【おさわり版】すまん、殺しを依頼したのは俺なんだ

モグラノ

第1話 浮気の証拠

 探偵を求める声が俺を浮世へ舞い戻す。


 黒電話からの熱烈なラブコールはなおも鳴りやむ気配はなさそうだった。ダークブラウンの中折れ帽を指でくいと持ちあげ、わずかばかりのスキマから辺りを見回す。


 繁華街から一本、道を隔てた場所にある裏路地にひっそりと佇む雑居ビルの三階。稲葉探偵事務所。お世辞にも小綺麗とは言えないような場所だが。ここが俺、稲葉跳市いなばとういちの根城だった。


 雑多に積みあげられた資料や書類の山。部屋のあちこちには変装用にと用意してあった衣服がところ狭しと散らばる。衣服に埋もれるようにしながらも事務机が三台。


 そこに座るは受付兼秘書の、沖島おきしまあむ。


 俺が解決してきた数多の事件の処理に追われているのか、手が離せないのだろう。ひょいと首を曲げて覗いてみると、机の上に謎の小瓶をずらりと並べている。いったいどうやるのか、その長い爪で器用に雑誌をめくりながら爪になんぞを塗っている。


「所長、電話ぁ。あーし、手一杯だし」


 あむちゃんは『し語』の使い手だった。なにかと、『し』を付けたがるギャルだ。雇った当初はそんな子じゃなかったはずなんだけどなと遠い日を偲びつつ、机の上で組んでいた足をやおらに降ろす。


「何か塗ってりゃ、手一杯にもなろうさ」


「あは、ウケる」


 いつも俺の話にウケてくれるいい子だ。


 所長である俺となにかあった時にはと思って好みの顔で選んでみたのだが、いまの所これといって何もなかった。これからの展開に期待は膨らむばかりだ。


 もう片方の事務机にも目をやると、視線に気付いたのか助手が顔をあげる。


 矢上海斗やがみかいとがにこりとほほ笑み、

「先生。電話、電話っすよ。依頼すかね」

 と、つんつん指をさす。


 電話に出ようかという気はないようだ。


 彼は甘いマスクの持ち主で、工作活動には非常に便利なイケメンだ。俺を先生と慕ってくれるのは良いのだが、とくに敬うような気持ちは持ち合わせていないらしい。


 しかたなく電話に出るかと手を伸ばす。椅子から動くのが億劫だったので手をピンと張って伸ばしながら、ううんと呻る。あとすこしで届きそうだが、手は空を切る。


「惜しい、先生。あともうちょいっす」


 こいつには何も頼まないと心に決めた。


 何度か挑戦したもののやっぱり届かず。もういい、とあきらめ立ちあがった。電話機ごと持ちあげて、どさりと机に腰かけては耳に受話器を這わす。


 さあ、いったいどんな迷える子猫ちゃんが俺を呼んでいるのかなと耳をそばだて息を呑む。コホンと喉を鳴らし電話に出た。


「はい、お電話ありがとうございます。こちら稲葉跳市いなばとういちの探偵事務所でごさいます。大変、お待たせ致しました」


「稲葉先生、さすがっす」

 

 俺の声色に矢上助手は小声で囁き、あむちゃんと顔を見合わせてはニヤつき合う。ちらとふたりに視線をやるが、あまり気にもせず電話の応対をしていく。


「ええ、調査の進捗状況が知りたいと。少々、お待ちください。お繋ぎ致します」


 保留機能などはないので黒電話の上に受話器を預け、俺は探偵を呼んだ。しばらくの間を空けてふたたび受話器を手に取る。今度は自慢のいい声で渋く決めてみせる。


「はい、お電話変わりました。稲葉跳市です。いやあ、どうもすいませんね。ドタバタとしちゃいまして。なに、朝から難解な事件に取り掛かっていただけですよ」


 軽快に笑う俺の裏で声がする。


「一人二役。すごいっす、先生」


「まじ、ウケる」


 矢上助手は驚き、あむちゃんにウケた。俺は七色の声を使い分けることができる。八色めの声が出たものだから自分でもちょっとびっくりとしてしまったが、だれもが同じ人物だったとは思いもしないだろう。


 所長かつ探偵である俺が手ずから受付をするわけにはいくまい。暇な探偵だと思われてしまう。そもそも、俺は受付を雇っている。電話に出る必要などまったくない。


 だが電話口で、「あーし」と言わせるのも良くない。一度、あむちゃんを叱ろうとしたらわんわんと泣かれてしまい。どう勘違いをしたのか挙句の果てには、首にするなら死ぬからねとまで言われてしまった。


 とんでもない子を雇ったかもしれない。


「はい、ええ、調査は終了しました。準備でき次第、すぐにでもご報告できますよ」


 ガチャリと電話を切り、机の上をガサゴソと漁っていく。書類に埋もれていた使い捨てカメラを取り出してポーンと助手に投げ渡す。


「これ、すぐに現像しといてもらえるか。あと、報告書の作成もたのんだ」


「ういっす。浮気の現場写真、もう押さえてきたんすか。さすが先生、早いっすね」


「まあな」

 と満更でもなく答え、

「あとで、しおりちゃんにギャラ宜しく」

 とあむちゃんにも伝えておく。


「所長、またしおりさん使ってるしー」


 ぷくりと膨れあがり、そのまま爪に息をふうっと吹きかける。それは怒ったのか、乾かそうとしたのか。どちらなのだろう。判断に困る微妙なところだった。


「そう言ってくれるな。しおりちゃんもあれで大変なんだ。実入りは減るし、田舎に残してきた弟の学費も稼がなきゃならん」


 事務所の会計を担っているあむちゃんは不服そうに口をとがらす。経費を安くすませたいのだろう。話を聞いていた矢上助手はカメラを持ちあげて訊いてくる。


「ああ、じゃあこの証拠写真は、しおりさんなんすね。ハニートラップっすか」


 今やキャバクラも閑古鳥が鳴いている。キャバ譲のしおりちゃんも暇していたのかふたつ返事で協力を買って出てくれた。男を転がすのなんてお手の物だったろう。


「トラップじゃない。ただの簡略だ」

 と俺は首を振る。


 浮気は間違いなく行われていた。


 只、このご時世だ。浮気相手との密会は頻度がさがり、証拠の写真を撮ろうにもみんな簡単にはマスクを外したりはしない。写真の証拠能力も多少さがるというもの。だったら間者を使った方が手っ取り早い。


「合理的判断に基づいたまでだよ」


 矢上助手による称賛の声を耳にしつつ。それにしおりちゃんに恩も売れるしなと、これからの展開にほくそ笑んだ。


「しおりさんって、ひとりっ子だったんじゃないんすか?」

 という助手の声は聞こえない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る