第十二話 鎧

 詩織は目を見張る。淡く光る壁の向こうで、颯が全身赤い何者かに胸部を貫かれたのだ。


 思わず口を手で覆う。声が出ない。呼吸が浅く短くなる。人は本当に恐ろしい目に遭った時、動けなくなるものなのだと初めて知った。


「颯」


 ようやく搾り出した声はかすれていて、とても彼に届きそうもない。隣にいた縁と翔も、それは同様のようだった。


 その場に膝をつく詩織。どう考えても、あれは致命傷だ。胸部を貫かれて無事なはずがない。それは今の颯が人知を超えた存在――ウォーデッドであっても変わらないことのはず。


 鎧の隙間から血が滴っているのが見えた。助からない。今度こそ本当に。


 詩織の頬を涙が伝う。せっかくこうして出会えたのに何も出来なかった。今度は自分が颯を救う番だと思っていたのに。


 無力感が全身を覆う。恐らくこの光の壁はじきに消滅するだろう。そうなれば次に死ぬのは自分だ。あの赤い何者かは、確実に自分を殺す。あれはそういうものだと直感的に理解できた。


「颯、ごめんね。何も出来なくて……」


 次の瞬間。光の壁が弾けて消える。これで、自分の命も終わるのだ。そう思った時、思わぬ出来事が起こった。




 少し離れたビルの上から様子を見ていた神楽は、抜きかけていた刀を下ろす。本当に危なければ、そのまま割り込むつもりでいた。自分一人では勝利を得るには戦力が足りなくとも、少なくとも颯を救うことは出来る。そう考えていた。


 しかし、その考えは杞憂に終わる。それは颯が最後に使用した呪術の正体に気付いたからだ。


空蝉うつせみか。確かに奴ならば使えても不思議ではない」


 隣にいる十六夜も同じ考えのようだ。神楽に開放の許可を出していない点からも、それは明白だった。


 そう。貫かれたのは颯本体ではない。呪術で作り出した幻影。霊力のみで構成された傀儡くぐつであった。


 颯の本体は紅夜叉の後方へと回り込んでいる。これまでの颯とも違う鋭い動き。慣性を無視しているかのようなステップで、ついに妖の後ろを捉えた。


「勝ったな」

「ええ」


 斬撃一閃。黒い炎を纏った颯の刀が空間ごと紅夜叉の首を断ち切る。一瞬の静寂の後、紅夜叉はその場の空間と共に崩れ去った。


「あの滅殺、知ってたの?」

「いいや。これでも驚いている」


 基本的に無表情の十六夜の感情を読むのは難しい。長年連れ添ってきた神楽でも、十六夜の心中を量ることは叶わなかった。


「まさか、本当に一人で覇王級を倒してしまうとはな」


 十六夜の言葉が風に流れる。神楽は安心したように少し笑みを浮かべてから、転移の呪印を展開した。




 守れ。


 また内なる声が囁く。何を何から守れというのか。それすら内なる声は教えてくれない。


 鎧の内側で霊力が脈動する。ボロボロになった鎧からは血と共に霊力が炎のように噴出していた。


 それは颯が内に秘めたドラゴンの妖性ようせい。傷ついた鎧はその力を留めておくことが出来ない。それは今にも噴火しそうな火山に似ていた。大地が震え、空が鳴き、風が荒れ狂う。目の前の妖もそれに気付いてはいるだろう。しかし颯は止まらない。紅夜叉が腕を振りぬこうとした瞬間、颯は呪術を発動させた。


 空蝉。それが颯の選択であった。刺し違えるのではなく、勝って生き残るための最善の一手。それを今、このタイミングで選んだのだ。


 刹那、結界が消し飛ぶ。結界を解いたのではない。結界が颯の霊圧に耐え切れなくなって四散したのだ。


 空蝉に気を取られている紅夜叉の背後に回る。それはこれまでに出したその速度よりも速い。鎧が悲鳴を上げる。今にも爆発して消し飛びそうなほどに。感情が燃える。そのまま燃え尽きてしまうのではないかというほどに。


