悪役貴族の中間管理職は生存IFを目指す

納戸丁字

第一章 36協定も労基もない世界

第1話 仕事に人生を捧げても無意味だぞ

 豚だ。醜悪な豚のような男だ。


 その瞬間まで、俺はその男に確かに忠誠を誓っていた。子供のころから躾けられ教え込まれた、忠義心と一定の打算がない交ぜになった服従心。それを、ズビシェク・ヴォジェニに抱いていたはずだった。


 しかし、今はそれどころではない。前世の記憶を取り戻したからだ。


 俺が俺であることに変わりはない。ただ、ここではないどこかの世界で働きづめの挙句に死んだ男の残滓が、俺の脳裏で囁いているだけだ。


『仕事に人生を捧げても無意味だぞ』


 ……と。亡霊は尚もぶつぶつと言葉を重ねる。


『来世の上司はこんなバカげたインテリアセンスをしているのか? 冗談だろ?』


 食虫植物を描いた壁紙。エレガントかつ悪趣味。奥のマントルピースにびっしり彫刻されているのは地獄の情景だ。悪趣味なエレガンスの極み。


 初めて足を踏み入れたはずの、この秘密めいた執務室に、俺は見覚えがある。ただし、画角が異なっていたが。記憶にあるのはモニタに映し出された、見おろし視点のレンダリング画像だ。その場景と、いま目の前に広がる光景がそっくり同じだった。


 片膝をついた平伏の姿勢を維持しつつ、視線をそろそろと上げる。


 豚、もといヴォジェニ様のご尊顔を拝見し、確信を得る。


 やっぱりこいつは『前世の俺亡霊』がドはまりした挙句、死ぬ寸前までプレイしていたゲームに出てくる悪役貴族すべての黒幕ヴォジェニ公爵その人だ。


「亡きお前の父と同様、いや、より一層の働きをお前には期待しているぞ。そもそも我らは――」


 ヴォジェニ公は今もってむにゃむにゃと口上を述べている。内容をかいつまめば『今後一生こき使ってやるからな』というものを、あれこれ言い回しを変えて相手へ聞かせているに過ぎない。


 神妙な表情を取り繕い、『有難いお言葉』を拝聴する姿勢を装う。


「お前は、まだ独身だったかな?」


「え、ええ。仰る通りでございます」


「婚約者は世話してやっているが――確かハーディの末子だったか――しかし、身を固めるにも実績が必要だろう」


『ああ、あのキャラか』(そうだ、彼女だ)


 混乱する頭の中に、婚約者であるパメラの姿がフラッシュバックした。涼しげに腹の底まで見透かしてくるような、藍色の瞳が浮かんで消える。


「そこでお前に、頼みごとがある。――なあクレメント?」


「はっ!」


 粘っこい声、嫌味なまでに完璧に洗練された発音。ヴォジェニ公が魔力防衛の程を誇示する指輪だらけの手をかすかに振った。俺はつとめて冷静に、品性を損なわないだけの優雅さは保ちつつ、可及的速やかにその場から立ち上がる。


 そう。俺はクレメント・ボロフカ。ヴォジェニ公から無茶ぶりをされこき使われて、見返りの酒色しゅしょくに溺れて死んだ、そんな父の男爵位を継がざるを得なかった男。


 そして、ゲームの世界の悪役貴族……の手下だ。


「知っての通り、代々のボロフカ家当主は我がヴォジェニに陰日向によく仕えてくれて来た。お前も私の望みを十全に叶えてくれるのだろう? 信じておるからな」


「――勿体なきお言葉です!」


 お願いごとに見せかけた命令だ。そうでなくても公爵家の権力にたてつく選択肢はない。俺は直立不動のまま、ヴォジェニ公の指令を拝聴する。


 そして内容のえげつなさを知るにつれ、背中ににじむ冷や汗が、とうとうだらりと流れ落ちた。




「どうする?」


 鏡に向かって問いかける。しかし答えるものはない。あれほど脳内でわんわんと鳴り響いていた『亡霊前世』の声も、馬車に揺られて帰宅する道すがらにすっかり沈黙していた。


 と、いうよりもクレメント・ボロフカの現在と、現代日本の社畜の過去が、俺の中ですっかり統合されてしまったようだ。色違いの砂が混じり合ったがごとく、恐らくは今後一生、こいつらが分かたれることはない。


 ひとまず、俺が生きるこの世界がゲームに過ぎないという点への考察は棚上げしておく。今生きる世界が虚構であるということでもないのだろう。ゲームの記憶と俺が今生きる世界はぞっとするほど似通っているが、その精緻さには雲泥の差があった。


 ここが、ここだけが俺の生きる現実だ。あるいは書き割りの世界に過ぎないのかもしれないが、そのことに懊悩することに意味はなさそうだった。『現代日本』という神の座す世界がある、程度の理解に今は留めておくことにする。


