第4話
ぷにっぷにっと肉球を押し付けられる感覚に、瞼を開く。ボロボロと泣きながら覗き込んできているのは、クロだった。
ふわふわの毛並みへ指を滑らせる。
私、何を…?
「シェルぅー!良かった、目覚めたにゃっ!!」
そうだわ。勇者のせいで気を失っていたのね。
「心配かけてごめんね、クロ」
あれは本当に勇者、だったのかしら。あの魔力って、まさか。
起き上がるが、クロはしがみついて離れない。
ぴょんと、ジルが布団へ乗ってくる。ジーッと見つめられて、穴が開きそう。
「どうしたの?」
ジルは私から視線を外し、布団の上をウロウロし始めた。
「コノ魔力ノ感ジ、魔王サマダ。シェルフエール、魔王サマニ助ケラレタノカ?」
やっぱりそうなのかしら…。あの浴びせられた魔力の強さ。尋常じゃなかったもの。
「勇者が、魔王だったの」
「勇者ガ!?アイツ、全然魔王サマジャナカッタゾ!?」
「魔王だもの。変身魔法だって簡単にこなしてしまうでしょう?」
「ソンナノ、魔王サマナラ朝飯前っ」
どうしてジルが威張っているのかしら。可愛いけれど。
──時がくれば、君は私のものだ。
思い出して、背筋がぞわりと冷える。
逃げなきゃ。
「わ、私、ちょっとひとり旅してくるわ」
魔王に捕まるなんて、何されるかわかったものじゃないわ。
「オレもついて行くにゃ!」
「だめよ!」
ビクッと身体を震わせるクロに、ハッとする。
咄嗟に叫んでしまったわ。クロの好意を反故にしてしまった。
だけど、魔物は魔王に従う者。連れて行けば、私の居場所が筒抜けになってしまうかもしれない。
「大きな声を出してごめんなさい。だけど、あなたは連れて行けないわ。落ち着いたら帰ってくるから、この塔を守ってくれる?」
お願い、と、瞳で訴えかけると、小さく頷いてくれた。
良かった…。
小さな身体をぎゅうっと抱きしめてやる。
「ありがとう。ジル、クロをお願いね。私はすぐに出発するわ」
「モウ行クノカ?追手ガマタ来ルノカ?」
「そうね、そんな所よ」
荒れた部屋と、破れた黒いロングワンピースを魔法で直す。黒いポンチョのフードを目深に被り、必要最低限の荷物を持つ。
私、魔王から逃げ切れるかしら…。
弱気になってはダメよ!此処まで来たら生き延びなきゃ。クロの元にも帰ってこないといけないし。
跨いだ箒を握る手に力が入る。
「あとはお願いね、クロ」
「にゃあ」
寂しげな声に後ろ髪を引かれながら窓枠を蹴り、三日月が輝く夜空へ飛び立った。
どれくらい、飛んだかしら。
思ったより力んでしまったのか、魔力の消費が早くて、眠気が…。
うなじ辺りがチリチリするのが、魔王の魔力の残りがこびりついている様で、私を焦らせる。
出来るだけ塔から離れて隠れないと。
ふらふらと森の中へ降り立つと、真っ暗だ。
魔法で火をつけて、灯りにしよう。
ぼんやりと浮かぶ風景は、どれだけ歩いても変わらない。
色々あって、疲れているのかしら。
クロの温かさが無いのが、酷く心許ない。
フードの端をきゅっと握りしめて、近くにあった切り株へ座り込んでしまった。
今日は野宿ね。当分、そうなるだろうけど……いつまで?
