第2話 思い出の君
光泉国の端の、そのまた端。山間の村のその奥に、ひっそりと桜の木々に囲まれて鄙びた小屋があった。
かたり、かたりと規則正しい音が小屋から漏れて木の間を響き渡る。
小屋のなかには機織り機と、糸を撚るための道具が一揃い。そして、大量の糸と布に囲まれて、一人の少女が黙々と機織り機を動かしていた。
霞の衣 ぬきをうすみ 花の錦を たちやかさねむ
少女は異国のうたを口ずさむ。本当のお父様とお母様との記憶は、いつだってうたと共にあった。だから、うたは彼女を慰めるいちばんの“とっておき”だった。
「……できた」
薄墨の髪色に、冬の木々のような深い碧の瞳の少女――桃
生成りの生地に、一面に枝が伸び、悠然と美しい桜の花が咲き誇っている。
凹凸だけで表現したそれを、静かに指でたどる。
(仕上げ……)
佐保は小屋の端に置いてある小さな陶器からひと掬い、琥珀色の水をかけた。そうして、琥珀色に染まった
さくら花 霞の衣 うつろはせむ 我思ひてし 山を染むごと
佐保の言葉に応えるように布の色がたちまち変わっていく。春の陽気を纏ったような、美しい淡い桜色の紗へと変わる。
「うん、綺麗にできたわ」
(――ここからは、外の様子は見えないのだけれど)
外はもう、桜の花が咲いているだろうか。
佐保は天井を見上げて、ほう、と小さく息を吐いた。この機織り小屋には窓がない。
そうして、そこからは見えない春の景色に思いを馳せた。
それは、桜のたいそう美しく咲いた年だった。
そうして、花散らしの風がいっとう強く吹いていた。
「あ……!」
州府の長に納めるための上等な布を日干ししていた佐保は、一瞬の油断でその布を風にさらわれてしまった。
風に舞い上げられた布を追って、まだ十になったばかりの佐保は桜林を歩いた。
この日は、近くに貴い方が来ているから、決して外の大人たちに見られないように。そう父親代わりの
(早く帰らないと――)
外の大人は、幼い子供を攫っていく。そうして人買いに売られていく。外は危ないからね、とそう言った村長――おじい様の言葉が耳から離れない。
不安に背中を掴まれながら駆け足で樹々の間を縫って進む佐保は、桜の間に立つ人影に気づかなかった。
「貴女がこの布を織ったのですか?」
声が耳に届いた瞬間、巻き上げるような突風に思わず目を瞑った。
瞼を開いたとき、佐保は思わず息をのんだ。
春の化身だと思った。
雪白の髪の――佐保と同じ年頃と思われる美しい少年が、布を持って立っていた。
少女はとっさに顔を隠した。この美しい方に見目の悪い自分の顔がさらされるのは気が引けた。
「とても手触りがいい。桜の紋様が……とても細かいですね。良い手をしているんですね」
佐保はなんと返すべきか迷った。自分の腕を褒められたのは初めてのことだった。
かろうじて、ありがとうございます、と返すので精いっぱいだ。
少年は佐保の掌にそっと布をのせた。
「名前は?」
「……桃佐保と申します」
佐保は逡巡して、俯いたまま口を開いた。この人は「大人」ではないし、おじい様からは名前を教えるのは禁じられていないはずだ。
「桜じゃなくて、桃なのですね」
少年のささやきに、佐保は驚いて顔をあげた。
「春の姫神と同じ名ですか。だから織物が得意なのかな」
にこりとも微笑まない彼だが、柔らかい声でそう言った。
それを聞いた佐保はさらに目を丸くした。
佐保の名前は、この国では珍しいものだ。春、桜に染まる山に霞の衣を織る織姫――そんな極東の小さな島国の姫神の名前が由来となっていることを理解する者は、この国にどれほどいるだろうか。少なくとも、この村里にはいない。
(きっと、身分の高い方なんだわ)
佐保は遅ればせながら、おずおずと礼を取った。
「恐れ多いです。その、山高きが故に、貴からず、と申しますが、その通りの名ばかりの身ですから……」
記憶している書物の内容を思いだして、ぎこちなく言葉を返した。
佐保の返事を聞いて少年は思案顔になった。
「貴女は……桃、と言いましたか」
彼の質問に、はい、と小さく答える。
「貴女の縁者に極東の者はいますか」
さらに雪白の彼から尋ねられ、佐保は小さく頷く。
「恐れながら……。私の父は極東の出身でございました」
正直に言えば、父のことはぼんやりとしか覚えていない。幼い――本当に幼かった佐保にとって、父の記憶は母の言葉と、日記のなか。そうして、形見の数冊の書物だけだ。
そう……と少年は眉を下げた。
「それは、悪いことを訊いてしまいましたね。貴女のお父上は朝廷にお仕えしていたのですか」
佐保の些細な言葉から、父が亡くなったことを察したのか少年は悼むように静かに瞼を伏せた。
「はい、父は官吏として州府にお仕えしていたそうです」
ここが最後の赴任地だったそうです、と佐保は素直にありのままを答えた。
少年はその言葉を聞いて、一瞬顔を曇らせた。
「……貴女はお父上が亡くなって、どうしてこの山奥に?」
「分かりません。所縁もない私を村の方々が拾い、育ててくれているのだと聞いています」
こうして機織りの仕事も任せていただいているんです、と佐保は微笑んだ。
村人はとても優しかった。父が遺した日記といくつかの本を大切に佐保に遺してくれていた。ひとりで生きていくことができるように、佐保に仕事を与えてくれた。
早くにほんとうの父母を亡くした佐保は、大人の世界を少しばかり知った気になっていた。女であれば、春を鬻ぐ、そんな仕事をさせることも考えられるだろう。それをしないのは、村長たちの愛情の表れなのだと、佐保はちゃんとわかっていた。
「そうか……」
少年は、妙な顔をして微笑んだ。
それから、いくつかのやり取りをした。いつもは父の遺した日記や書物を読んで過ごしていること、いつも物語から想像を膨らませて紋様を織り込んでいること。佐保のたどたどしい言葉にも、彼は耳を傾けてくれた。
しばらくすると、彼を探す大人の声が聞こえた。気が付けば、日が傾き始めていた。
「わ、私、帰らないと――」
叱られてしまう、と踵を返す佐保の袖を、少年はしかと掴んだ。
「いつか、必ずまた逢いましょう。それまではこの筆を持っていて」
彼は袂から取り出した筆を佐保に握らせると、そう告げた。その後すぐに、彼には幾人もの迎えがやってきた。
あの春から、つらいことがあると何度となく彼を思い返した。
胸元からあの時の小筆を取りだして『雪白の君』を思い出す。
どうして名前を訊ねなかったのだろう。
この小屋で、布を織って「またいつか」を待った。
またいつか、を待ってもう六年。
村長たちの言葉には、愛だけが含まれているわけではないと、もう気づいている。
それでも、今日もこの小屋から出る勇気もなく、彼の迎えを待ち続けながら佐保は布を織っている。
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