通夜
母が死んだ。ダンプカーにはねられたその屍は無残な在り様を示していた。家族や親族縁者のなかで遺体を確認したのはおれ一人だった。母の屍は生前の美しさをどこにもとどめていなかった。父や妹、叔父や叔母に、その屍を見せる訳にはゆかなかった。通夜をやることになった。おれが通夜を取り仕切るのは初めての経験だった。親族縁者には妹が通知した。夜になって人々が集まってきた。家の玄関口で来客に対応するおれに、人々はそれぞれに様々な悔やみの言葉を言った。通夜が始まった。皆がそれぞれに吞んだり喰ったりし始めた。それはしめやかな始まりだった。二時間ほど経った。時が経つごとに人々は無遠慮な賑わいを示すようになった。中でも騒々しい宴会を始めたのは、母の姉の家族一同だった。母の死を悼む気持ちなどどこかに置き忘れて、下らない話をしながら自分たちの愉しみに興じて笑いこけていた。おれは逆上して怒鳴り声を挙げそうになった。その時のことだ。棺桶のなかから声が聞こえてきた。言葉の意味は分からなかったが、ボソボソとくぐもった声で何かを言い表そうとしていた。声が大きくなるにつれて、其処にいた人々が皆、凍りついたような沈黙のなかに沈み込んでいった。沈黙のなかで大きさを増した声に加えて、棺桶がガタガタと動き始めた。誰か女の声が悲鳴を挙げた。棺桶の蓋が少しづつ持ち上がってゆくのが分かった。棺桶の蓋が全開した。中から母の屍が上体を起こした。頭蓋骨が割れ脳味噌が覗き鼻がもげて、顔全体の形が歪んで見えた。通夜の客は皆立ち上がり、それぞれに高低のある悲鳴を挙げた。全裸のうえに白装束を纏った母の屍は、何やら訳の分からない呪文のようなものを唱えながら、棺桶のなかから立ち上がった。母の目はうつろで何処を見つめているようでもなかった。通夜の参列者が皆大声を挙げながら、家のなかから飛び出して行った。母の呪文の内容は分からなかったが、それがサンスクリット語であることは容易に知れた。時々、真言の断片が混ざっていたからだ。母は呪文を唱えながら棺桶のなかから足を踏み出し、独特の跛行を示しながら外へ向かって歩き始めた。通夜に来ていた客は皆悲鳴を挙げながら逃げまどった。母は外へ向かって蛇行しながらも歩きつづけ、とうとう家の外へ出た。おれは母を止めることもせず、母の後ろについて歩いて行った。半裸の姿をさらし、母は住宅街を進んでゆく。道行く人は皆、異様な光景を目にしてぎょっとしたように足を止め、それから何事かを喚きながら走り去った。母の後ろについて歩いてゆきながら、母が何処に向かって歩いているのか、暫くの間おれには皆目見当がつかなかった。しかし十数分も経ったころには、母の目的地が何処なのかおれにも容易に知ることが出来た。母が向かっている場所。それは海の他ではなかった。跛行する母の後ろについて、おれは黙って歩きつづけた。母に出食わした通行人が、時々手荷物を放り出して走り去って行った。小一時間ほど経って、相変わらずサンスクリット語の呪文を唱えながら、母は海に出た。冬の海は荒れて、海岸のテトラポッドに白い波頭が激しく打ち寄せていた。母は護岸壁のうえに立って、これまでよりもいっそう大音声で呪文を唱え始めた。波飛沫を浴びながら、母は海に向かって手を合わせ、何事か鬼気迫る表情で唱えていた。時が経った。母は口を閉じて、白装束のまま、テトラポッドのうえによじ登り、一瞬姿勢を正すと、きれいな放物線を描いて海のなかに飛び込んだ。母が海面に浮上することはなかった。それ以来、おれは母の姿を見ていない。母が天国に上ったか、地獄に下ったかは、無論おれの知るところではない。
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