愛深との出会い(1)

有楽町線各駅停車の電車に乗って約1時間、銀座一丁目駅の7番出口から出て京橋に着いた。

平日ということもあって街は人出も少なく、大して賑わってなかったが、仕事で急いでるスーツ姿のサラリーマンもいれば、俺みたいに暇な人たちがそぞろ歩いていた。

俺が向かった先はあるビルの一階にある小さなギャラリーだった。黒い看板に水葉画廊と書かれていて、一見こじんまりとした画材店に見えるかも知れないが、国内外の有名画家の作品を展示、販売するなど高価な絵を取り扱うところでもある。

画廊のスタッフが入り口の外で名簿を書かせている。

展覧会の最終日ということで、ビルの建ってる路地にはかなりの行列ができているのだ。 アラン・マルティネズが持ってる日本での名声を考えると、彼の描いた油絵が好きな人たちが集まってくることも分からなくはない。

彼の作品観とスタイルは、俺に多大な影響を与えた、それは俺の芸術観を根底から変えてしまうほどだ。

大学の頃、半ば学んでいるというポーズをとるためだけに美術に役立ちそうな本を図書館から借りていた。俺がまともに読めたのはアラン・マルティネズの色彩学の本だけだった。

本を読むのと実物を見るのは価値が違う。本だと絵画の質感は感じられない。コテコテとした油絵は特にそうだ。形だけじゃなくそれに内包された世界観、その意味と匂い。特に重要な部分は色味である。

美術館で作品を鑑賞する時だけは、俺の神経はニュートンのスペクトラムの世界にいるのだ。

窓枠ごとに外灯がついている画廊のショーウィンドウを通して、入り口正面と側面に飾られている作品が、徐々に俺の方に近づいて来た。

ギャラリーに入ると涼しいエアコンの風が、汗だくの体を冷やしてくれた。

そして俺はすぐ前方の絵を鑑賞し始めた。

一つ目の作品は「公園」という題名だった。

暗い色の植木と、 談笑を交わせる白いテーブル、フェンスの向こうには明るいグリーンの葉陰の下に、帽子をかぶった女性が通り過ぎていく後姿が描かれていた。

作家の故郷のノルマンディーの風景をモチーフにしたのであろう。緑と暗い青一色の風景の中に、白い点をつけたかのよう。まるで帽子の女性と一緒に緑の散歩道を歩いてるような印象をうけた。 

彼の絵画の特徴は繊細なタッチと光と闇の対照、そして必ずと言ってもいいほど帽子をかぶった女性をモデルにしているということだ。

他の作品に目を移すと、彼がどんどん露骨に美人画に執着していることがわかる。それも帽子をかぶった色白のエレガントな女性に心を奪われたように。

花の庭から正面を見つめる女、窓の外の海辺を見下ろす女、 毛皮を巻いて、長い煙管を手にした退廃的な雰囲気の女から、砂浜を歩く未熟な少女の肖像画まで。帽子をかぶってない女もいたが、大体の髪色はブロンドかレッドだった。

風景と女性の融和という、単調で理想的な彼の作品観に俺が魅了された理由は、彼の持つフェティシズムの発現である。絵の中の女性と目が合う時、俺はその作品の中に吸い込まれるのだ。そして何よりも俺は元々肖像画や抽象画が好きだ。

また、彼の作品が年代ごとに濁った色の曖昧な画風から、段々線が細かくなっていくのも分かった。同じ女性を描いても抽象的な部分と写実的な部分が同じ作品の中で明確になってるからであった。そのため同じテーマの作品の連続とはいえ、陳腐に感じることはなかった。

