お姉ちゃんのぬいぐるみ

椎楽晶

お姉ちゃんのぬいぐるみ


 私が小学生に上がるより前、母方の曽祖母が亡くなった。

 一度も会ったことがない人で、お葬式で行った山に囲まれた田舎の地も初めて訪れる場所だった。

 それまでコンクリートに囲まれ、自然は幼稚園か近所の公園ぐらいしか知らない私にとって、鬱蒼うっそうと茂る木々に覆われた山々は意味もなく恐ろしく感じられた。

 見知らぬ大人たちが一様に真っ黒い服に身を包み、お坊さんの唸るような念仏に脳を揺さぶられ、泣き出したくなるのを息を殺して必死に耐えた。

 年の離れた中学生になっていた姉は退屈この上ないと、不機嫌な顔を隠そうともせず、田舎特有のまとわりつく小さな蚊を鬱陶うっとうしそうに払っていた。

 遠方からの出席ということで、通夜からの出席でないのが幸いだった。

 朝早くからの葬儀と出棺。長い待ち時間を経て納骨をし、ゆっくりして行けば良い、と誘われるのを振り払って逃げるように帰宅した。

 実際、逃げたのだろう。ここに来るまでの母の嫌がり様はそれはそれは凄かった。

 ここは、私にとっては『母方の』と一括りになる所縁ゆかりの地だが、母にとっては彼女の父方一族の地。古い土地によくある男尊女卑信仰の元、母と叔母(母の姉)の二人姉妹なのを相当に当て擦られたらしい。

 そこに、姉と私と言う二人姉妹で行かねばならないのは嫌で嫌で仕方なかったのだろう。実際、私たち姉妹はジロジロ見られ、ヒソヒソとされていた。

 かつて傷つけられた自分たちのように、娘たちを傷つけられる前に帰ることは最初から決めていたのだろう。

 しかし、覆い被さる様だった山々もだいぶ遠く小さくなったあたりで、姉が不調を訴えた。


 「お腹が痛い…気持ち悪い…」


 そう訴えられた父が慌てて車を止めた途端、姉は車外に飛び出し道端に吐き戻し始めた。

 しばらくゲェゲェと吐き出した後、真っ青い顔でぐったりと後部座席に横になる姉に、これ以上の移動はは不可能に見えた。

 母はきっと少しでも帰路を進みたかったのだろうが、力無く自分に寄りかかり息も荒く冷や汗をかく姉の姿に、グッと飲み込んだ様子だった。

 路肩に停めた車の中に母と姉を残し、私は夕暮れの赤に染まる田舎の商店街…とも言えない、青果店や雑貨屋、薬屋などの商店が3〜4店並ぶ中、ポツンとたつ交番に道を聞きに行く父に着いて行った。

 吐き戻した後、口もすすげぬ姉の呼気でえた様な匂いのこもる車内にいたくなかったのだ。


 なんとか見つけた宿での食事は、それまで旅行で行ったホテルの料理と全然違って普段食べる食事よりも貧相な内容だった。

 予約もしていないお客のために、なんの準備もないのに方々回って材料を買い調理してくれたことを今ならありがたいと思えるけれど、当時の私は泣けるほどにがっかりした。

 女性陣の不満が今にも爆発しそうな気配を察した父は、少し散歩に出ようか、と私を連れ出してくれた。

 周囲に期待できるものなど何もないのは、宿を探している時に判明している。

 田舎の歩きにくい畦道あぜみちを虫を振り払いながら歩くのは嫌だったが、腹痛と吐き気に未だ見舞われ寝込む姉と、予定が崩れ気が立っている母と一緒にも居たくないので、私は父の提案に外に出ることにした。




 

 日もだいぶ沈み、赤色に染まっていた風景が青く暗く闇に飲み込まれ始めていた。

 どこか遠くから笛や太鼓の音が響いてくる。

 暖簾のれんを仕舞い店先の掃き掃除をしていたお店の人が、今日はお店の裏の方にある小山の神社でお祭りだと教えてくれたので、そこへ行こう、と言うことになった。

 泊まる支度なんてしていなかったから、潰れかけに見える雑貨店で買った知らないキャラクターのサンダルとワンピースだったけれど、お葬式用にと畏《かしこ

》まった服を朝からずっと着ていたのでだいぶ気が楽になっていた。

 今日がピークに機嫌の悪かった母や、休日の部活動を潰された姉。

 着慣れない服で車内に箱詰めされ、朝から気が張っていたのは幼い私もだったのを、ワンピースの裾を揺らす風に開放感を感じて実感した。

 

