番外(3) : 神様の悪戯(本当の最終話:だったはず……)
「明日から三日間休むから有給の手続きをしておいて」
栗原の言葉に秘書である秋江は驚愕の表情をした。
また受験するの? これで何回目?
今や栗原の受験はこの会社の恒例行事と化しつつあった。
が、そろそろ潮時だろう。こんなオッサンが社会人枠でなく、一般で受験しても合格する訳がないだろうと内心では思っていた。
「あ、一応A判定をもらってるから、今回はたぶん大丈夫だと思うよ」
そう言いながら嬉しそうに会社を去って行く社長の姿を綺麗なお辞儀で見送った。
本当なの? という疑問を抱いたまま……
「秋江ちゃん、ゲンちゃんがいないとつまらないでしょ」
「そうですね~、何かが欠けていますよね」
「やっぱりペットって大事よね」
「ですね」
ランチタイムにこのビルの最上階にある寿司屋で食事を摂りながら女子トークに花が咲いている。
社長をペット扱いしている会社をまともな職場だと思う人はいないだろう。しかし、ここでは公然の秘密として誰もがそう思っている。態度に出しているのは春満だけだが。
権威というものに一切頓着しない栗原にとって、誰もが対等に意見を交換し、本音でぶつかれる今の状況は好ましいと思っていた。孟も春満も同じ考えで、少なくとも会社の中では誰が社長だかわからない位フラットな関係が築かれている。
ちゃんとした社長室や役員室はあるものの、あくまで対外的な体面上配置しているだけで普段は誰もそこにいなかった。そんな社風を社員は好意的に捉え、仕事に打ち込んだから業績がうなぎ登りに上がっていったのだ。
「そう言えば、そちらの社長は今年も受験するんですか」
なぜか店の板前ですら栗原の受験を知っている。
春満が面白がってこの時期になるとありとあらゆる所で公言していたのだ。受験生本人は外へ出ないのでそんなことを知らないが……
春満は当たり前じゃないかという風に大きく頷いた。
「で、今年は受かりそうなんですか」
「たぶん大丈夫そうよ。だからつまらなくなりそうね」
つまらない。
そう、栗原という揶揄う相手がいないと春満の生活は物足りないのだ。いつも仕事で怒ってはいるが、決して栗原との関係が悪い訳ではない。
夫と子供がいることは生きがいややり甲斐にはなっても癒やしにはなっていなかった。
毎日喧嘩するほど仲が良いとは言っても、夫相手にそこまでイジることは流石に躊躇われた。言わんや子供相手なら尚更だ。ある意味、栗原だけがストレートに自分の気持ちを表せる人物なのだ。
仕事であれ程怒っても栗原はケロッとして普段からのスタンスを変えない。自分に対する反応も全く変化がない。
陰キャボッチヘタレ童貞と揶揄っても、それがどうしたと平然と出来るのは彼しかいないのだ。
栗原がいなくなったら……
栗原を夫のように愛している訳ではない。
が、その存在にどこか癒やされている自分をこの時感じていた。
「ねえぇ~、孟く~ん、お願いがあるのでしゅけど」
普段は絶対にしない甘ったるい声で妻から声を掛けられた孟は、そのただならぬ様子に警戒度を最大に引き上げた。
こういう声を出す時は碌でもないことを言い出すと分かっているのだ。
「もしも~、もしも、でしゅけど、ゲンちゃんがここを離れたら後から私も付いて行っていいでちゅか」
「お子ちゃま言葉を止めたらちゃんと聞くぞ」
一力孟の頭には栗原が合格すればこうなるだろうという予感があった。
彼女にとって栗原の存在は必須栄養素だ。彼がいなくなったら病気になる可能性さえある──どうせ栗原が春満相手に不倫なぞできるわけがない──だったらここは……
家事を春満がすることは殆どないし、子供の受験もあと一人でおしまいだ。それだって海外の学校であれば日本ほどムキにならなくても入学だけなら何とかなることが多い。
つまるところ生活面では春満がいなくて困るのは夜の営みの相手位なのだ。それとて今は月に一、二回程度のものだ。
「月に一度は帰ってきて孟君とイチャイチャするから~❤」
今更レスになっても仕方がないという思いもあるが……まあ、それを楽しみに仕事をするのも良いか……
それと、栗原ほどの凄腕プログラマーなら色々と彼の知識と技術欲しさに良からぬ輩が接近してくるかも知れない。その時春満がいれば……そんな思惑もあり彼女の希望を叶えることにした。
「だけど、学校のことだけはしっかりやっておいてくれると有り難いな」
「モチのロンよ」
イタズラ小僧の眼をした四十路女が満面の笑みで、胸を叩いた。
春満は碧の存在を知っている。
が、碧がどんな女性か、栗原にとってどれ程の存在かはわからなかった。
そして、その二人が思いがけず再会することはあり得ない程の想定外だ。
孟は春満が子供のことを自分に任せて予定よりも早くこの家を離れるようになることを想像できなかった。もちろん碧と深い仲になることも。
栗原と碧が出会う。小さな偶然が多くの人のその後を変えていった。
一力の家族だけではない、蒼衣も重松も、そして柔も。
誰一人そんな神様の悪戯を知る術もなく、栗原の入学試験は刻一刻と迫ってくるのだった。
******
これにて一旦全話完結とします。長い間お付き合いいただきありがとうございました。
創作の参考にしたいので、出来ましたら評価もしくは応援にて本作の感想や改善点をコメント頂けたら有り難く存じます。
次作でも読者の皆様とお目にかかれることを楽しみにしております。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます