SSS

メガーネ

誰の戦争

 イヴァン・グレデチャフ・アウトロメオ。17歳。身長は169㎝。キーラ要塞駐屯医師団少年医。両親が医療従事者であり、体も弱いことから徴兵を免れ、医師として従軍。幼馴染のエレーナとは恋仲。愛称はヴァーナ。

 エレーナ・アルヒポフ・ヤノフスキー。16歳。身長は165㎝。キーラ要塞駐屯少女狙撃兵第16小隊長。山村で育ち、狩りで鍛えた類い希なる狙撃能力を有する。この若さで100人抜きの勲章も与えられている。イヴァンを追って志願兵として従軍。幼馴染みのイヴァンとは恋仲。愛称はレナ。

 キーラ要塞。連邦と共和国の国境に位置する要塞。もともとは中世の城だったものを改装し要塞に。そのため周囲は古くから城下町として栄えてきた。現在行われている共和国との戦争では防衛の要となっているため、毎日激戦を繰り広げている。城下町の人々の避難所としても機能。


 キーラ要塞 医療室

「ヴァーナーーーーーー!!!」

 今日の仕事を終え、交代の時間になったレナは真っ先に医務室へ向かった。そして支度中のヴァーナを発見するやいなや勢いよく抱きつく。

「いってぇ!」

 突然後方から抱きつかれたヴァーナは驚きの声をあげた。実際さほど痛くはないし、抱きつかれて少し喜んでいるのだがそれは内緒である。

「レナ!」

 ヴァーナは抱きついてきたレナの頭を愛おしそうになでる。

「怪我は?」

「だいじょうぶい!」

 そう言うとレナはニコッと笑ってピースを見せつけてきた。

「ありがとう、無事に戻ってきてくれて」

 どうやらヴァーナは相当心配していたようだ。

「心配しすぎだよ~。私を誰だと思っているのさ」

 レナはそんなヴァーナの態度に不服なようでちょっとむっとなる。

「心配もするさ。レナには怪我を負ってほしくない」

 余りにも爽やかに言う幼なじみの発言に少なからず照れてしまうレナ。

「ん、ありがと」

「もう今日はいいのか?」

「うん。交代の時間。じゃあ私ご飯食べて寝るから交代の時間になったら起こしに来て!」

 レナは当たり前のようにヴァーナに寝起きのコールを頼み、寝室にかけていく。

「あ待って!」

 ヴァーナが引き留める。

「戦況はどんな感じ?」

 激戦が続いているこのキーラ要塞、いつ敵がなだれ込んできてもおかしくはない。情報とは共有こそが大事なのである。

「んーいつも通り厳しいよ。でもまだ大丈夫。なんとか押さえ込めてるよ」

「そうか」

 少し苦い顔になった後寝室に向かうレナに声をかける。

「お疲れ様、おやすみレナ」

「うん、そっちも頑張ってね。おやすみヴァーナ」

 これが彼らの日常であった。


 キーラ要塞 市街地 前線医療所

「イヴァン!仲間が撃たれた!助けてくれ!」

 怒号と銃声が飛び交う中でも与えられた仕事はこなさなくてはいけない。

「わかったすぐいく!」

 今は目の前の兵士が精一杯だというのに怪我人はどんどん増えていく。

 目の前の兵士は腹部に銃弾がのめり込みかなり危険な状況。今は応急措置として鎮痛剤を飲まし、包帯を巻くことぐらいしかできない。止血もまともにできやしない。しかし、もう次の兵士が待っている。