 「好きなの買って良いぞ」


 田舎の小さな神社のお祭りなので、そんなに大した出店の数があるわけでもない。それでも、夕闇を提灯ちょうちんでぼんやりと照らし、ソースや醤油の焦げる匂いをさせる縁日の屋台は十分に魅力的だった。

 がっかりするほど質素で、謎の煮物や佃煮ばかりで食べられなかった宿の食事と違い、屋台の食べ物はよく食べるものばかりで安心して口に運べた。

 いつもは一人一つ、と厳しく言われていたが今日の父は制限なく買ってくれた。

 たこ焼き、焼きそば、とうもろこし、人形焼、綿菓子、チョコバナナ。

 食べきれなかったものは全部父のお腹に消えて行ったから、きっと父も宿の食事は不満だったんだろう。

 食べ物の屋台を見てまわっている合間に、母や姉へのお土産も買っていく。

 母はともかく、姉はきっと今日はもう何も食べられないかもしれないから、と言って、ラムネや金平糖を量り売りしている屋台があったのでそれにすることにした。

 可愛い小瓶の形をした透明なプラスチックケースに、姉の好きな色で揃えてお菓子を入れていく。

 

 「じゃあ、それをお土産にもう帰ろうか」


 幻想的な縁日の世界から、あの息の詰まる宿の一室に帰るのは少し気分が重くなるかと思ったけれど、お腹がいっぱいの充足感と手の中のカラフルな二つの小瓶がしっかりと防いでくれた。

 食べ終わった空き箱などをゴミを捨てるついでにお手洗いにいく父を見送り、待っているように言われた鳥居の下でぼんやりと空を見上げる。

 縁日の提灯灯りがそばにあるのに、自宅から見上げる星空と違い降ってくるようなその空に知らず長く重い息が吐き出された。

 そうして、ポカンと口を開けて空を見上げていたら、まるで声をかけられたような気がしてそちらを見てみた。

 そこにはポツンと小さな屋台があった。

 他の屋台は賑わう神社の中にあるのに、そのお店は神社外。鳥居の目の前だけれど、電柱についている街頭以外の明かりもない暗ぼったい場所にあった。

 なぜか酷く気になった。

 真上からの灯りだけの薄暗い屋台と、表情もよく見えない店員が座っている。子供の膝ほどの高さしかない台の上には、何やら小物が並んでいるのが見えるが詳細は分からない。

 そう、何もかもが薄ぼんやりとしてよく見えない。分からない。だから気になる。

 気がつけば私は、父の『ここで待つように』と言う言いつけを破り、フラフラと細い道を跨いだ向こう側の屋台に吸い寄せられていた。





 「やぁ、お嬢ちゃん。いらっしゃい」


 近くで見ても売り物を置いている台の向こうは暗く、店員さんの顔はよく見えない。と言うか、台の上の物もよく見えない。

 それでも見える範囲に置いてあるものを隅から眺める。

 不思議なラインナップだった。

 焼きそば屋さんは焼きそばを置き、チョコバナナ屋さんはチョコバナナを置く。量り売りにはたくさんのお菓子が置かれていたが、いずれも同じ系統の『小粒のお菓子』だった。

 それに比べて、このお店には統一感がなかった。

 持ち手のついた手鏡、小さな引き出しとペン立てが一緒になった小物入れ、鮮やかな千代紙の貼られた万華鏡に風車。それらに間をとり持たれるように、数々の人形。こけし、日本人形、おもちゃのような雛人形、動物のぬいぐるみ、腕を入れるパペット人形。随分古い着せ替え人形の様なものなどの様々な『人形』たち。

 どれも少し薄汚れた感じがして、汚いな、と思いながら左の端っこから眺めていたら、右の端っこ。見えるギリギリのところで、一体のぬいぐるみが目に入った。

 赤いチェック柄で作られたテディベアのぬいぐるみ。小さい胴体から長めの手足が伸びていて、首には濃い緑色のリボンと小さな鈴が付いていた。

 他の売り物が少し汚いものばかりなのに、そのテディベアのぬいぐるみは汚れ一つなく黒いボタンの目には傷もなく新品に見えた。


 「お嬢ちゃん、これが気に入ったかい?」


 目の前でヒョイっと持ち上げられ一瞬視界から消えたと思ったら、目の前の店員が手に持っていた。

 手足の接続部分が少し稼働するらしく、お行儀良く座っていた手足がだらりと伸びる。


 なぜかとても欲しくなった。


 もっと大きなテディベアのぬいぐるみは持っている。ふわふわで柔らかいぬいぐるみだ。たいして、今目の前で店員がふざけて手を振らせてるテディベアはつるりとした毛のない布だ。