寒くもないのに、一気に冷えていく自らの身体を抱き込むが、震えが止まらない。
大丈夫、大丈夫よ、シェルフエール。深呼吸よ…。
僅かに落ち着いた心音。ゆったりと立ち上がり、足を進めた。少しすると、雨がポツポツと降ってきて、木の根元に大きな穴を見つけた。
雨宿り、出来そうね…。中は、多少暖かい。出入り口に防御魔法…は、意味あるかしら。しないよりは、マシよね。
鞄を枕に丸まると、ぎゅっと目を瞑った。
外の音が気になって、眠れない。雨音はともかく、ガサッと葉が擦れる音は足音のようで…。聞こえるたびに、心臓がドクドクと煩い。
大丈夫よ。こんなの幼い頃は当たり前だったじゃない。
***
ドカドカと大きな足音が近づき、乱暴に開け放たれるドアから入ってきたのは、葉巻や女物の香水の匂いを纏わり付かせた父。
「あ、お父さん。おかえりなさ」
幼い私に伸ばされる手は、力任せに髪を握り込み、私を床へと叩きつけた。脳が、揺れる。
いたい。
「お前、今日、働きに出なかっただろ?何してたんだ?え?」
ブチブチと千切れていく髪の毛。
いたい、いたい。
「ごめ、なさ…。売り物、無かった、から」
パンっと叩かれるのは、痣の治りきっていない頬。
いたい、いたい、いたい。
「今日もお前に食わせる飯はねぇぞ」
外へ投げ飛ばされ、瘡蓋や生傷の上を擦る砂利。
いたい、いたい、いたい、いたい…。
月も出ていない星明かりだけが頼りな中、町外れの大木の下で丸くなると、カサカサと身体を這う虫が怖くて、怖くて、はたいて落とした。
「虫、嫌いなのか?」
木の後ろから現れた同年代らしい男の子は、誰だっただろう。顔も思い出せない。
私は何も答えなかったのに、彼は私の横に座り、顔を覗き込んできた。
「傷だらけ。…痛そうだな」
背中を優しく撫でてくれる掌に、肩が震えた。
ゆっくりと引いていく痛みに、私はパチリと瞬いた。
「治癒魔法だ」
「ま、ほう?」
そうだ、と、彼は笑った。近くの枝を真っ二つに折って、私へ手渡す。
「元に戻れって思いながら、魔力を込めてみろ」
魔力を込めるなんて、どうやって。
首を傾げながらも言われた通りにやってみると、木の枝が元の1本になった。
「すごい…」
「今日からは君の力だ。誇ると良い。怪我も全て治ったな」
言われてみれば、どこも痛くない。
目を丸くしていると、彼は立ち上がる。
「時が来たら、迎えに来る」
そう言って、男の子は目の前で消えた。
翌朝、無傷で帰ってきた私に父は驚き、町の兵士へ酒の肴に話した。それは王城へも届き、私は魔女として召し上げられたのだ。
***
あの後、父はどうなったのだろう。連絡もしなかったし、こなかったから…知らない。どうでもいいと思ってしまう私は、薄情だろうか。
ゆらゆらと揺れる炎は、私の魔法。私の力。
耳を塞いで、さらに小さく身体を丸める。それなのに、パキッと枝を踏む音がはっきりと聞こえた。
誰…。お願い、気づかないで。
「誰かいるのか?」
ひゅっと、喉が鳴る。この声は…。
防御壁の向こうから、こちらを見るのは。
「ウィルラン王太子殿下…?なんで」
「シェルフエール!?森の奥の塔で死んだのではなかったのか!?…っ、此処を開けてくれ!」
い、いや…っ。私は、魔王だけでなく、また国にも追われるというの!?死にたくない。私は、何も悪いことなんてしてないのに!
防御壁をドンドンと叩く音はまるで、殴られてるみたい…息が、苦しい。
「私はあなたへ危害は加えない!お願いだ、ここを開けてくれ」
嘘よ。私は何処へ行っても殺されるんだわ。
「…っ、すまない。信頼してほしいなど、烏滸がましかったな。だが、ここは王城の裏だ。誰が来るともしれない。せめて、私を中に入れてくれないか」
え、私、そんなに周りが見えていなかったの?王城の裏だなんて…。自ら死にに来ている様なものじゃない。
もし、このまま殿下に騒がれたら。
ゾッとして、防御壁はそのままに、殿下を招き入れた。
「ありがとう、シェルフエール」
「どうして、おひとりでこんな所に?」
王太子が護衛もつけずに雨夜の森になんて、危険だわ。
「私の部屋から明かりが見えて…。シェルフエールが処刑されたなど、信じたくなくてな。もしかしたらと…。本当に、会えるとは思ってなかった」
「どうか、私はそのまま死んだことにしておいてください」
殿下は私の願いを聞き入れる義理はない。きっと、彼は陛下に報告するのだろう。
「あなたは反逆など企む様な人じゃない。父は何か思い違いをしているんだ。私が説得をするから、戻ってきてはくれないか?」
説得だなんて、無意味だわ。だって、面と向かって、憎悪を向けられたもの。
「どうしても…嫌だろうか」
この時の私は、年下の彼を侮っていたのかもしれない。
もう喋る気力も無い口を、薬品が染み込んだハンカチで押さえられるなんて、想像もしてなかった。
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