アラン・マルティネズは彼の本国フランスより日本で有名になった画家である。

祖国では報われなかった夢を、外国で成し遂げた人の良い事例として、彼の作品はいま、日本で高く評価されている。

一説によるとアランがまだ懸け出しの画家として、経済的に困窮していた時期に、パリに訪れた日本の美術愛好家や画商が彼の絵をほとんど買い取った言われている。

彼の作品は日本人の美意識を見抜いているようだった。

フランス特有の感性を好む日本人には、彼の絵柄は印象的に映ったのだろう。

彼の作品は日本人画商と出会ってから生まれ変わった、と言っても過言ではないのだ。

考えてみれば、彼は祖国での異邦人だったかも知れない。

もしくは、俺が初めてパリに行ったとき経験した悪夢みたいなパリ症候群に、彼も毎日ひどく悩まされてたんじゃないか、とも思う。

そうだ、パリ症候群。

大学の卒業旅行で行った、憧れのフランスへの旅。その中でパリはロマン溢れる場所だった。

シャルルドゴール空港に着陸する前まではね。

封印されていたはずの記憶が蘇ってきた。俺はしばらく目を閉じて、白黒映画のような過去のフィルムを再生した。

そこはただ東京と何の変わりのない日常が流れていた。違う点といえばフランス語を使い、まじもんのエッフェル塔があるだけ。

花の都、パリで俺が見たものは、路上に吐き捨てられたガムの跡や、犬の糞、吸い殻などのゴミと、下水溝から湧いてくる、人間の髪の毛を引っ張って操り料理とか作ってそうなビジュアルのネズミたちだった。

映画ミッドナイト・イン・パリに出てくるベル・エポックやらレザネ・フォルやらの西洋文明のノスタルジアは彼らだけが所有しているものだった。パリの激動の時代は既に1920年代に過ぎ去ったのだ。パリは燃えているか?ヒトラーがそう問うと、少なくとも自分の中の理想郷のパリは燃えていた。

現実のルーブル美術館は、ただの観光スポットだった。

静かな雰囲気でゆったり絵を鑑賞することなどもってのほか、ガラスのピラミッドから館内まで遊園地並みに人だかりができていた。

特にモナリザの前はすごかった。正直、教科書に載ってる写真の方が綺麗に映ってると思うが。

他の色んな名画が飾られていたが、観覧客は何の意味もなくスマホで写真を撮って次へ進むばかりだった。

ミロのヴィーナスとか、古代ギリシャの石像の残った部分とか。

ただ有名なだけで、そこまで価値あるか?くらいの感想しか出てこなかった。

おまけに俺は、そのへんにいたアフリカ系の黒人に半強制的に手製のミサンガを握らされて、仕方なくお金を払うしかなかった。

そして注文を間違えてもお詫びの一言もない接客態度の悪いカフェの店員とか、道端に「ペッ」と平気で唾を吐く人々とか、その傲慢さを挙げたら切りが無い。

中国の観光客とパン屋のおじさんがチップのことで言い争ってる光景を見て、パリの暮らしがいかなるものなのか知ることができた。

パリ10区でジプシーのようなホームレスに、 目尻を引っ張って目を細くする人種差別的なジェスチャーをされた時の侮辱は思い出したくない経験である。

完全に消えかけようとしたフランスへの憧れは、美味しいコート・ド・ブフとボルドーワインを飲んで、教皇庁のあるアヴィニョンが秘めている中世ヨーロッパの風景と、エクサン・プロバンスにあるセザンヌのアトリエに行ってきたことで保つことができた。

彼ももしかしたら日本に初めて訪れた時、同じ心境だったかも知れない、そう考えながら次の作品に足を運んだ。

やがて作品展の中盤まで来た時、俺は目が吸い寄せられる作品の前でピタッと足が止まった。

その視線の先には赤色のでこぼこした洋瓦の屋根が描かれていた。そして淡いブルーで色づけられた春の空から花の雨が降るかのように、黄色とオレンジ系のデコレーションがつけられていた。

そこには誰もいなかった。でも他の作品とはかなり違う色味が漂っていた。

『屋根の上』という題名の作品だった。

瓦屋根は、一枚一枚の線がまっすぐに描かれているが、空の形ははっきりしていなかった。今まで見てきた画風を考えてみると、これってもしや彼のミスなのではないか、と思いながら、俺は作品を見続けた。

だがこの作品の中にも、きっとどこかしらに女性の姿が存在しているはずだと、思えてならなかった。

この空間のどこかがずれてると感じた俺は、その絵をじっくり観察することにした。

「この絵綺麗ですね」

「そうですね……」

まるで屋根の上に女性が立ってて、風を感じているようなイメージが連想される。そのせいか、どこからか風に乗ってきた声が俺の耳に入ってきたような気もした。その時、俺は人の気配を感じて振り向いた。