 でも、その赤いチェック柄がとても可愛くて、真っ黒なボタンの目が綺麗に輝いて見えて…。とても、とても欲しくなった。

 けれど、もう今日は父に目一杯にわがままを言った後だ。

 食べたいものを食べたいだけ買ってもらい、輪投げやボール掬いなどの遊戯もいっぱい遊ばせてもらった。

 姉へのお土産だったの量り売りのお菓子も、自分の分まで一緒に買ってもらっていた。そこにさらにに大きいこのぬいぐるみを欲しいと強請ねだるのは、子供心にも流石にはばかられた。

 欲しい、けれど…。と、悩む子供への営業トークの定番は『お父さんとお母さんにお願いしてみな?』だが、まるでそれはしたくないと思っている心を読んでいるように、そのフレーズは使わなかった。

 代わりに、そこそこに重いトレードを仕掛けてきた。


 「なら、そのお菓子と交換しよう。なぁに、片方1つをくれれば良いよ」


 小瓶型のプラスチックに入れたラムネや金平糖。

 姉が好きな色が中心のカラフルな瓶と、私が好きなピンクだけを詰めた瓶。

 散々悩んで私は結局、姉の分と考えて彼女の好きな色を詰めた瓶を差し出した。





 「お待たせ、帰るぞ。」


 そう頭上から声をかけられ、飛び上がるほどびっくりした。

 勢いのまま立ち上がった私にさして不審がることもなく、父は来たときと同じように私の手を取り宿への道を歩いていく。

 瓶とぬいぐるみとを交換するように受け取り、空になった手の向こうから父の声がして驚いて飛び上がったら、父が立っていた。

 少しタバコの匂いもしているから、ついでに一服もしてきたのだろう。

 母はあまりタバコは好きじゃないし子供の前で吸うのも嫌がるから、父はこうして離れたタイミングで吸ってくるのだ。

 父もお腹いっぱいになって、タバコも吸えて機嫌が良いのだろう。来る時と違って口数も多く声も明るい。

 私は手の中の瓶が一本減っていて、代わりにそこそこに大きなぬいぐるみを抱えていることを、いつ問い詰められるかドキドキしていたが聞かれることはなかった。

 