「くそったれ」

 思わず悪態づく彼。

「…………」

 兵士の元に駆け寄ったヴァーナは怪我の具合を確かめようとする。その兵士はもう死んでいた。

「イヴァン!次はこっちに来てくれ!」

 死を惜しむ時間もなく怪我人は増えていく。

「ああ!今行く!」

 駆け寄ろうとするもおもむろに立ち止まる。

「俺は何のために……」

 それは彼の戦場であった。


 キーラ要塞 レナの寝室

「おい、レナ起きろ。交代の時間だ」

 自分の任務を終えた彼は自室に帰って休む前にレナを起こしに彼女の寝室の扉を開けた。

「んぁ、おはようヴァーナ」

 気が抜けた声で挨拶をする彼女の寝間着は少しはだけていた。

「おはようレナ」

 咄嗟に顔を背けながらも返事をする彼。

 外ではいつものように銃声が鳴り響いている。

「いい朝だね」

「まったく、いい朝だ」

 戦場ならではの皮肉もまた彼らの日常である。

「そっちはこれから休憩?」

「ああ」

「そっか、じゃ私いってくるね」

 悲しげで憂鬱そうにうつむきながら彼女は軍服に着替え、寝室を後にする。

 彼女は彼に手を振った。

「気をつけて」

 彼もそれに応えるように言葉を送る。

「うん、任せて」

 どんどんと遠のいていく彼女の背中に彼は少しの寂しさを感じた。

「あ」

 ふと、彼女が立ち止まる。意地悪そうな顔で振り返ると彼女はこういった。

「寝るならそのベッド使ってもいいけど?」

「っ…………」

 真っ赤に染まっていく彼の顔。

「へへ、てれてやーんの、いってきまーす!」

 そんな彼の顔を見て満足したのか彼女は再び前を向き、かけだしていく。

「まったく」

 彼は困ったように頭をかいていた。


 最前線 市街地 第16小隊

 どれほど引き金を引いただろうか、どれほど人を殺したであろうか。血も涙もない戦場で彼女は思う。

「……」

 スコープに移るのはターゲットの男。仕留めるチャンスは一度きり。

「……」

 たった一発の弾丸に込める必殺の意思。狙いは定まった。彼女の指が引き金に触れた。

 スコープを覗くと死体が写っているだけだった。

「隊長!」

 一度撃ってしまったからには彼女らの位置が割れる可能性がある。早く移動しなければ。と彼女が思う。

「…………」

 もう、銃弾が飛んできている。銃弾が耳頬をかすめる。早く離脱しなければ。

「隊長!隊長!!」

 そこでやっと彼女は自分の部下に呼ばれていることに気がついた。

「なに!?」

「相手が撤退していきます。今日はもう終わりです」

 気づいたらもう銃声もやんでいる。どうやら今回は味方がかなり押しているようだ。

「そうか」

 狙撃兵特有の姿勢から立ち上がり、彼女は長い長い安堵のため息をついた。周りを見ると部下が何人か死んでいる。また部隊を再編成しなくてはいけない。

「ふーーー」

 そこに彼女の戦場があった。


 キーラ要塞 医療室

「レナ!!」

 レナが怪我をしたことをどこから聞いたのかヴァーナは彼女が現れるや否や、レナに抱きついた。

「痛いって」

 彼女はうれしそうに顔をゆがめる。

「怪我は!?」

 切羽詰まった声で言う彼。

「大丈夫だってただのかすり傷。ほら」

 先ほど銃弾がかすった右頬を見せると彼は心から安堵したのか膝をついた。

「よかった。ほんとうに。無事でよかった」

 何なら彼は涙を流しそうな勢いであった。

「心配しすぎだよ。私を誰だと思っているのさ」

 彼女ははにかんで笑ってみせる。

「よかった」

 彼女の右頬に絆創膏をし再び抱きしめる。

「うん。ただいま」

 彼の背中をポンポンと叩いてやる。


