けた紺色が学を見る視線を厳しいものにする。その一方で、輝はわずかに男子学生への視線を鋭くさせた。


「詳しく、話を聞かせてください」


 先に紺色がそう口を開く。男子学生は両腕を抱えてわざとらしく震えながら話し始めた。

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