 「お姉ちゃん、お土産のスーパーボール喜んでくれると良いなぁ。」


 なんて言われて混乱したぐらいだ。

 なぜか、姉へのお土産が私がやったスーパーボール掬いの成果になっていて、量り売りのお菓子を詰めた瓶のことはな無かったことになっていた。


 戻った宿の部屋では、母は既に入浴を終え浴衣に着替えて退屈そうにテレビを見ていた。

 二間続きで今は閉じられたふすまの向こうはもう布団が敷かれているらしく、姉が寝ているという。

 私も父と一緒にお風呂に行くように浴衣とタオルを渡された。

 ここの宿は家庭のお風呂と同じ浴場らしい。『温泉』でないことに改めて宿に対してガッカリしたが、そんなこととは無関係に、お湯に浸かり温まれば途端に眠気が襲ってくる。

 半分寝ながら父に抱えられ部屋に戻ると、そのまま布団へと運ばれる。

 交換したぬいぐるみをしっかり抱え、もぞもぞと姉に向いて寝返りを打つ。

 物音で薄く目が覚めたのか、ポツリと『おかえり』と声がかけられた。気分が悪いと言ってから久しぶりに聞いた姉の声。


 「楽しかった?」


 少し、声が弱々しく聞こえるが体調も悪いし、眠っていたところを起こされたからだろう。

 そんな姉を元気にしたくて、でも結局なんと言って良いのか分からなくて。

 最終的に自分が縁日でどれだけ楽しんできたのかを、必死に話していた。

 そして、最後に抱きしめていたぬいぐるみを自慢げに見せる。なぜか都合よく姉には違うお土産と言うことになっているので、姉の分のお菓子と交換だったことは当然内緒だ。


 「可愛いね」


 その言葉に嬉しくなって、私は少しだけ布団から身を乗り出してぬいぐるみを姉の布団に押し付けた。


 「今日はお姉ちゃんに貸してあげる」


 掛け布団越しに押し付けられたぬいぐるみを受け取った姉は、『ありがとう』と小さく呟きお互いに『おやすみ』と言い合って眠りについた。


 翌日、慌ただしい足音と『救急車を!』と叫ぶ父の怒鳴り声と母の号泣で目が覚めた。

 尋常ではない様子の両親に恐る恐る起き上がる。母が姉を抱き上げ泣き叫んでいた。だらりと垂れた腕は力無く、ぴくりともしていなかった。ぬいぐるみが側に転がっていた。





 まだ私が幼く、小学校にも通う前。

 見知らぬ土地のたまたま行き当たった宿で、姉はそのまま死んでしまった。

 近いからという理由で、葬儀に出席していた母方親族の主だった人間も病院に駆けつけ、放心状態の父と泣きっぱなしの母に変わって諸手続きや私の面倒を見てくれた。

 その中でポツリと親族の誰かが言った。


 「だから女はダメだって言ったのに」


 吐き捨てるように言われたその言葉は、しかし周囲の大人の誰の発した言葉なのか分からず人の群れに飲み込まれていった。

 姉の葬儀の際に、最後に姉が抱えていた赤いチェック柄のテディベアを遺品として棺に入れられかけたが、それは自分ので姉のお土産はこっちだ、とスーパーボールを入れようとしたが、ゴム製品は一緒には入れられないと言われ、遺品として私が持つことになった。

 姉の葬儀以降、私はこっそりぬいぐるみに姉の名前をつけた。

 両親がいる場所では呼ばない秘密の名前。二人が留守の時や、深夜の寝静まった頃にこっそり姉の名前を呼んで話しかけると首の鈴がリンと小さくなるのだ。

 返事をもらって、その日の出来事を話すのが私の日課になった。

 『はい』はリンと一回。『いいえ』はリリンと二回。楽しいとリリリリと軽く、悲しかったり怒ったりするとリンリンリンと強く何度も鈴を鳴らす。

 そうやって簡単な意思の疎通ならできた。だから、ちっとも寂しく無かった。だって、姉はぬいぐるみこっちに移っただけだ。

 きっと、あの晩に体調が悪くて辛すぎて体が嫌になっちゃったんだ。

 でも、両親にはぬいぐるみのことは教えていない。

 正確には一度伝えたけれど、泣かれてしまった。

 寂しさからぬいぐるみを姉と言い張っている子、と思われてしまったみたい。暗く悲しい顔をした母に、姉が今もいることを教えてあげようと思ったのに…。

 最近では鈴を鳴らすだけでなく、少しなら立ち上がれるようになったみたい。

 朝目が覚めたら枕元で寝ていたり上に乗っ下ていたりする。

 もうすぐ私は東京の大学に行くために家を出ることになっている。

 お姉ちゃんも一緒に連れて行こうと思ったけれど、娘が二人していなくなったらお母さんもお父さんも寂しいと思って、お姉ちゃんは置いていくつもりだ。

 一応、二人にとってのお姉ちゃんのいる場所になっているお仏壇に置いていくね、とぬいぐるみのお姉ちゃんに伝えたら一晩中鈴を鳴らさらて困った。

 お姉ちゃんも寂しいって思ってくれてるのかな?うん、私も寂しい。一人暮らしも不安だ。でも、いつかは独り立ちしなきゃだし。

 お姉ちゃんが退屈しないように、お姉ちゃんへのお土産だったスーパーボールも一緒に置いていくから、夜中とか退屈な時に遊んでほしい。





 数十年後、父も亡くなり母一人になったので私たち一家の近くに越してもらうことになった。

 引越しの際の荷物整理で、ぬいぐるみが父と姉の仏壇にないのに気がつき行方を聞いてみた。


 「あのぬいぐるみねぇ…貴女、あの子の名前つけて可愛がってたから言いにくかったんだけど…」


 気がついたらあっちこっちに転がってるし、暴れ回ったみたいに部屋がめちゃくちゃになってたりするし…夜中に、一緒に置いてたスーパーボールで遊んでるみたいな音が響いて、怖かったから近くの神社の人形供養に出してお焚き上げしてもらったの。ボールは捨てたわ。


 ゴミ袋に入らないものを次々放り込みながら母が言う。


 ぬいぐるみに姉の名前をつけていたことに、両親は気がついていたらしい。

 気味の悪いことが起こるが、唯一残った娘の大切なものだから、と処分するまでだいぶ我慢したらしい。

 そっか…お姉ちゃん、逝っちゃったんだ。

 息子に合わせてあげたかったけれど、もうぬいぐるみで喜ぶって年齢じゃなくなったからね。


 まぁ、でも、最後に一目会いたかったかなぁ…。





 とある地方のとある一族に伝わる、とある風習がある。


【女の子はもってかれる。だが持っていかれた家族の男の子は繁栄する。】


 一体、誰にどこへ持って行かれるのか。

 既に廃れたこの一族に、応えられる人間はいない。

 

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