「え、自分に言ってるんですか?」

「あっ、ごめんなさい。つい独り言で」

「いいえ、大丈夫です」

隣には一人の女性が立っていた。あまりにも自然に俺の視野に入ってきて、俺は若干驚いた声で彼女に答えた。

第一印象は、少しつねるとすぐにでも赤くなりそうな丸い頬の輪郭、うるうるとした瞳、アーチ形の眉、歪みのない美しい口元と、薄いピンクの艶々した唇。整った目と鼻。小動物のような可愛さが漂ってる美人だ。

彼女はスリーブにフリルがほどこされている、ベビードールなワンピースを着ていた。彼女のフレアスカートのシルエットは、まさにアラン・マルティネズの作品のモデルそのものだった。穏やかな波の海辺にレジャーシートを敷いてピクニックを楽しんでいる女性が思い浮かんだ。

服の上からでもわかるほど、片手では収まりそうにない胸のラインと、控えめに露出されてる谷間をちらっと見ると、ズボンのファスナーが連鎖的な化学反応によって爆発しそうになった。そして早くも頭の中で射精してしまった。そんな状況を避けるためにも、俺は何か言わなければなからなかった。

「……綺麗な絵ですね」

「はい、実は今日これ目当てに来たんです」

改めて見ると彼女はもっとはっきりと見えた。

俺は目のやり場に困って、作品と彼女を代わりばんこに見えていたが、結局絵の方に視線を向けた。

彼女は構わず俺を見つめているにも関わらずだ。この非現実的な状況をどう解決していくべきか、脳内では会議が行われた。

 

司会「えー、本日は第25回、人生の重大事についての会議を進めていきたいと思います。発言される方は前へどうぞ」

性欲「はい!はい!」

司会「……はい、どうぞ」

性欲「勃っちゃった!」

司会「今はご勘弁願います。他の方々のご意見は?」

愛「まさに運命的な出会い、今来てますね。一期一会なんていらない、積極的に声かけて好感度上げましょう」

理性「うーん……今回はさすがに厳しいんじゃないかな?相手の容姿はトップレベル。ハードル高そうだなぁ。俺はとりあえず様子見かな」

絶望「ド底辺の俺がこんな可愛い子一生抱けるわけない……」

根拠のない自信 「いや、ここは押し時でしょ!みんな頑張ろうよ!」

男のプライド「同感だな。それに女の方から声をかけてきてるこの滅多にない絶好のシチュエーション。鉄は熱いうちに打てとも言うし押し時」

理性「うむ、そう?悩みどころではあるな。まあ、でも確かに一か八かだし、みんなに合わせる」

羞恥心「でも、見向きもされなかったらどうするんです?俺、多分窓から飛び降ります」

性欲「中に出したいな!」

男のプライド「ビビんじゃねぇよ。羞恥心てめーは引っ込んでろ」

愛「これは紛れもなく春訪れてます!性欲さんの尋常じゃない動きをご覧ください。今すぐに行動を開始するべきだと思います」

司会「私見ですが、確かに今まで経験してきた女性のパターンを考えてみると、プライドさんがおっしゃる通りここはビビらずに積極的に話しかけた方が、逆に印象良いかも知れませんね」

根拠のない自信「それそれ!俺が言いたかった!女という生き物はちょっと褒めちぎるだけでコロッと落ちて股開いてくれるしな!」

理性「いや、それはない。現実見ろ。もっと自分に客観的になれ」

性欲「よっしゃ!来たよ繁殖期!直ちに繁殖行為に突入しましょう!」

常識「誰か性欲ちょっと黙らせて。まあ、とりあえず、優しい紳士を演じつつ、絡みほしいアピールする線でいいと思います」

司会者「わかりました。では今回の会議は彼女に声をかけるという方向で決定させて頂きます。異論のある方?」

愛「賛成です!」

根拠のない自信「もちろん賛成!」

絶望「いや、失敗は怖えぇ」

羞恥心「口滑って大失敗の場合は心のバリア展開します」

理性「最悪な印象だけは残さないようにしよう。しつこく連絡先聞かない。引くときは引く」

常識「それな」

男のプライド「やるか!」

性欲「セックスチャンス!」

司会者「分かりました。では皆様、各自通常業務に戻ってください。行動を開始します」

 

