#作家は経験したことしか書けない

エリー.ファー

#作家は経験したことしか書けない

「作家が経験したことしか書けないなら、ミステリー作家は全員犯罪者で、アクション漫画家は全員チャクラを練れるか、悪魔の実の能力者か、卍解していることになると思います」

「実際は、そうではないことくらい分かっています。私たちが言いたいのは、例えば、漫画の中で出てくる暴力描写や女性への失礼な言動や見下した扱い方、及び男性への失礼な言動や見下した扱い方。現代社会において少数と呼ばれる人たちをステレオタイプに描き、またそれを肯定するような発言及び表現等についてです。これらは、作家が思っていない限りはできないことですし、作家の思想が入っていて当然です。作品は誰の手によって創られますか。作家でしょう。もちろん、多くの協力によって完成していますが、小説なら主に小説家、漫画なら主に漫画家の哲学や思想が色濃く出るのは当然のことであり、嘘偽りのない事実です。そのような部分も含めて、作家は経験したこと、もしくは、想像していることを書いていると言っているわけです。物語の中で殺人が起きた時に、作家は殺人について一切考えていないわけではないでしょう。つまり、どう殺人をするべきか、どうやったら上手くいくかと想像しているのです。そして、頭の中で生み出しているということは、実際に行動に移すことも容易であると言えます。私は決して、すべてを経験していると言っているのではありません。その中で表現されている幾つかの要素を抜き出せば、作者の不道徳、もしくは非人道的な行動及び思想に繋がる部分が多分にあると言っているのです。これは単純な否定や軽蔑ではなく、人が何かの表現をする限りは、何かの経験が元になっている可能性が高いという話なのです」

「まず、作者の危険な思想については、思想の中だけで行動になっていなければ問題はないと考えます。現実が不自由でも、想像は自由である、というのは常識であり、縛ることは不可能でしょう。その上で、この会話の重要な点は、今、あなたが言った通り、可能性が高い、という所であると思います。当然ながら、殺人を実際に行った人がミステリー小説を書いている場合もあるかもしれません。否定はできないでしょう。ただし、それは可能性です。そして、想像の域を出ません。表現の中にあなたを不快にさせるものがあったとして、そこからその作者の精神性の低さを推し量ったとして、それが正しいという証拠はどこにありますか。仮にあなたの推測が、ある漫画家の不道徳な部分を指摘したとして、他の漫画家、他の小説家も同様であるという証明はどのようにするのですか。ある特定の人種に殴られたからと言って、その人種に該当する全ての人が野蛮であると言い切れますか、言いきれませんね、何故ならそれは差別だからです。あなたを殴った特定の人物が野蛮であるという証明はできても、その人物と同じ要素を持った人に同様の評価を押し付けることは不可能です。ある黒人に殴られたら、黒人全員が暴力的である証明になりますか。ある白人に見下されたら、白人全員が差別主義者であることの証明になりますか。ある黄色人種が礼儀知らずだったら、黄色人種全員が礼儀を知らないことの証明になりますか。ある作家が非常識な人間だったら、作家全員が非常識であることの証明になりますか。黒人の例も、白人の例も、黄色人種の例も、作家の例も、証明になりません。何故なら、その特定の人物の問題だからです。そして、その部分を無視して、一括りで評価することは差別にあたるのです。また、それが可能だとしたら、私もあなたのように、自分にとって都合の悪い、もしくは自分にとって不快な表現をする人がいたら人格否定をしてもいいと短絡的に思考する方々を、一括りにして見下すことを許してくれるのですね。これも一切の差別ではなく正当であると言っていいのですね」

「私は、もっと根本的な問題であると考えています。それは、思想や哲学的な部分だけではなく、経験したことしか書けないというのは、つまり経験していないなら書くべきではないという意味です。物語を書く時には必ず現実感というものが重要になります。読者が没入しやすくなるように、より現実に近づけるということです。この中で、作者が現実に体験していないものを書くというのは余りにも無謀です。何故なら、作者の中に経験値がないからです。現実というものへの知識が乏しいと言っていいでしょう。そうなると、書いても質の低い物語になってしまい、面白くありません。では、経験をすれば面白くなるかと言われれば、その通りですが、今度は社会的な問題が生まれます。例えば、レイプの描写のためにレイプをすれば、その作家は犯罪者です。しかし、しなければ質の低いレイプの描写となり、表現物としてはお粗末です。私が言いたいのは、経験していないものを書けば質が低く、経験したことを書いているのであれば品性が疑われる部分が多くあるのが表現物の宿命であるということなのです。故に、作家は経験したことしか書けないのです」

「現実感とは、物語を構成する一つの要素であり、すべてではありません。生き物は命という要素がなければ動きませんが、表現物には幸か不幸か命がありません。それ故に、これがなければ表現物ではない、もしくは、これがなくとも表現物として成立するといった常識もないのです。まず、現実感というもの自体を神のように崇める宗教的な思考に問題があると考えます。もちろん、現実感が重要であるという人がいる、ということを否定する気はありません。しかし、同時に、あなたのような思考をしている人たちだけではない、というのも理解するべきであると考えます。あなたは生活をするのに、出勤や買い物、散歩のために靴が必要であり、靴がある生活は常識であると思うでしょう。ですが、家で仕事をして出前を取って、部屋にトレーニング器具を持っている人にとって外出は不要なので、靴のない生活も常識になりえます。あなたの気持ちは分かります。あなたの常識が、あなた以外の常識になっていないことを不都合に感じる気持ちも分かります。ですが、あなたの顔色を伺っているのはあなただけであり、あなた以外はあなたの顔色を伺って生きていないのです。あなたの人生に、あなたの常識に従わない人たちは登場しても、あなた以外の人たちの人生に、あなたは登場していないのです」

「ですが、作家や小説家には行動には移さなくとも、危険な思想や哲学を持っている人がいます」

「しかし、行動には移していません」

「もちろん、行動に移している人よりは安全かもしれませんが、危険な思想や哲学を持っているだけでも幾分か危険です」

「あなたは、自分にとって不都合で不快な作品を描いている作家は危険な存在である、と今現在まだ証明途中の理論を口に出して、作家を否定するという行動をしていますが、それはつまり行動まではしていない作家よりも、自分は危険な存在であると言っているのですか」

「作家は作品の中で表現をしているので、その時点で意見を表明するという行動をしています」

「では、作家は表現しているという形で行動を終えて、経験を積んでいるということですか」

「行動はしていますが、経験を積んでいるとは言えません。何故なら、想像でしかないからです」

「表現は想像を起点として現実の行動であり、経験を積んでいると言えます」

「その経験は、表現という形での二次的なものに過ぎず、その行動の一次的な経験ではありません」




 というわけで、お時間となってしまいました。

 ツルハクチョン星のトッキョ女王様とオルテ男鹿帝国のモリホウベン王の議論でしたが、いやぁ、白熱しておりましたねぇ。

 手に汗握るとはまさにこのことでしょう。迫力に負けそうになってしまいましたが、なんとか司会を務めさせていただきました。




「これは経験をしているから描けた物語ということですか」

「作家という主語自体をずらしてしまえば、経験していない者でも書けることになるので、矛盾はありません」




 はい、もう終わりなんで、黙って下さい。どっか別の所で、お好きなだけ喋ってくださいね。

 では、また来週。

 さようなら。

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