 ある日、起床したレナは医療室でヴァーナをみかけ、思わず声をかけた。

「あ、ヴァー……」

 しかし、彼は真剣なまなざしで女性兵の治療をしている。邪魔をしちゃ悪いという意識が働きながらもかまわずにはいられない。

「ヴァーナ」

 彼女は白衣の背広の端を少しつまんだ。

「なに?」

 黙々と続ける彼。

「…………」

 何も答えない彼女。

「どうしたの?」

 それでも聞いてきてくれる彼。

「………………」

 それでも答えない彼女。彼女は意を決したのか

「私以外の女の人に触れてほしくない」

 と一言。

「んな無茶な」

 確かに彼は女性兵を治療している関係上、一糸まとわぬ姿を見ているが、それを見ずに治療しろというのは無理難題である。

「わかてる、わかってるよ。これが仕事だもんね。わかってるよ」

 ささやかな独占欲と嫉妬心がない交ぜになり彼女は彼に抱きつき、耳元でささやいた。

「でも、ヴァーナには私だけを見てほしい」

 普段だったら余り見せない本音の部分、なんだか今日は吐き出したい気分だったのだろう。

「うん、しってる」

 彼はさも当然カのように満足げにうなずいた。

「そっか」

 それを見て、耳が赤くなっている彼女をよそに彼は声をかける。

「がんばれ、レナ」


 戦場から帰ったレナはヴァーナの寝室の扉を叩いた。

「ねぇ、ヴァーナ」

 いつもの元気な声とは裏腹に彼女はか細い声でいった。

「今日、一緒に寝てもいい?」

 少し考える彼。

「うん、いいよ」

 彼の部屋の扉が開く。

「ありがと」

 彼女は素早く彼のベッドに潜り込み彼も同じベッドに寝転がるとポツポツと話し始める。

「私、今日人をいっぱい殺した」

 沈黙。

「ねぇ、ヴァーナ。わたしどうしたらいい?」

 彼女の目には涙がうかんでいた。

「スコープに移る絶望の表情も!痛みに耐える悲鳴も!!隣で冷たくなっていく部下も!!!」

 彼女はだんだんと声を荒げ、叫んだ。

「全部!頭から離れない!!」

 自分の心の内を。

「いつこの戦争は終わるの?」

 終わらない戦争を。

「いつ私たちは幸せになれるの?」

 やってこない未来を。

「教えてよ!ヴァーナ!!!」

 叫んだ。

 しばらく沈黙が続く。

「俺も、毎日毎日瀕死の人ばっか見て」

 沈黙を破ったのは彼。

「ほんとは救えたはずなのに死なせてしまった、俺が殺してしまった」

 彼も終わらない戦場で死ぬとわかっていながらも何人も兵士を送り出してきた身だ。

「何人看取ったかなんてわからない」

 死を間近で感じできたのは彼女と同じだ。

「レナ。みんな同じなんだ」

 まるで自分に言い聞かせるように。

「みんな、こんな戦争逃げ出したいよ」

 淡々と。

「でも、みんな連邦の勝利を信じて前を進んでる。俺たちも進むしかない」

 それでいて芯のある。

「だから、早くこの戦争を終わらせよう」

 独白。

「うん」

 ああ、この人のこういうところに私は惚れたのだと彼女は思った。


 キーラ要塞 地下大講堂

 緊急招集がかかりキーラ要塞に駐屯している兵士は地下大講堂に集められた。壇上にはこのキーラ要塞を預かる大佐が立っている。

「我が同胞の諸君!!たった今し方、偵察部隊からの知らせが来た。現在共和国軍に増援が到着し、おそらく明日攻勢が始まると思われるとのことだ。共和国の戦力は重装甲戦車含む戦車500両、艦載機300両、歩兵30万余いるそうだ。決して勝てぬ戦力差ではない!そして残念なことだが我が軍に増援はこない!事態は急を要する!それぞれの部隊今夜のうちに市街地に臨戦態勢を築くこと!」