こんな風に大まかに意思を決定し、議論を終えた脳内会議は俺に本格的な行動を指示した。俺は何個かのセンテンスを選んで、落ち着いた態度で彼女に尋ねた。

「そうなんだ。この作家知っていますか?」

「作家とかは詳しくないんですけど。絵を見るのが大好きで」

そう言いながら彼女は無邪気な顔で微笑んだ。ということはつまり知識がないということ、少なくともこの分野に関しては門外漢ということだ。

彼女は俺に聞き返した。

「美術館とか、よく来られるんですか?」

「そうですね、気分転換でたまに」

「お一人でですか?」

「はい、一人でです」

軽い雰囲気の会話が順調に続いた。彼女は可愛らしく首をかしげた。

「なんだか珍しいですね」

「そうですか?」

珍しいという言葉につい反応してしまった。昔よく言われた言葉だったからだ。俺はもっと彼女との会話に引き込まれたかった。

「一人で美術館に来られる男の方って中々いないと思いますよ。あ、私も今日一人で来ました」

見知らぬ人に対する警戒心がないことから、彼女もまた変わった女性ということは確かだった。

「それこそ珍しいですね」

「逆に一人で回った方が静かに見れますよね」

「あ、それ分かります。そもそも自分は一人でしか来ません」

「ふふ、なんか気が合いますね」

軽く笑う声に、俺は完全に彼女の虜になってしまった。女の武器とというものはこういうものだ。あまりにも自然な笑顔と刺激的なハイトーンの声。男はその笑い声に腑抜けになってとろけてしまうのだ。

「なんかこの絵って落ち着きますね」

彼女は作品を見つめながら言った。その言葉に俺の知的虚栄心が動き始めた。

「そうですね。でも、自分が思うには単なる風景画ってよりかは作者個人の愛情と執着が込められた作品……という気がします。例えばこの空って一見春の景色に見えがちなんですけど、よく見ると色合い的に海みたいじゃないですか。この人の画風は1990年代から2000年代以降完全にスタイルが変わったんですけど。これは一番最近のものです。特にただ屋根と空だけが描かれていることからして、作者の美意識に大きな変化があったことが見られます。僕はこの屋根の上に透明な女性が立っている、そんな気がします。つまり今までは現実の世界の欠片からイデアを求めていた作者が、抽象的で独立した部分でその断片を探すようになった……という。そういった試みじゃないですかね。この洋瓦のはっきりとした線の様子なんかに、すごく作者の変化を感じられますね……ってすみません長く語りすぎちゃいましたね」

なんともパッと思いついた単語や文章を羅列してほざいた感想だが、彼女はいきなりの熱弁に驚いた表情で俺を見上げた。

「へえ!なんかすごく詳しいんですね!もしかして美大生の方ですか?」

「あくまで僕の感想ですよ。絵を見て何を感じるかは人それぞれですから」

若干うぬぼれた俺はかっこつけた言いぐさで言葉の最後を飾った。彼女はすっかり俺の話に納得しているようだった。

「私、専門的な話は難しくて聞いてもよくわからないですけど、今のはすごく伝わってきました!」

「あ、本当ですか?それはよかった。次の作品行きません?」

「ぜひ~」

彼女はおとなしく後をついてきて俺と一緒に作品を鑑賞した。なんだか夢のような空間に入ったような気がした。彼女が俺のそばに寄り添って歩くたびに、その場で一凛の百合の花が咲き始めるかのごとく、ほのかなシャネルの香りと、彼女の純粋な美意識が俺の心臓に響き渡った。

