ぬいぐるみになって

虫十無

 ぬいぐるみ、と目が合う。吸い込まれるような感覚がして、気がついたら目の前に私がいた。その私はいやな笑い方をすると伸びをして部屋を出ていく。

 どういうことだろう、と思ってしまう感情と裏腹に、記憶が、昔読んだ小説を答案として持ってくる。猫と少女が入れ替わってしまう話。

 だってこの場所は棚があるから、私がここにいるとしたらこんな向き、こんな高さで部屋を見られるはずがない。それにさっき部屋を出ていった私の中に、例えばいつの間にか発生していたぬいぐるみの意識みたいなものが入っていたとしたら、それならきっと私と入れ替わって自由に動き回りたかったのだろう。

 考えながら顎に手をやる、と気づく。手が動かせる。首を頑張って下方向に動かしながら右手をできるだけ上げる。そうするとぬいぐるみ、確かにここに置いてあってさっき目が合ったくまのぬいぐるみの手が見える。やっぱり私の意識はこのぬいぐるみの中に入ってしまったのだろう。

 どうすればいいのだろう。無意識のうちに立ち上がろうとして、バランスを崩して棚から落ちる。ぽすっと床に落ちる。痛みはない。けれど腕も足も可動域が狭いから起き上がれないままじたばたする。部屋のドアが開く。私……私の身体が入ってくる。私は驚いて固まってしまう。そのまま私の身体は戻っていく

「お母さん、地震とかなかったよね」

 少し遠くから声が聞こえる。

「なかったけど、どうして?」

 お母さんの声だ。いつも通りの声を聞いてぼんやりと安心感を覚える。そんなんじゃいけないのに。私は戻りたいのに。

「ううん、ぬいぐるみが落ちてたから……今までこんなことなかったのに」


 あれからしばらく経つ。どうにかして戻ろうと私は試行錯誤を重ねている。

 目が合ったのがトリガーならもう一度目を合わせられないかと私の身体をじっと見るけれど、向こうがこちらを見るときは意識して目を見ないようにしているみたいだ。やっぱり向こうが先に仕掛けたことなのだろうから、戻ろうとする私の意思も読まれているのかもしれない。

 ほかにも何か戻る手立てはないだろうかと探し回りたい。けれど可動域の狭いぬいぐるみの身体に慣れず、やっぱり棚から落ちてその状態で誰かに発見されてしまう。

 ふと、あの小説を思い出す。猫と少女の身体が入れ替わるあの小説、少女は戻れたけれど少女の母親は確か、猫と入れ替わったまま戻れなくなった。そんなことにはなりたくない。どうにかできることはないかと落ちた状態で考える。と、むんずとつかまれて持ち上げられる。いつものように棚に戻されるかと思いきや、部屋の外へ連れていかれる。

「お母さん、このぬいぐるみやっぱり変だよ。こないだからよく落ちてる」

「あら、そうなの?」

「うん、これオカルトとかそういうやつかな? どうすればいいんだろ」

「でもそのぬいぐるみずっとお気に入りだったじゃない。いいの?」

「うん……なんか気味悪いし……」

「じゃあお焚き上げとかそういうの調べてみようか」

 そんな手があったのか。私は可動域の限界まで手足を動かして暴れる。そこでお母さんの顔を見て失敗したと気づく。そんな目の前で動くなんて、お焚き上げが急がれるだけだ。やめて、と叫びたい。けれどぬいぐるみの口は動かない。声帯もない。声は出ない。やめて、助けて。

 防衛反応だろうか、世界が遠くなる。暗くなっていく視界で最後にとらえたのは私の身体の気持ち悪い笑みだった。

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