第9話 籠鳥、空華を知りて

 こと、と小さな音を立てて、カップが置かれる。和梅は、思わず目を見開いた。

 思っていたのと違う。否、見た目こそ和梅には、凡庸なブラックコーヒーとの違いは分からない。

 しかし、その香り高さは、休日の昼間、何となく怠い体を起こすために適当に淹れるインスタントコーヒーとは、同列に並べるのも憚られるほどだった。


「うぁあ……」

 思わず変な声が出てしまう。そっとカップを両手で持つと、鼻に近づいたことで更に強まる香りに、ごくりと喉を鳴らす。

 手に伝わる熱に、必要以上に緊張が走る。そっと息を吹きかけ、和梅は恐る恐るボーンチャイナのコーヒーカップのふちに口を付けた。


「……!」

 ぱっと顔を上げる。ぱちりと白花と目が合った。

 にこりと笑って白花は言った。

「美味しいだろう?」

「……」


 何も言えずぽかんと口を開けたまま、和梅はきょろきょろと辺りを見回す。いつの間にかカウンターに戻っていた實彦を目に留め、はくはくと口を動かした。


 ふは、と白花は笑い声を上げた。上手く感動を言い表せず、笑われてしまったのが恥ずかしくて頬を赤くした和梅を見て、白花は、ふふ、と更に笑う。


「ごめんね、おかしかったわけじゃないんだ。気を悪くしないで」

 それからいつもの穏やかな微笑みに戻って、こう続ける。

「今日は、君の解釈について勉強しなきゃいけないからね」


 はっとして、和梅は表情を硬くした。向かいに座る少女をリラックスさせようと、再びにっこりと笑って見せて、白花は持っていたトートバッグから数冊の本を取り出した。

 その中に盗んだ注釈書と同じものもあり、「あ」と和梅は声を上げる。テーブルの上で滑らせ、白花はそれを和梅に寄越した。

「これは和梅が持っていて。一冊ないの、お父さんにバレちゃダメだろ?」


 昨日、和梅は本が破れた経緯を話したのだが、その際に白花はその本の特徴を事細かに聞いてきたのだ。不思議に思いつつも覚えている限りで特徴を伝えたところ、その少ない情報で白花はどの注釈書か特定したのだ。


「……凄い分析力」

 ハードカバーの表紙を撫でつつ和梅が呟くと、少し得意げに白花は返した。

「和梅のことを大抵知っているのにも、説明がつくだろ?」

「ストーキングについては称賛しかねるけど。……でも、ありがとう、白花」


 注釈書から目を離し、白花の方を向いた。今度は白花が少し目を見開く。それからふわりと表情を崩し、嬉しそうな笑顔になる。


「気にしないで。上代に関する資料は、和梅が持っていた方がいいからね。……じゃあ、早速だけど」

 微笑みを崩さないまま、白花は本の一つを手に取る。


「ここにあるのは全部、著名な上代文学の研究家の注釈書だよ。巻十七に関するものだけ用意してきた。俺が口頭で解説した方が早いし、今持っている本が全てじゃないから勿論解説も挟むけど、まずは自分の目で確かめた方がいいと思って」

「……うん」


 和梅は、先程寄越された本を手に取った。開いてみても、梅の枝が生えてくる様子はない。

「追和太宰之時梅花歌六首」という題詞が見えたところで、和梅はページをめくる手を止めた。三九〇一番歌からの六首の歌より成る、「梅花歌三十二首」に追和した歌群。大伴家持おおとものやかもちが詠んだと、父に教えられてきたその題詞の横に付けられた解説。


書持ふみもちって、誰……?」

 白花の笑みが深くなる。

「これもまた、一つの解釈の在り方だよ」


 家持の弟書持。数多くある『万葉集』の写本――要するに書き写しのことである――のうち、現存する最古のものである元暦校本げんりゃくこうほんにのみ、この歌群の作者が書持であると記されているらしい。


 初めて知る、継承歌に関する重大な事実に衝撃を受けつつも、和梅は資料を読み進めていく。目的の歌の注釈に目を留め、和梅は息を止めた。


「……父さんが見せたくなかったのって、やっぱり……」

 様子を窺うようにこちらを見てきた和梅に、白花は頷いてみせる。

 注釈書が示す歌意が、梅の花を折らず、ありのままで愛でることを推奨していること、そのことが記されている本を開くことを、異能により阻まれてしまったこと。


「君の継承歌は、「満開の時期の梅を折り取って愛でたい」という意味と、「満開の時期だけは折るのが躊躇われる」という意味とで、解釈が真っ二つに分かれていることで知られているんだ」

「どうして……」


 あれだけ厳しく文異能者としてのありようを自分に叩き込み、継承歌であるこの歌について懇切丁寧に教えてきた父が和梅に隠してきたこと。それは、他の何でもなく、その継承歌の解釈そのものだった。


「君が、二つの解釈の間で揺れることを恐れたんだろう。「継神つぎのかみ」への供物とする者は、その歌の解釈について迷いを持ってはいけない」

「継神……?」

「その家の継承歌……違うな、継承文学を司る神様のことさ」


 いきなり知らない単語を出されて戸惑う和梅を前にしても、白花は最早微笑んではくれなかった。少しだけ眉根を寄せて、白花は続けた。


「君のお父さん、盛咲時也は、君を人ならざるものに変えようとしている。動機は分からないけど、そうすることで確実に言えることが一つだけある」


 和梅の表情が強張った。この先の話の続きについて、よい展開を想像できなかった。まっすぐに和梅を見据えて、白花は告げた。


「彼の企みを止めなければいけない。継神の顕現が成功してしまったら……この国は滅んでしまう」

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