某所某日、殺人という許されない罪を犯した少女の所感
しみたま
第1話
人を殺した。
手は鮮やかな紅で塗れていた。
見知らぬ女性は私の足を掴んだまま事切れていた。
当の私はというと、動悸が止まらなかった。心臓がどことも分からないほどに。
犯行時間は夜で、場所は他人の家にした。すぐに捕まりたくはなかったから。
小心者であるが故にしばしば決意が鈍る傾向がある私は、例に漏れず今回も歯切れ悪く足踏みをしていた。平常より少しばかり長くそうして隠れていた気がするが、はたと気付けば終電の時間を回ろうとしていたので、思わずたっと駆け出してしまった。その後の私はごくありきたりな殺人者であった。
結果として終電は逃してしまったが、よく考えればそんなものに乗る必要は無かったと思う。この辺りにはたしか景色の良い高台があったはずだから。
見知らぬ家を出て、光が疎らな暗い街を独り歩く。手にはまだ暖かい血肉の温度が残っている。
人間とは思いの外頑丈なものだった。包丁が骨に当たってしまったときは逆にこちらの手が痺れたし、腹から内臓がまろびでて血がどばどばと出ていても彼女は生きていた。突き飛ばしても私の足を握った。
初めての経験で緊張しすぎていたが、思えばあれほど人と触れ合うことは久しぶりだったかもしれない。最後はいつだったか、誰だったか。
過去のことなど思い出そうという気にもならないが。
少し歩くと寂れた感じの商店街に着いた。
退屈だったので何か遊べるものが無いかと遠回りしてきたが、私は自分自身が無一文であることを失念していた。血が付いた財布を気持ち悪がって包丁や上着と一緒に置いてきたのを忘れていた。こういうことならば持ってきておくべきだった。血がついた千円札でも人を驚かす程度のことはできただろうに。
ああ、そういえば私は小心者だから、そんなことはできやしないだろうか。
地面のレンガ模様を眺めて鈍重に歩く私のすぐ隣の家から、恐らくその家の飼い犬が鳴く声が聞こえた。足を止めて目をやると、そこには牙を剥き出しにして私に吠える犬がいた。
いつもの私なら吠え返して遊んでやって、翌日やそこらで学友との話のネタにでもするところだろうか。そうして意味のないやり取りをして、社会の地位をなあなあに保つところだろうか。
しかしもうそんなこともすることは無いと思うと、少し心が軽くなったような気がした。
その後はもう立ち止まることはなかった。暗く落ち込んだ色のアスファルトも、わざとらしく煌々と光る無色の街灯も、私の足を止めるには至らなかった。
いつの間にか街の外れにある山に着いていた。高台はここにあったはずだと視線を上げると、思ったより高く切り立った崖の上にそれはあった。
どれほどの高さがあれば私の目的が果たされるのかは知らないが、ほぼ垂直な断崖にその下の地面はアスファルトと来れば、素人目に見て十分であるように思えた。
山道を登り始める。見上げると百段余りの階段があり、僅かにうねったそれらの先には綺麗な星空が覗いた。脇には無数の木々があり、その合間からは蛍光が舞っているのが見えた。
森らしい青臭さと自然の冷風が肺を満たす。私がそのとき感じたのは暖かみのある懐かしさだった。過去のことは思い出したくないと思う私だが、この懐かしさに蘇った記憶には不思議と嫌悪感は無かった。
それは純粋な記憶だった。緑生い茂る裏山を登り、青い空の下で元気に鬼ごっこをする少女。ただそれだけの記憶。
少女は無知であり、純粋で、自らが受け取るもの全てを楽しんでいた。無知であることも純粋であることさえも許されず、合理的であることが最優先されるこの世界で、輝いていた。
その少女は私のようにも思えたが、決してそれは私ではなかった。いや、その少女こそが私であり、今の私の方が私ではない何かなのかもしれない。
二度と戻らない、色に溢れた過去の中にいる少女が、私には羨ましく思えた。
階段を登りきり高台につくと、ペンキが剥げて錆びついた柵と、その奥に先程まで私が歩いていた灰色の街が見えた。疎らにあった光は、もうほとんど無くなっていた。
夜の風に晒されて冷たくなっていたベンチに座り、何を見るでもなく視線を夜空に彷徨させた。辺りには人の気配など微塵も感じられない。しかし、それはこの静かな月明かりの夜だけだ。朝になって陽の光が差せば、人々は動き始める。