俺たちは陳列された作品の端っこまで来て、作者が自分の娘をモデルとして描いた挿絵を見ながら話を交わした。

「この作品も本当に綺麗。モデルごとに雰囲気が違うというか、素敵ですよね。でも、なんかこの人の絵に出てくる対象って女の子率高いですよね?なんでだろう?」

「そうですね。僕の意見なんですけど、単純にこの人の心の片隅にある、エレガンスへの憧れなんじゃないですかね。単純に考えるとね。現代に入ってからハイパーリアリズムやらなんやらでこういう雰囲気の肖像画とかは衰退しつつあるんですけど、逆に写真やメディアじゃ写せない美しさがあるんですよ。肖像画って美化されやすいですしね。彼は現実の断片を描写したんですけど、絵柄自体は絵画的現実に基づいているんです。これらの肖像画は彼のみぞ知る非現実的で幻想的な女性像なんじゃないかと、僕は思います」

「そうなんだ!なんだかすごいですね!」

よくもベラベラと喋る俺の姿に再び謎の感銘を受けた彼女はぼんやりとした表情で絵を見ていたが、隣にいた絵画コンシェルジュを呼んだ。

「本日はご来館いただきありがとうございます。作品の方はいかがでしたか?」

「とっても素晴らしかったです!この作品が気になるんですけど。これっていくらぐらいするんですか?」

「購入ご希望の方でしょうか?今、見積もりを持って参りますので、少々お待ちください」

俺は彼女の言葉を聞いた途端あっけにとられ二の句がつげなくなった。え、買うの?今この場で?

段々と彼女への疑惑が募る瞬間だった。しばらくするとスタッフが書類を持って戻ってきた

「こちらお値段の相場の方がですね。現在35万8000円となっておりまして。あ、今ご購入なさるんですか?」

「はい!後、できれば、家に送ってもらいたいんですけど。あ!それと額縁もお願いできますか?」

「はい、もちろんでございます。配送は無料となっておりまして、作品はすべて額を付けてお客様の元へお届けに参ります。また配送途中の保険も当ギャラリーにて負担いたしますのでご安心ください。30日以内の返品の受付も可能となっております。詳しい手続きの説明は事務室の方でご案内致しますので、よろしければこちらへどうぞ」

彼女は行ってきますという風に手を軽く振ってから、スタッフについて事務室の方へと向かった。

「うわ、えっろ」

彼女の後姿を見た性欲さんが叫んだ。

俺はもう一度頭の中で射精し、また射精し続けた。それは性欲さんから与えられた一つの苦難だった。一体彼女の正体はなんだ!とてつもない波が押し寄せて来た。彼女の内界にダイブしてその核に触れたくなった。

いくら美的感覚が刺激された作品と言えども、絵は美術館に飾られているからこそ美しいものだと、そう思っていた俺にとって彼女の取った行動はかなりの衝撃だった。よく知りもしない作品を衝動的に購入する彼女の姿はなんだかかっこよくも見えた。彼女の金銭的余裕もまた神秘的なものだった。そこがまたリビドーをいじったりして。

俺はひとまずギャラリーから出て近所の喫煙所に入った。タバコを口にくわえて、これからの戦略を練ることにした。しかし、驚いたな。さてはお金持ちのご令嬢だったりして。

俺は彼女ともっと話がしたかった、そして彼女がどんな人生を送っているのか、どんな感覚を持ってるのか直接知りたかった。

タバコの煙が精気のパラメータを表すかのよう立ち上った。これはきっと俺の人生に訪れたディープインパクトに違いない。俺は彼女にもう一度声をかけるチャンスをつかむために、立て続けにタバコを吸って冷静な判断を取り戻そうとした。それと同時に血圧が上昇しているような感覚もした。

「これは一世一代の運命だ。彼女がギャラリーから出た瞬間声をかけなければ」と考えた俺は喫煙所のパーテーションの間をのぞいて、彼女が出てくるのを待ち受けた。やがて彼女がスタッフに見送られながらギャラリーから出てくると、俺は平然と家に向かうふりをしたまま後ろを振り向いた.

