第3話 依頼人の鑑
パチパチと瞬きをして見直してみるが、書かれた内容も写真も変わりなどしない。故障かと思ってぱそこんの縁をトントンと叩いてみるも、あむちゃんが苦笑うだけ。
「何だこれ。あむちゃん、どうなってる」
グッと詰め寄る。圧されて一歩引かれるが、構うものかと追い立てた。何故にともちゃんの浮気調査を依頼されているのだ。夫である俺が依頼していないというのに。
「あ、わかったし」
とあむちゃんは魔女のような手を叩く。
「所長が依頼したんじゃ」
「する訳がないだろう」
断固として否定する。そもそも俺にこんな真似は無理だ。しないではなく出来ないのだ。機械音痴を舐めてもらっちゃ困る。画面に書かれている文字を指でなぞった。
「浮気調査はまだいい。だがな、あむちゃん。『私の妻』とはどういうことだ。夫はこの俺だろう。こいつは何を言っている」
何度か小突くと画面に指紋がついた。
「そんなの、あーしに言われても困るし」
ぷくっと口を尖らせている。子供のように拗ねる仕草がこれまた可愛らしく映る。少々和んだ所で落ち着きを取り戻した。
「これはどこからきた依頼だ。依頼人はどこのどいつで、なんと名乗っているんだ」
あむちゃんはバツが悪そうに縮こまる。俺と視線を合わさないようにとそっぽを向きながら、明後日の方向へと話す。
「それが、そのー……。ネットだしさー。隠せた方が依頼もくると思ったしー。匿名もオッケーにしちゃったー、みたいな?」
なんてことだ、と頭をガシガシ掻いた。あむちゃんに任せっきりにしていたから、とやかく言う筋合いがないのは百も承知の上だ。只、もう少しなあと思ってしまう。
「つまり、相手は名乗ってないんだな?」
湧き出る気持ちをグッと堪えて訊く。
可愛らしく小首をかしげるものだから、もう俺には何も言えやしなかった。するとあむちゃんはとくに気にした様子もなく、カチカチと何かを押して巧みに操作する。
「ニックネームがね。ぷーちゃんだって」
「うん?」
なんだ、やっぱり相手は名乗っていたのかと眉をあげる。しかし変わった名前だなと口を曲げたら、違うと違うと笑われた。
「やーだもう。単なるニックネームだし。所長ったら、マジウケるんですけど」
相も変わらずあむちゃんはよくウケる。うちの所きってのムードメーカーだった。あむちゃんがウケる時は決まって矢上助手も笑いだすというのが通例になっている。
俺だけがわからずにふたりして笑い合っているという時が多々あるが、そういう時に俺は決まってこう言うようにしている。
『うちの職場は恋愛禁止だからな』
と。
すると決まってふたりは、
『そんなのわかってるしー』
とか、
『もちろんっすよ』
とか言って誤魔化すが俺は知っている。
日によって、ふたりが同じ香りを漂わせているということを。矢上助手が着ていたTシャツの柄と、後日あむちゃんの胸元からチラと覗いた柄が同じだということを。机の下でたまに手を握り合っているのを。事務所の前で出勤時間をずらすこともだ。
俺は探偵だから知っている。
だが俺はまだあきらめていない。あんな事やこんな事になる日を夢見つつ、うちの職場は恋愛禁止だからと言い続けていく。
今日も身構えたのだが、つられて笑う姿はそこにはなかった。そうか、矢上助手はまだ外か。帰ってきていないのだったな。拍子抜けした弾みに肩の力も抜けていく。
ニックネームが何なのかまだよくわかっていないが、わかった振りをして頷いた。どちらにせよふざけた名前に違いはない。
「きっと質の悪いイタズラだろう」
と椅子に深く座りなおした。
ゴキッと首を鳴らしてあくびをひとつ。
探偵という職業柄、人から恨みを買いやすいものだった。ましてや俺は名探偵だ。その分妬まれやすくあって当然と言える。大方、金払いの悪かった旦那か。はたまた羽振りの良い旦那を持った奥さんにでも、やっかまれたというだけの話なのだろう。
電脳の世界まで来て、御苦労なこった。直接に返しをしてくるわけでもないのだから大した相手でもなかろうよと弛んだ。
「こっちから連絡は取れないのか?」
「え、いいんだ? じゃあやってみるし」
カタカタと音が鳴ってしばらく待ってみると、あむちゃんの動きがピタリと止まった。面接の時は美しく映えていた黒い髪をくるくると巻いていき、声をかけてくる。
「ねー、所長」
と言っては髪を離した。
真ん中だけ金色に染まってしまった髪がハラリと回りながら解れていく。
「なんかー、前金払ったって言ってるし」
「まだ何も話してないのにか?」
どうなってる。イタズラじゃなかったのかと疑問が頭に浮かぶ。うちの相場を知っているのらやはり既存顧客の仕業なのか。
「いくら払ったと言ってるんだ?」
「前金十万、成功報酬はまた別でだって」
相場の二倍だ。随分と気前が良い。手付金だけだったならば破格な物じゃないか。本当だったらの話だがなと顎に手をやり、黒電話を引っ張り受話器を持ち上げる。
たしか矢上助手はまだ外におつかいに出たままのはずだった。そのまま、口座を確かめさせてこよう。へのへのへ、と回転式ダイアルを回していく。ジーコジーコと鳴る合間にあむちゃんは感嘆の声をあげた。
「所長、それはマジですごいよね。電話番号ぜんぶ覚えてるんでしょ? すごいすごい。あーし、そんなの絶対に無理だし」
「ん、そうか? 何、こんなの軽い軽い」
『それは』、すごいという言葉に少し引っ掛かりを覚えないでもないが得意気に口角は上がっていく。十一桁の番号を空で唱える程度の事はちょろいものである。俺はあむちゃんのすまほも、家の電話番号だって空で言えるけれども黙っておくとしよう。
「昔はすまほなんかなかったからな。みんな語呂合わせで無理やり覚えたものだよ」
まあ、昔は六桁で覚えやすかったのは何もいま言わなくてもいい事だったろう。
矢上助手は直ぐに電話に出た。やはりまだ外だったらしく、その足で口座を確認しに行ってもらう。その結果、依頼人のぷーちゃんが言う通りに、口座には手付けの十万円が振り込まれていた。虚言ではない。
何なんだこれは、十万円だぞ。ただのイタズラにしちゃいくら何でもやり過ぎだ。俺の妻である友香の、旦那を名乗るぷーちゃんは一体何がしたいと言うのだろうか。
「ねえ所長、この依頼どうするの?」
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