 予想外の相手の援軍、そしてこちらの増援はなし。それでもこう言われてしまった以上全力で守り切らねば己が死ぬ。

「我ら連邦に勝利あれ!!!」

「「勝利あれ!!!」」

 大講堂に力一杯その声は響いた。


 歩兵隊……前線、建物内に潜伏、奇襲攻撃の準備

 狙撃隊……敵情視察、高所を利用した狙撃

 砲兵隊……戦車、対空砲を前線に配置、要塞内の砲台の整備

 工作隊……地雷および鉄条網などの設置

 医療班……後方に配置

 物資班……弾薬庫から物資を前線へ配給


 キーラ要塞 作戦前夜

「ヴァーナ?」

 軍服に着替え終わったレナは白衣に着替えたヴァーナを見つけると声をかけた。

「なに?いやな予感がするんだけど」

 怪訝そうな顔の彼。

「キス、してもいい?」

 顔を赤らめながら彼女は誘う。

「!?」

 熱があるのではないかと疑うほどに顔を朱色に染めた彼は叫ぶ。

「まだ早いって!無事に帰ってこれてからって約束だろ!」

 そう、彼らは戦争が終わったら結婚しようと誓った仲なのだ。その約束に反してここでキスをするのは彼にはいささか思うところがあるのだろう。

「そりゃそうだけど、明日が多分一番の正念場になる。今ここでしないと後悔するかも」

 しかし彼女も譲らない。

「へー、レナは明日死ぬつもりなの?」

 と彼はあおる。

「そうじゃないけど!そういう心持ちってこと!私を誰だと思っているのさ!」

 いつもの口癖を言いながら弁解をする彼女をかわいく思いながら彼はつい譲歩してしまった。

「じゃあ、明日無事かえってこれたらね?」

「やったー!!!!!!」

 飛んで喜ぶ彼女は眩しくて見てるこっちまで幸せになりそうだった。

「そんな喜ぶこと?」

「ヴァーナはしたくないの?私とキス」

 とこちらも煽り返す。

「そ、そんなことはないけど」

 まんざらでもない彼は言葉を濁したが

「ふーん」

 ニヤニヤされてしまった。

「そんなことよりいいんですか?分隊長?早く準備しないといけないんじゃない?」

 はぐらかすように彼は言う。

「あ!そうだった!それじゃ!」

「おう!」

 あくまで軽く、いつも通りに、きっとこれが最後ではないと信じて。

「絶対生きて戻ってくるから!期待してて待っててよね!私のキス!」

 いつもの軽口も入れて。

「期待しとくよ」

「ヴァーナも死なないように頑張ってね!」

「任せとけ!」

 そうして彼らはそれぞれの戦場に足を一歩踏み出した。




 最前線 市街地 第16小隊 正午

 早朝から始まった今回の作戦は順調に進んでいた。共和国の第一陣を退け、大攻勢にも懸命に立ち向かっていた。

 狙撃隊は遠距離の利点を生かし高官の狙撃と対戦車銃を使った砲台の破壊が任されている。

 そんななか

「指令本部より通達、指令本部より通達。敵後方に超遠距離武器の存在を確認。速やかに破壊せよ。貴殿の隊にその任務を任せる。繰り返す……」

 との指令。敵後方にある砲台はここからじゃ狙えない。もっと前線をあげるかうまく敵の間をすり抜けるかでもしない限り狙えない。

 防衛戦なので、前線をあげるのはほぼあり得ない。つまり、少数精鋭による後方へのすり抜けを狙うしかない。こんなもの「死ね」といわれているのと同じだ。

「……くそ」

 彼女は小さい声で言った。

「どうしたんですか隊長」

 いつも戦場ではピリピリしている隊長の空気が穏やかになり、部下が気になって声をかける。

「よく聞け!指令本部からの通達だ!我々はこれから敵前線にある遠距離武器砲台を破壊しにいく。フランカとアンヌは対重装甲戦車用ライフルを持って私とこい!」

 彼女はそう言うと、立ち上がり自分も対重装甲戦車用ライフルをもって走り出した。

「イエッサー!」

 彼女の部下二人も彼女に続き走り出していく。

「ここの指揮はランスに任せる!なんとしてもここを死守しろ!」

 振り向きもせず彼女は部下にそう命令した。

「イエッサー!」

 部下が返事をする頃にはもう背中は小さくなっていた。

 ………………

 …………

 ……

 もう足が動かない。敵の目をかいくぐり、建築物に隠れ、部下の一人に身代わりを頼み、なんとかあと少しでライフルの射程圏に入るというのに。

「ランス」

 彼女はおもむろに部下に声をかけた。

「はい」

「あなたはまだ動ける?」

 何を、私は聞いているのだろうかと彼女は困惑した。

「はい」

「じゃあ……君に任せてもいい?」

 これ以上部下に自分の身勝手を押しつける訳にはいかにのに、言葉が先に出てしまった。

「いやです」

「そっか」

「部下何人も死なせて、フランカを身代わりにもして何逃れようとしてるんですか」

 そりゃあそうだ。

「私を死に場所に連れて行ってくださいよ、隊長」

 なんだよそれ。

「私はあなたの元で死にたいんです。あなたを見捨てたい訳じゃない」

 なんなんだよ。

「いつも明るくて、優しくて、戦場だとちょっと怖い隊長はこんなところでくたばる人じゃないですから」

 彼女の目から水滴が落ちた。

「……それもそうだね」

 彼女はランスの肩を借りて再び歩き出した。

 よさげな狙撃ポイントのビルを見つけ、陣取った彼女はライフルを構えた。小野レオ奮い立たせてくれたランスはこのビルに入るとき「絶対合流します」と言い放ち、別行動となった。

