プロローグ:ある日の図書館②

「こんにちはー、夕焼け堂のジュリオです」


 フィーリアが開けたドアの先には、なじみの顔が立っていた。


 この図書館に出入りする書店で働いている青年、ジュリオだ。亜麻色の髪を短く整えた彼は、今日も近所の犬に似た顔をしていて、腕まくりをしたシャツとサスペンダー付きのズボンを身につけている。足下には、フィーリアが発注した本が入った箱を乗せた台車を従えていた。


 ジュリオの人なつっこい笑顔を目にしたフィーリアは、彼の目をじっと見つめたまま言った。


「……どうも、夕焼け堂さん。毎度思うのですが、屋号と一緒にお名前を名乗るのはどうしてですか? 夕焼け堂の方はあなた以外ここにいらっしゃらないので、私はあなたの個人名を知らなくてもまったく困らないのですが」

「え、そんな寂しいこと言わないでくださいよ……」


 思わぬ指摘を受けたジュリオは、大げさに肩を落としてがっくりとうなだれた。

 その様子を見て、昔いとこが飼っていた表情豊かな犬にも似ているなとフィーリアは思った。


「そもそもフィーリアさんが言ったんですよ、名前も判らない男の求婚は受けられないって」

「それはまあ、常識でしょう」

「だから僕は自分の名前をお伝えして、その上で……」

「嫌です。職場と名前しか判らない殿方とは結婚できません」

「じゃあ僕のことをいろいろとお伝えしたいので、今度の休日に!」

「嫌です。ここは年中無休です」

 ちなみに年中無休は嘘である。

「では今度、あなたの休憩時間に!」

「嫌です。迷惑です」

「では!」

「嫌です」


 ふたりが不毛な言い合いに熱くなっていたそのとき、彼らの耳の後ろを季節はずれの冷気が撫でた。あまりの冷たさにジュリオは小さく悲鳴をあげ、一方のフィーリアは顔色ひとつ変えずに後ろを振り返る。すると案の定、笑顔を崩さないアスタがドアを大きく開けて立っていた。


「はいは~い、ふたりともお仕事してくださいね~」


 ジュリオは彼女の笑顔に何かを感じたのか、居住まいを正して深く頭を下げた。


「はい……ごめんなさい」


 一方のフィーリアは。


「アスタさん、私は悪くありませんよ」


 と、あくまでも自らの非を認めない姿勢を見せていた。

 アスタは司書の頭に乗る三角帽子を風でふわりと浮かせて取り上げると、この日で一番の笑みを彼女に見せた。


「あなたも仕事中のおさぼりという観点では同じですよ、フィーリアさん」

「…………」


 笑顔とは裏腹に普段より低くこもったアスタの声を聞いたフィーリアも、次の瞬間には思わず頭を下げていた。アスタはそれを見るとうんうんとうなずきながら、彼女の頭に帽子をそっと乗せてやるのだった。


 帽子をかぶり直したフィーリアは小さく咳払いをして、少し顔を赤らめながらジュリオに向き直った。どうやら少しばつが悪いらしい。


「……ええと、それでは気を取り直しまして。ありがとうございます、夕焼け堂さん、本はいつものところに運び入れてください」

「はい、かしこまりました!」


 そうしてふたりは、フィーリアが先導する形でドアの向こうへ消えていった。

 アスタは彼らに続いてドアをすり抜け、半開きになっていた勝手口を静かに閉めるのだった。


「あら?」


 アスタはくるりと後ろを振り向いて、耳を澄ませる。ジュリオとフィーリアの声や物音に混ざって、元気のいい少女たちの声が聞こえてきたのだ。方向からして、どうやら図書館の入り口あたりらしい。会話の内容まではさすがに聞き取る気はないが、声色から察するに、どうやら悪い雰囲気ではなさそうだな、と彼女は思った。


「そろそろ学生さんたちが来る時間帯かしら? それにしても、なんだかずいぶんと楽しそうね~」


 お客さんが来たのならお出迎えしなければと、足下の透けた幽霊職員はいくつもの壁をすり抜け、異国の歌を口ずさみながら入り口に向かった。

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