ブラック・ホール・ラン
外清内ダク
01-俺の女神
「奇跡の馬鹿」
ブルはいつにも増して凄まじい剣幕で迫ってくるが、俺は一向どこ吹く風だ。雑然としたガレージを右へ左へ。固定金具を蹴り上げたうえでブルー・シートを
「聞いてるのか、
「俺はそんな名前じゃない」
「馬鹿で悪けりゃボケカスだ。トンチキの間抜けの
「語彙が豊富なこって」
「
「怪しいもんだ」
俺は苦笑する。
まともじゃないと自分でも思う。勝負に命を賭けるなんて輩は銀河に掃いて捨てるほどあるが、生還可能性ゼロのレースにわざわざ首を突っ込む阿呆は過去数千年間ただのひとりも居なかった。ウケ狙いならウケた後の賞賛を味わいたいもんだし、自殺志願ならもっと効率のいい方法がいくらでもある。間違いなく俺の頭はいかれてる。ところが一方、「どうせ返済もしなくて済むから要るだけ金を借りちまえ」なんてちゃっかり計算してる自分もいて、狂ってるのかそうでないのか、俺にもよく判断がつかなくなっている。
「あれはな、グレイ、神様
「知ってるよ」
「シュバルツシルト面に飛び込んだら二度と戻っちゃ来れないんだぞ。お前は船ごと圧縮され引き伸ばされ、理想的に線径ゼロのスパゲティになり、
「頼むよ」
どっちが狂ってんだか分からないくらいに、俺は妙に穏やかな手付きでブルの二の腕に触れた。
「お前だけが頼りなんだ」
*
ブラック・ホール・ラン。シュバルツシルト半径42%地点から出発し、
「ハンディキャップ。人間の作ったものが私達にはちょうどいい足枷なのさ」
あの女はそう言い放ちやがった。3年前のあの夜、アントニオの店の、“ローディ・ブルース”が漏れ聞こえるカウンター席で。質の悪いテネシーがプンと薬品臭を漂わせる中、あいつは潰れかけた俺の斜め後ろにいつの間にか立っていた。肉感の権化たる四肢。
精霊エヴォニッツァ。
本物の女神を見たのも初めてじゃないし、大して信心深いほうでもなかった。彼女が東欧のカタルーシかどっかの神格で、冬風かなんかを司ってるらしい、と調べたのだって随分後になってからだ。にも関わらず、その時の俺は目の前の女神にただ圧倒されていた。
「貴公がグレイ……」
「俺を、知って……」
「NNS6630基準の極高速機を
「ちぇっ。神様に嘘つくのは冒涜じゃないのかい……」
「違うのか」
「星系一じゃない。宇宙一だ」
クリスタル細工みたいな顔に似合わぬ豪快さで彼女は笑い、俺の肩にもたれかかった。もう神への反感も諧謔心もどこかへ吹っ飛んでしまい、おっぱいが力強く押し当てられてるのが偶然か否かという哲学的命題で俺の頭はいっぱいになっている。
「気に入ったよ。仕事を頼まれないか」
「報酬は……」
「女神のキス」
前払い分が
「不足があるかい、
*
あるね。あるとも。そんな不確かなもので動くような俺じゃない。色仕掛けに溺れたがってる堪え性のない男性性を必死の気合で抑え込み、俺が要求したのはトラペゾヘドロン
「いいとも。ただし」
酔い
「働き次第の歩合給だ」
翌朝にはもう俺の身柄はγバレーナ
だが俺の反応はちょっと違った。この時の興奮は自分でも表現しづらい。まず第一に女神への「ざまあみろ」。次によぎった前任者への「半端仕事しやがって」。なのに実際に機体を
ランは1週間後。俺はほぼ不眠不休で作業を続け、修理と調整を意地で間に合わせた。重賞だけに敵も豪勢。ギリシャからは虹のイーリス。遠く印度より
スタート直後にコースを外れ、
突然の奇行に「すわ発狂」と沸く実況。モニタの前に渦を巻く烏合の衆の怒号と罵倒。だが声は数秒で凍りつく。女神が走る。亜光速にまで加速された
そして、抜けた。
歓声だ。あまりの声量がために音というより皮膚の振動としてしか感じられない大歓声が
「
絶叫する俺。行く女神。
結局、最初の差を全く縮めさせずに超超先行逃げ切り
数分後、俺がそわそわと待つ
長くて乱暴で容赦ないキス。歯茎の裏も、舌の付け根も、みんな彼女の舌先に蹂躙され、混ざり合う唾液の芳しさに俺は窒息しそうになる。
「やめろ」
震えながら彼女を押しのけようとし、うっかり手のひらで女神の乳房を握ってしまう。俺は童貞小僧のように慌てる。
「
「歩合給だと言っただろ」
エヴォニッツァは少女のように破顔して、純白の歯をのぞかせた。
「溺れるくらい呑みたい気分だ。
お前もそうだといいんだが」
(続く)
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