「ふーーー」

 スコープを覗く。黒光りする砲台が写っている。

 彼女がここに来るまでその砲台から3発の弾が発射されいずれもキーラ要塞に命中。甚大な被害をもたらしたそうだ。これ以上アレの好きにさせるわけにはいかない。

 精神を集中、引き金に手をかける。いつも通り込めるのは必殺の意思。ライフル弾の弾は一個。チャンスは一度だけ。

 彼女は引き金を引いた。当たった。

 その瞬間、爆発。


 共和国軍が撤退した後、ヴァーナは帰ってこないレナを探しに市街地を探索していた。そしてついに血まみれのレナを発見する。

「レナ!」

 呼びかける。

「レナ!!」

 強く呼びかける。

「レナ!!!」

 もっと強く呼びかける。

「起きろよ!起きてくれよ!!」

 まるで怪獣の叫びのように。

「俺にはおまえしかいないんだよ!!!」

 子供が泣き叫ぶように。

「……そ、んなに叫ばないでよ」

 彼女は吐血しながらも返事をした。

「レナ……」

 彼女は仰向けに倒れていた。下半身がない。

 今にも消えそうな小さな声で彼女は言った。

「…………しんぱい、しすぎだよ」

 そしていつもの口癖を。

「わたしを、だれだとおもっているのさ」

 彼は泣いた。叫んだ。彼女の命が消えそうということがわかったのだ。

「なにも言うな!!!俺が絶対治してやるから!」

 叫ぶ。

「ヴァー、ナ、き、いて」

 彼女はしゃべり出す。

「うるさい!」

 叫ぶ

「わた、しのぶん、までいきて」

 口から血が出ている。

「しゃべるな!!」

 叫ぶ

「わたしのぶんまで、しあわせになって!」

 叫び返す。

「お願いだからそんなこと言わないでくれ!!!」

 叫びとも懇願ともつかぬその様相に彼女も負けじと叫んだ。

「わたしの死をむだにしないで!!」

 彼女は彼の後ろに手を回した。

「おまえは死なせない!!!!」

 彼はなお泣き叫んだ。

「ヴァーナ。あいしてる」

 最後の力を振り絞り、彼の顔を引き寄せる。唇と唇が触れる。静止。レナが吐血し両者の唇を伝い「私」に血が流れ込む。ふっとレナの腕が離れる。残っていたのは血の味とほんの少しのぬくもりだった。

「……約束、だよ?」

 体が離れたその瞬間、そう聞こえた気がした。

        ――「誰の戦争」著者:イヴァン・グレデチャフ・アウトロメオ


 原稿を書き終えたイヴァンはベッドに横になる。もうあの戦争から六十年余りがたとうとしていた。

 イヴァンは深い深い眠りについた。

 夢を見た。あの場所、あのときのだ。目の前にはレナがいる。そして若い頃の私がいる。私が泣き叫びながらその場所を離れていく。そしてどこからともなく声が聞こえた。

(あんなこと言ったけど、私まだ死にたくないなぁ。一緒にここで死のうなんて言ったらヴァーナは一緒に死んでくれたかなぁ?)

 ああ、この声は。

(いやだ、死にたくないよ。まだ君の隣にいたいよ)

 この声は。

(ずっと君の隣にいたいよ)

 レナの声だ。

「迎えに来たよヴァーナ」

 振り向くともう一人、レナが立っていた。

「驚いた?」

 頬を緩ませレナは言う。

「ああ」

「ふふ、よかった」

 それから少し顔を赤くして、

「さっきの声聞こえちゃった?」

 と言った。

「あれはね、私が死んじゃうときに思ってたことなんだ。ちょっと恥ずかしいね」

 レナの笑顔が眩しい。

「ふふ、あんなこと思ってたんだ」

 いつの間にか私の姿もあの頃のものになっていた。

「それじゃあ、一緒に行こっか」

 彼女が私の手を握り言う。

「いくってどこに?」

 私は気になって聞いてみる。

「どこか」

 レナは笑った。私と一緒に。


 エレーナ・アルヒポフ・ヤノフスキー。享年16歳。戦死。特別任務の最中、目標を破壊したものの別砲台からの砲撃を受け死亡。

 イヴァン・グレデチャフ・アウトロメオ。享年81歳。垂死。かの戦争における数少ない生き残りの一人。退役後は戦争の悲惨さを伝えるために力を尽くした。彼の死後に発表された「誰の戦争」は世界中で読まれることになった。

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