 守れ。


 内なる声は囁き続ける。目に映ったのは、消し飛んだ結界の向こうで涙を流している詩織の姿。


「……なるほど、そういうことか」


 理由まではわからないが、どうやら内なる声の主は詩織を守れと言っているようだった。


「ならば答えて見せよう! 俺の全力で!」


 左の刀を紅夜叉に向かって放る。柄の先に付いた鎖は延長され紅夜叉の周囲の空間を幾重にも斬り裂いた。斬り取られた空間は、まるで牢獄のように紅夜叉を捕らえ逃がさない。


「これで仕舞いだ」


 右の刀に黒い炎が宿る。炎は刀身を延長させ、巨大な太刀へと姿を変えた。颯はその太刀で紅夜叉の首を薙ぐ。遅れてくる衝撃。しかし滅界ほど周囲への被害はない。


 颯の奥の手、無双滅界むそうめっかい。投げつけた左の刀で周囲の空間を切断、固定させ、逃げ場を失った相手を黒い炎で延長した右の刀で空間ごと切断する。颯の真の滅殺だ。これを実戦で使うのは初めてだが、想定通り紅夜叉の首は落ち、その後空間ごと崩壊した。


 しばらくし崩壊した空間が元に戻ったのを確認し、颯は転身を解いた。あのまま鎧姿でいれば、間違いなく内なる妖性に耐え切れなくなった鎧が砕け、颯は暴走状態となっていただろう。


 大きく息をつく。それだけで全身に痛みが走った。息が上手く吸えない。身体がぐらりと傾く。どうやら真っ直ぐ立つ力も残ってはいないようだ。


 顔が地面と衝突するかと思われた瞬間。何者かが颯の体を支えた。十六夜にそのような力はない。ならば誰が。


「颯、大丈夫!?」


 そこにいたのは詩織であった。縁に、翔もいる。三人が力を合わせて颯の体を支えたのだ。


「お前達は……」


 まさかこのような事態になるとは思っていなかったため、颯は幾分動揺している。


「戦うのが今の颯の役目なんだってことはわかった。けど、あんまり無理はしないで。お願い」

「そうだよ。お兄ちゃん。神楽さんっていう仲間もいるんだし、一人で背負うことないよ」

「お前は元々なんでも一人で抱え込みがちだったからな、いい加減その癖は直した方がいいぜ?」


 三人が颯に声をかけた。颯は一度目を瞑ってから、静かに答える。


「……考えておこう」


 この日、一体の覇王級が討伐された。それはすぐに狭間の町、門前町でも知られることとなる。颯の名声がまた一つ上がった訳だ。


 それとは別に、颯には新しい日課が出来た。詩織達と会うことである。


 内なる声は「守れ」と言っていた。それはきっと彼等のことだ。内なる声の主はわからず仕舞いだが、今はそれでいいだろう。


 颯はかつての友人とこうして真の意味で再会を果たした。それが今後どのように作用していくかは誰にもわからない。しかし、今この瞬間は心地いいものだった。ただの人間のように語らい、同じ時を過ごす。ウォーデッドに寿命がない以上ずっとこのままという訳にはいかないが、それでも今はこの関係でいるのも悪くはない。


 その席には雫も一緒にいた。全身の呪印を呪術で隠していれば、そこいらにいる少女と何ら変わりがない。しゃべるのはまだ苦手のようだが、それも含めて、この場にいる人間達は受け入れてくれた。


 どういう訳か、十六夜もこれに関しては然程気にしていないようだ。必要以上の人間との接触は嫌がるかとも思っていたが、これは新たな発見である。


 そんな訳で、今は皆で神楽の入れたコーヒーを啜っていた。もちろんコーヒーはブラック。傷の完治まではまだ少しかかるが、それもこの調子ならそう遠くないうちに治るだろう。


 その間に事態が悪化していることに颯が気付くのは、まだ少し先の話である。

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