後編
「対価……?」
「はい。ご乗車分の対価として、持ち主のかたから頂戴いたしました」
「待っ、待ってください。持ち主って。あれは、あのくまは私があの子に」
「持ち主のかたは、本当にあなたの事を大切に思っていらっしゃるのですねぇ。あなたのためなら、とどんどんと課金をされようとするので、係員が焦っていたようですよ?」
「え……課金?」
「ですから、ほら。早く帰って差し上げてください」
そう言って、制服の人が私の肩をトン、と控えめに押す。
「帰るって、どこ、に」
ただ軽く肩を下に押されただけ。
ただ静かに椅子に座らされただけ。
それなのに、あらがえないほどの、唐突な眠気が、思考を奪っていく。
「この子の持ち主だったかたが待つ、世界へ、ですよ」
ひらひら、と制服の人が抱えたくまのぬいぐるみの手が振られる。
「ご乗車、ありがとうございました。出来れば、うんと先まで、お会いすることがありませんよう」
さっきまで見ていたはずなのに、ぼやけて分からなくなった彼の口元が、静かに弧を描いたような、そんな気がした。
目の奥が熱い。
「な、んで」
泣いている。そう理解した時には、もう、ボロボロと涙がこぼれてくる。
人の少ないいつもの電車内。窓の外は、いつもと同じ、流れていく景色。
誰もが他人を気にすることなどなく、私の涙に気がつく人もいない。
そのことに、静かにホッと息をはき、ハンカチを取ろうとカバンに手を入れる。
どうやら、眠りながら泣いてしまったらしい。
家じゃないんだし、と自分の涙腺にほんの少し呆れながらハンカチを取り出して、ふと、指先に冷たさを感じる。
「なんだろ?」
頬にハンカチを当てたまま、冷たさの正体を取り出して、思わず動きが止まる。
「これ、さっきの」
そう呟くと同時に、さっき? さっきって何? と自分の発言に首をかしげる。
「どしたの?」
「あ、いやさ、これ、何かやけに見覚えがあるっていうか」
「ふうん? あ、ねえ、何か入ってる」
「何か? 何かってなに、っていうか何?! なんで居るの?!」
「わ、声大きいよ」
「っ!!」
「危ないなぁ、落ちたら割れちゃうよ」
「ーーっ?!」
ばっ、と慌てて口を塞いで隣を見れば、「えへへー」と彼女が笑う。
「もー全然へんじくれないんだもん。だから会いたくて来ちゃったっ」
「は?」
「あ、ちなみに、今日、このままお家に帰らないで旅に出ます」
「はあ?! 何言ってっ」
「声、声大きいっ」
むぎゅ、と私の口にハンカチを押し付けて、大きな声を出させた張本人が笑う。
「あんた何言ってんの? 私、明日も仕事あるんだけど?!!」
こそこそこそ、と小さな声で詰め寄るものの、「あ、それなんだけどね」と彼女は口を開く。
「問題なくおやすみできるから心配は不要です!」
「不要って、何、どういう」
「キミのお姉ちゃんのフリをして、キミの明日からの一週間のおやすみを強奪しました!」
「……ごめん、ちょっと何言ってるのか分かんない」
頭がくらくらとしてきそうな事を平然と言ってのける彼女に、額を抑えながら、片手をあげて、牽制を迫る。
「だーかーらー。もう無理してあの会社に行かなくていいんだよ、ってこと」
「そんなこと言ったって、働かなきゃ生きていけな」
「でも心をガリガリに削られてまであそこに居る必要なくない?」
「……それ、は……」
「まだまだ人生長いのに、あそこだけに囚われるなんて勿体ないって」
あっけらかん、と。
造作の無いことのように、彼女の口から出た言葉に、喉のあたりに熱が走る。
「他人事だからって、そんな簡単に言わないでよ」
顔も見ずに自身の言った言葉に、吐き気がする。
自分で放った言葉なくせに。
一度言ったら、言葉は消せないと、知っているくせに。
苛立ちと自己嫌悪に、そのまま黙り込んだ私の手に、きゅ、と外から圧力がかかる。
「簡単に言ってないよ」
その声は、いつもと同じ。
けれど、いつもよりも、硬い。
「っごめ」
下がっていた視線を、ばっ、とあげ、彼女を見やれば、何やら満面の笑みを浮かべた彼女が、視界にうつる。
「だからね、君が再就職できるまでの間、君を養えるくらいに稼いでおいたよ!」
「……はい?」
「えー? 伝わらなかったー? もう一回言おうかー? だからぁ、わたしがしばらく君を養うからぁ」
「わ、分かった。分かったから、ちょっと一旦黙って」
「むー」
不満そうに唇を尖らせる彼女を、掴まれていないほうの手でぺしっ、と軽く叩く。
「養う養わないの話は、別に大丈夫。お金は全然使えなかったから、私も貯金はじゅうぶんあるから。っていうか、聞きたいのはそこじゃなくて。なんでそこまで」
言いかけて、ふいにさっきから彼女が握っている小瓶の存在を思い出す。
「ねえ、そう言えば、その小瓶」
「あ、これ?」
「そう。あ、ねえ、ずっと前に誕生日にあげたあのくま、どうしてる?」
「あー、あのくまねぇ。知りたい?」
「知りたい」
じっ、とまっすぐに自分を見る彼女を見返せば、少しの沈黙のあと、彼女はくすくすと笑う。
「実はね、あのクマっくまはーー……」
こそこそと私の耳に手を当てて話し始めた彼女の言葉は、「はあー?」と思わずあきれてしまう言葉だったけれど。
「でもいいの。君が、ちゃんと帰ってきたから」
クマっくまのおかげだね。
そう言って、彼女は笑う。
そんな彼女の笑顔と、声に、また涙が零れそうになって。
ぶん、と首を横に振り、車内の外へと視線を動かした時。
窓にうつる広い空は、かすかに残る昼間の青と夕焼けのオレンジ、それからこのあと訪れる夕闇の紫が混ざった色をしている。
「人生、立ち止まることも必要でしょ?」
ぽす、と肩にあたった重さの持ち主が、離れていた私の手に、なにかを置く。
「美味しーもの食べてー、あったかーい温泉に入ってー、あ、あとね、美術館も行きたいしー、水族館も行きたいかなぁ」
もう片方の手で、指折り数えながら、あれもこれも、と言葉を続け、「聞いてる?」と問いかけてくる彼女に、「はいはい」と答えながら、私もまた、首を傾げ、寄りかかる。
「あ、宿でお酒のむ。お酒」
「浴衣で道も歩いちゃったり?」
「食べ歩きもしちゃったり」
「お、いいねぇ、いいねぇ、その調子」
けらけらと彼女が笑うたびに、彼女の頭に寄りかかる自分も揺れる。
たかがそれだけのことなのに。
きゅう、と胸を締め付けられるような、大きな声で泣き叫びたいような、そんな気持ちにすらなって。
彼女に、手のひらに置かれた、ひとつの小さな空っぽの瓶を、私はぎゅっ、と握りしめる。
それは、ある仕事終わりの日。
少し不思議で、すごく柔らかな出来事。
ある日の暮れ方。とある列車の車内にて。
私は、この日の夕空を、ずっと忘れずにいたいと、絶対に忘れずにいようと、そう思った。
完
ある日の暮れ方。とある列車の車内にて 渚乃雫 @Shizuku_N
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