 哲学的な思考にふける余裕はないのだ。差し迫った危機が俺に訪れていた。


「騎士でロベルトといったら、しか有り得ない」


 ここがゲームの世界、もしくはほとんど同一といってよいくらいに類似した世界だとする。そうすると、そこには不可欠な人物が存在した。


 主人公だ。


 名前をアランといい、今から数年後に華々しい活躍の数々をして世界の中心に躍り出ることになる少年だ。


 そして、古参騎士のロベルトとは彼の父親のことだった。


 俺はこれから、そいつを暗殺せねばならない。


 再び脳裏に台詞を思い描く。といっても、今度はつい先ほどのヴォジェニ公爵の発言を、だ。


『――騎士団の一部にいささか困った連中が居てな。なかでもロベルトとかいう古参騎士がやたらと私の近辺を嗅ぎまわっているのだよ。実に困ったことじゃあないか! ……クレメントよ、は、解るね?』


 つまり、『後ろ暗い事件が明るみになりそうだから、捜査担当者を始末しろ』と仰せつかった訳だ。


 ヴォジェニ公とくれば叩けば埃がいくらでも出る手合いである。けちな贈収賄から、果ては政敵である大物貴族の暗殺まで、黒い噂の総合商社だ。が、それが正義感からの行いであれ、彼の暗部に深入りしすぎるとこういうことになる。


 この指令はいっぽうで、悪役貴族一派の新米幹部クレメント、つまり俺の手際を確かめるという狙いもありそうだ。……そして手を汚させることで、後戻りできなくさせる目論見もあるに違いない。


 鏡に映っているのは彫が深い顔立ちの青年貴族の姿だ。うねった黒髪が片目の上に被さって陰を落とし、細面の顔立ちも相まって、いかにも神経質そうで陰気臭い雰囲気を放っている。


 そいつはいま、心底うんざりした表情を顔に張り付けていた。


 前世の俺がゲームをプレイした記憶によれば、クレメントというキャラクターは様々な悪事に手を染めて、最終的には報いを受けて死んでしまう役回りの人物だ。それだけでも御免こうむりたいが、最悪なのはここからだ。


 死に際の俺は、それはそれは惨いことになる。


 かつての俺がプレイしたゲームでは、画面の中のクレメントは、皮は剥がれ、目は抜け落ち……レイティング区分はかろうじてDだった成人向けではなかったから描写こそ直球ではなかったが、どう考えても五体満足じゃいられないような目に遭わされていた。


 最後に言い残すセリフが「死なせてくれ!」なのだからお察しだ。黒幕たるヴォジェニ公の末路は、エンディングのナレーションで「処刑された」と一言触れられるだけだというのに、なんだこの落差は。


 主人公たちから見えやすい立ち位置で暗躍していたためだろうか。作品の中でヘイトをあつめるのはヴォジェニよりも、実行部隊へ直に指示を下していたクレメントの役割だった。前世の俺が初見でイベントに遭遇した感想も「ひでえな」と少し思う程度だった。


 ……しかしことがわが身に降りかかるなら話は別だ。冗談じゃないぞと言いたい。が何をした?


(――ああ、そうか)


 そう、俺はまだ何もしていない。


 今の姿は記憶にあるキャラグラフィックよりも見た目が若干若々しい。陰気くさいなかにも、辛うじて初々しさが残っている程度には。そして悪役貴族の親玉たるヴォジェニ公も髪の毛がちょっとフサフサしていた。アレがすっかり抜け落ちるまでにはまだ数年の猶予があるようだ。


 ストーリーはまだ始まっていない。今後もゲームの展開に馬鹿正直に従う必要はどこにもないのだ。立ち回り次第では――嫌われ者の悪役の立場から降りられるかもしれない!


 先行きに希望が見えてきた一方で、話は最初に立ち戻る。俺はゲームも始まる前から、主人公の父を暗殺せよと指令を受けているのだ。


 言いつけられた仕事を放棄すれば、あの豚のようなヴォジェニ公はさぞかしがっかりすることだろう。

 そして俺の首は物理的に飛ぶことになる。早ければ翌日、遅くとも次の週には。


 では目先の安全を優先して、暗殺指令を馬鹿正直に実行したら? ――俺は主人公の親の仇になり下がる。心底恨まれ、復讐の炎を燃やされ、英雄物語に則って討たれるための人物に。


 正しい使命と選ばれし運命を帯びた英雄の刃は必ず悪を刈り取る。少なくとも俺が遊んだゲームの中では、そうした物語原理に則ってストーリーは進行していた。


 つまりこういうことだ。どちらを選んでも、待ち受けるのは無残な死だ。ゲームの断罪イベントの凄惨な内容が脳内を駆け巡る。人払いをした執務室で、俺は文字通り頭を抱えていた。


「――俺にどうしろってんだ!?」

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