第八話 神と眷属
「ありがとうございましたクロロプラスト。これでエルフを救うことができます」
ヴィドリアが柔らかく頭を下げると、クロロプラストも温かい微笑みを向ける。
美しい空色の瞳と針葉樹のように深い緑の眼が交差するその姿は、とても先ほどまで敵対していたとは思えない。
どうやら、神々は相当気変わりが早いらしい。数百年に及ぶ対立も、たかが数時間で解決してしまう。
お互いに合理的というか現実主義というか、敵は悪で自分は正義だという感覚がすっかり抜け落ちているような雰囲気だ。
……いや、むしろそれが正しいのかもしれないが。
「とりあえず施術は終わった。けど、実際に森と契約できるかは別の話だよ。それはヴィドリアが彼女に教えるんだ」
「わかっています。ここからは私の問題ですから」
原初神クロロプラストは、あくまでもビアンカの魂臓に手を加え新しい魔法の才能を与えたに過ぎない。
それを使いこなすことができるかは、これからの修業と知識がものを言う。
ただ少なくともこの時点で、ビアンカは他のエルフには絶対に不可能な技術を体得したことは間違いないだろう。
「……ですが、彼女一人ですべてのエルフを救うことはできません。もちろん森の守護という意味でも、彼女とその協力者たちでは少なすぎます」
森は非常に広く、ビアンカとその家族しかいない小さな集落程度ではとても守り切れない。
当然、森の生育を補助するという契約内容もこなすのは難しい。
「そうだね。各集落を回って代表者を選出してきてよ。流石にエルフ全員となると時間がかかるし」
それはクロロプラストもわかっていることだ。いくら魔法に長けたエルフとは言え、彼女一人で森を支えられるとは思えない。
この森を守護するにはある程度の人数が必要だ。
それに、契約から得られる森の恵みを求めているエルフも多い。両者の利害は上手く一致していた。
ひとまずの問題はこれで解決するだろう。エルフが人間に対する抑止力になってくれれば、それもまたよしだ。
「それでは、またここに来ます。一旦ビアンカを集落まで送ってきますね」
ヴィドリアは再度クロロプラストに一礼すると、指先から魔力を放つ。
小さな粒となった魔力が極光を撒く壁に当たると、その地点から空間ごと砕け始めた。
「相変わらず強引だなヴィドリアは」
「クロロプラストの個人領域は強度が高いので、このくらいしないと破れないんですよ。それではまた」
最後に軽く言葉を交わすと、ヴィドリアとビアンカはクロロプラストの領域を出ていく。
砕けた壁の向こうは、もう先ほどと同じ森の中であった。
ビアンカが不思議に思って振り返ると、もうそこには巨大な樹木しか見られない。
原初神クロロプラストの個人領域は忽然と姿を消していた。
「……驚きました。どうにも捉えがたいというか、目の前にいるはずなのに、ずっと遠くにいるような人でした」
「クロロプラストに移動という概念はありませんから。彼の個人領域では、距離や長さという感覚を狂わされるのです」
あれが植物の神クロロプラスト。本当に不思議な人物だった。
隣にいるヴィドリアも通常の生物とは明らかに異なる雰囲気をまとっているが、彼は特に異様だった。
存在する意味が、存在する次元が、根本から違っているような、そんな感覚をビアンカは覚えたのだ。
神とは、かくも不可思議な存在なのだと改めて認識した。
「そんなことより、このことを集落の皆さんに伝えましょう。植物との契約魔法についてもお教えしなければいけませんから、今日はまだまだ忙しいですよ」
ビアンカが呆然としていると、ヴィドリアはすでに歩き出していた。
常なる者にとって摩訶不思議な体験も、彼女にとって慣れたことなのだろう。それよりも早くエルフの集落に戻りたい様子だ。
後ろを振り返り手招くその姿は、彼女の美しい表情と声音も相まってとても愛らしく見える。
同性のビアンカですら、胸をドキッとさせられてしまうものだ。
クロロプラストも美しい顔立ちをしていたが、ヴィドリアは殊更に綺麗である。
それは彼女が、人間種やエルフの祖という存在だからだろう。彼女たちにとってどのような姿が最も美しく映るのか、それを体現したかのような人物だ。
やはり、ヴィドリアはそこにいるだけで常人の感覚を狂わせる魔性の力を持っている。ビアンカはクロロプラストと出会ったことでそう確信した。
「そういえばヴィドリア様、先ほど捕らえた賊はどうなさるのですか?」
すっかり忘れていた。そう言わんばかりに、知恵神ヴィドリアはキョトンとした表情を見せる。
どうやらエルフのことで頭がいっぱいだったらしい。聡明な彼女にしては珍しくお茶目なところを見せてしまった。
「あ、ああそれは……後でなんとかしますよ。ちゃんと拘束しておきましたし、結界も貼ってあります。もちろん内からも外からも干渉できないので、落ち着いたら私が連れて行きましょうか」
本当に珍しく、ヴィドリアは早口でまくし立てた。
普段絶対に見られないその一面に、ビアンカは不覚にもぐっと来てしまう。
これほど可愛らしい人が他にいるだろうか。
わかっている。これは先ほどからのギャップでそう感じるだけなのだと。彼女が自分たちの神だからそう感じるだけなのだと。
これは本心から思っているわけではなく、生物的にそう思わざるを得ないのだと、ビアンカは正しくこの感情を理解していた。
しかし、これを受け入れないことは悪だろうか。否、断じて否だ。
エルフがヴィドリアを美しく思うこと。魅力を感じること。それは何ら間違いではない。むしろ正常な感情であると言える。
……だからきっと、ビアンカが彼女に心酔してしまうのも仕方のないことなのだ。
「さあ、早く行きますよ。これから忙しいですから」
ヴィドリアは立ち尽くすビアンカに背を向けると、そのままスタスタと歩いていく。そんな姿すら、今のビアンカには美しく見えた。
そしてまた、何故か自然とその背を追いたくなってしまう。
彼女を守り傍にいようと、何故かそう思ってしまう。
「お待ち下さいヴィドリア様。いつ先ほどのような輩が現れるかわかりません」
まるでそれが自然なことであるように、ビアンカはヴィドリアの前を歩き周囲を見回す。
クロロプラストと出会った影響だろうか。彼女を守らなければならないという意識が普段よりもずっと強いのは。
「ありがとうございますビアンカ。でも大丈夫ですよ。私は結構強いですから」
対するヴィドリアも、自信満々の様子で己の腕を見せつける。
毛ほども力こぶのできていないその細い腕すら、とても愛らしいものに見えた。
……しかしビアンカは知っている。彼女はこのように華奢な身体で、大の男を投げ飛ばすのだと。
先の輩に限らず、無謀にも彼女に挑んだ者はすべからく悲惨な結末を迎えている。
ご近所に住んでいてある程度交流もあったビアンカは、それを良く知っていた。
「わかっていますヴィドリア様。しかし、これは眷属の仕事ですから。私が望んでいることなので、どうかお気になさらず」
だが、ビアンカは彼女の実力を知っていようとも頑として譲らなかった。
こればかりは、実力がどうのという話ではない。主従関係のようなものだ。
主人の方が力があろうとも、従者はそれを守るもの。それが神と眷属という間柄なら、なおさら守らねばならない。
「……そうですか。ではお言葉に甘えてしまいましょう。しっかり守ってくださいよ」
機嫌が良いのか、ヴィドリアは少し茶目っ気のある笑みで彼女にそう言った。
その笑顔に、ビアンカはまたも心を貫かれる。
この人のためならば命を賭けても良いと、本気でそう思えるほどに。
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