……私は、それまでには死ぬつもりだ。
この高台にある鉄柵は背が胸ほどもあって頑丈だが、その横側には隙間があり、曲がった木の幹を経由して外に出ることができるようになっていた。柵越しに下を見ると、地面のアスファルトまでは目測でマンションの七階ほどの高さがあった。
ここから落ちればきっと、私の頭蓋骨は卵を床に落としたように何の抵抗も無く割れ、その脳漿を辺りへぶちまけるだろう。
朝が来たら、私は飛び降りて死ぬ。元より、私があの女性を殺すよりずっと前からそのつもりだった。
鉄柵から離れ、ベンチに座りなおす。
未だ太陽は見えず、黒い夜空には月が白く輝いていた。一体あと何時間ほどこの景色が続くのかは見当もつかないが、私は自らに残された僅かな時間を楽しもうと決めた。生きる者全てに許された考えるという権利を使って、無意味で曖昧な思考の海に身を投じることを決意した。
暫しの間、この死への波止場で。
──彼女はコンピュータに向かって、忙しなく指を動かし何か文字を打ち込んでいた。私からはその表情は見えなかったが、身体は楽しく躍っているように見えた。
私が姿を現したとき、彼女は目を見開いてとても驚いていた。自ら行動を起こしたにも関わらず気が動転していた私は、横に走る肋骨に対して縦に包丁を突き立てた。そのせいで刃は骨に阻まれ、胸の肉を浅く切り裂くに留まった。白の寝間着は紅く染まり、彼女は甲高い叫び声を出して表情を苦悶の色に染めた。
次いで首に包丁を振り下ろしたが、彼女が身を捩ったせいでまたしても骨に当たった。左の鎖骨だったと思う。一度目より強くしたからか、腕が痺れた。
「やめて、やめて」と騒いで逃げようとした彼女に、今度は骨に当たらないよう腹を刺した。包丁が深く突き刺さった確かな手応えがあり、そのときから彼女は声にならない小さな呻き声しか出さなくなってしまった。脇腹にかけて切り裂こうと横にぐいぐいと力を入れたが、急に強ばった腹の筋肉がそれを許さなかった。仕方がないのでそのまま引き抜くと、腸とともに噴水のように血が吹き出し、私のパーカーの裾と袖口をぐっしょりと濡らした。
夥しい出血にも関わらず、彼女は震える手で私の腕を強く掴んでいた。俯いていて表情は見えなかった。
肩を突き飛ばすと、彼女はうつ伏せになって倒れた。
力を振り絞るようにして私の足を掴んだ。
そして、動かなくなった。
私が殺人を犯した理由は至って単純明快で、ただ殺してみたいと思ったからだった。しかし、その思考に至った経緯は極めて複雑怪奇であり、当事者であるはずの私にも説明できはしない。ただ一つ言えることは、私が自殺計画をし始めたときと、人を殺そうと決意したときはほぼ同時期だったということだ。
あれほど血が出ていれば、出血多量によるショック死は免れないだろう。まして意識を取り戻すなどとんでもない。恐らく一人暮らしである彼女を何者かが殺したことに周りの人間が気づくのは昼、どれだけ早くても朝だ。
日の光が、人々を照らす頃だ。
それだけ時間があれば、私にとっては十分だった。
私は生来の流されやすく臆病な性格が嫌いだったが、私が最期に成し遂げたこと、そしてこれから成し遂げるだろうことは賞賛に値する。
それは無意味な殺人という愚かで救いようのない罪を迷いなく遂行し、豪胆にも安らぎを求めて自ら死を選ぶことだ。
視界に陽光が差す。
蕩蕩とした思考が終わりを告げた。
ではさらば、白濁の月よ。もう二度と見ることはないでしょう。
ベンチから立ち上がり、鉄柵を避けて僅かなコンクリートの地面に立つ。
遥か下に見えるアスファルト。本能的な恐怖が、これから先も生き続ける「私」を幻視させ、私に退けと命じた。
しかし、その「私」は今と変わらないただの殺人者であった。
ざざっと背後から葉擦れの音が聞こえた。
ゆっくりと一歩踏み出した後、目だけで振り向くと、そこには可愛らしくこちらを見つめる黒い猫がいた。
某所某日、殺人という許されない罪を犯した少女の所感 しみたま @Shimitamagor
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