「またですね」

「またですね!今帰りですか?」

彼女は泰然と俺の前で立ち止まった。それと同時に脳内では作戦開始のラッパが鳴り響いた。

「そうですね。え?あの作品買い取ったんですか?」

「はい。家に届く日がとても楽しみです」

「高いのに、すごいなぁー。しかもギャラリーで買う人なんて初めて見ましたよ」

「私も高いなとは思いますけど。でも絵を飾っておくと家の中が華やかになるというか、そんな感じでつい買っちゃいました」

若干ブリーチをかけた髪の毛先を指先にクルクルと巻き付けなら話す彼女を見て、俺は内心動揺し, ごくりとつばを飲み込んだ。落ち着くまでにはまだ時間がかかりそうだった。

「そうなんだ。自分なんて一度も絵を買うとか考えたことないです。そういうのはお金持ちのすることだとばかり思ってました」

「ふふ、私全然金持ちなんかじゃないですよ。ただの大学生です」

「え、本当ですか?全然そう見えないです。なんかもうお嬢様って感じします」

「えー!そんな風に褒めてくれて嬉しいです。お名前聞いてもいいですか?」

「彩木潤平と言います。……そちらは?」

照れくさそうに名前を名乗ると彼女はまぶしい笑みを浮かべながら手を差し出した。

「沢村愛深と言います。よろしくお願いします」

「こちらこそ。あの……アイミってどんな漢字なんですか?」

彼女と握手を交わしている間、俺は少しの違和感としなやかな手の肌触りにうっとりさせられた。すべすべした手を離しながら沢村愛深という名の彼女は言った。

「愛の愛に、深海の深って書いて愛深と言います」

「本当そんな感じの方ですね。すごくきれいな名前です」

「え~嬉しい!そう言われるの今日初めてです」

彼女はどうも天然っぽいキャラクターのように見えた。外国育ちなのか、ひょっとしたらハーフではないかとも思った。 愛情深い人になれってことなのだろうか。今度は彼女のルーツが知りたくなった。 どんな家庭で育ち、どんな背景があるのかについてだ。

「今から帰るんですか?」

「はい、神楽坂の方に」

「そうですか」

俺がそう聞くと彼女はあまりにも簡単に自分がどこら辺に住んでいるかを教えてくれた。家も都内でもかなりリッチな立地。 彼女の出が察せされる部分だった。

俺はこの会話をどう続けていくか悩み始めた。連絡先を聞くか、それともこの後時間があるか聞いてみるか。そうやって悩んでいるうちに彼女が口を開いた。

「それとも、初めて知り合った方とお店に行って話すのもいいかも知れませんね」

「え……自分と、ですか?」

「はい。潤平さんのほかには誰もいませんよ?もしかして時間ないですか?」

バイきんぐの小峠の「なんて日だ!」というネタが思い浮かんだ。まさにそんな状況だった。 彼女の積極的な態度に戸惑った俺は、どもりながら答えた。

「いいえ……いや!もちろん時間ありますよ!今日休みですし、その……よければどっかのカフェでも行きますか?」

「それもいいんですけど、もう暗くなってきてますね」

彼女はビルの間に暮れゆく夕日を眺めながら、低い声でつぶやいた。

「そうですね。ちょっと遅いかもですね。この辺だといっぱいカフェ開いてますから、自分調べますので」

「んーじゃあ、こういうのはどうですか?私の行きつけのバーがあるんですけど……そこで一杯するのはどうですか?」

「はい?」

思いもよらない提案だった。俺はズボンのポケットからスマホを取り出そうとしたが、その姿勢のまま止まってしまった。

「お酒。ダメですか?」

「いや。あの……いけるんですけど。自分は……ただ、ちょっと……急すぎて」

「あっ、ごめんなさい」

「いえいえ!大丈夫です!自分もいいですよ!最近家でしか飲まなくてちょうどよかったです。是非行きましょう!」

慌てる俺を見た彼女は、小さく笑って指をそっと唇に当て、「ん~」としてから聞いた。

「ここはそうだなぁ……お店は恵比寿の方にあるんですけど、どこに住んでますか?」

「自分は和光の方です。あ、でもそっちだと乗り換え一回すれば家に着きますから、どこでも構いません」

「あ~そっちか。わかりました!じゃあ、行きましょう?」

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