第41話 人間標本(6)

「うわああぁぁぁっ!」

 叫びながら廊下をかけていく男子生徒を、後ろから巨大なカマキリが追いかける。

 最初はのそのそと歩いていたが、突然羽をはためかせて宙に躍り出た。あっという間に男子生徒との距離を詰め、背後から両腕の鎌を振りかぶる。

「あッ…………!」

 生徒は目を見開いて床に倒れ込んだ。


 階段を駆け下りてきた優子と智也は、ちょうどその瞬間を目にする。数人の生徒が彼らと入れ替わるように、階下へと逃げていく。

 倒れた生徒の背中には、鎌によってV字に黒い裂け目ができていた。その裂け目を押し広げる形で、体内から新たな化け物が出てくる。

「ギッ、ギギギギギッ……。」

 見たところそれは、真っ黒なコオロギの様だった。翅を震わせて出す音は本物の美しいそれではなく、耳障りで低い、不協和な音の重奏。歩く以外に使う脚には、太くて長い柄付き針のようなものを持っている。

 倒れた男子生徒は気絶しているようだったが、背中の裂けた傷のように見えたものは、あっという間に塞がって消えていく。


 人の大きさをした、昆虫――

 智也はそれを見て直ちに、あの夢の中の「展示品」を連想した。だが、あれは「人間標本」と呼ばれており、半分人間の様だった。……目の前のこれは、どこからどう見ても昆虫そのものである。

 何にせよ、犯人はあの「博物学者」と、「処刑人」で間違いないだろう。智也に向かって「犯行予告」まで寄越したのだから。既知の強敵に加えて、能力が未知の敵、そして無数の兵隊たち――まさに、多勢に無勢。


 コオロギは真っ黒な目で優子たちを見据え、針を振り上げる。カマキリも加勢するように脇に立った。更にその背後から、ぞろぞろと他の昆虫たちが姿を現す。アゲハチョウ、オオクワガタ、ゴマダラカミキリ――

「っ!逃げよう!武器がない……教室に取りにいかないと!」

 優子は智也の手を引いて叫び、智也はなされるがままにその言葉に従う。

 優子はかなり焦っていた。朝校門をくぐる時だけならともかく、一日中服に武器を隠しているわけにはいかない。だがまさか、ここまで大量の敵が同時に現れるとは思っていなかった。……本当に、自分一人で勝てるのか?


 二人は階段を駆け下りる途中、三階でも数人の叫び声と、虫の羽音のようなものを聞いた。

 

 ――そして、二階。


「ジジジジジジジジジッ……!」

「ギューイギューイギューイギューイ!」

「ジュクジュクジュクジュクジュク…………!」


 二人は廊下に降り立つとともに、ほぼ同時に耳を塞いだ。

 廊下の床全体を、多種多様な蝉たちが覆い尽くしている。良く見れば、各個体が止まり木のようにしがみついているのは、彼らがそこから生まれてきたと思わしき人間たちだった。


 ――この中を、行くしかないのか……! 


 今にも鼓膜が破れそうな絶唱。脳が揺さぶられ、智也は二秒間でたちまち吐き気を催した。おまけに敵の数が多い。

 智也が武器になりそうなものを探すと、すぐさま壁際の消火器が目に留まった。……他にどうしようもない。

「優子さん!ちょっと!」

 智也は思わず自分から彼女の手を引いて階段に引っ込む。緊急時で距離感を気にしている余裕がなくなっていた。

 踊り場まで駆け戻り、お互いの声が聞こえるようにする。

「多分、今回の事件の裏には怪異が二体いる。処刑人と、あともう一体。……実は一昨日、僕の夢の中で出てきて……多分、犯行予告、みたいなことをしてきた。その記憶もなくなってたけど。」

「……夢の中って、それって……。」

 優子が何か言いたそうにしたが、智也はその言葉をさえぎって話し続ける。あまり深く考えている暇はないし……考えたくは、無かった。

「それ以上のことは僕にもわからないし、今はそれどころじゃない。とりあえず、あそこを切り抜けるのが先だ。」

「う、うん……。」

 智也は優子に口早に作戦を伝える。

「僕があいつらを消火器でできる限り潰すから、優子さんはその間に駆け抜けて。気休めにしかならないかもしれないけど、これで耳を保護して。」

 学ランとシャツを脱いで上裸になり、それらを優子に手渡す。そして少し躊躇したが、「ごめん」と断ってズボンも脱ぎ、自分の頭に頭巾のように巻いた。

「ああ、私こそごめんね、智也君だけ脱いでもらっちゃって……。」

「っ……セーラー服だと、厚さが足りないと思うから。」

 智也は優子の、「本当は自分も脱いであげたい」とでも言うような言葉を聞いて羞恥心が増し、動揺を隠すように言った。……そもそも、自分が恥を忘れてこんな行動に出られる方が驚きだった。キューピットさんの時と言い、智也はいざ戦うとなると一切の躊躇が無くなる。その気質が優子とよく似ていることに、彼は気づいていない。

「智也君ってやっぱり、緊急事態に強いんだね……。」

「……そうかもね。」

 智也は改めて心の中で、自分に「調子に乗るな」と釘を刺しつつ頭を切り替えた。


***************************************


「……じゃあ、行くよ!」

 智也は消火器を拾い上げ、手早くロックを解除して構える。やはりセミの合唱は防護を貫通して耳をつんざく。今にも両手を消火器から離して耳に持っていきたかった。だが何とか歯をくいしばって耐えながら走り出す。

「うわあああああぁぁぁぁっ!」

 一番近くにいた個体が上体を起こし、智也に向かって威圧するように「ギイィッ!」と腹を鳴らした。その両手にはいつのまにか、あの柄付き針が握られている。

 智也は動く隙を与えずに、その顔面に液体を噴射した。

「ジッ!ジジジッ!」

 蝉は苦しそうに仰向けに倒れ、針を投げ捨ててバタバタと暴れる。叫び声を間近で聞いて耳が割れそうになりながらも、智也は攻撃を続ける。その口の中に、ほとんど直接液体を流し込むようにノズルを突き出す。

 だが、無駄遣いはできない。その個体が起き上がらないと判断した時点で次に向かった……だが、うまく走れない。足元がふらつく。頭がぐらぐらする。吐き気がする。


 二体の蝉が、仲間を攻撃されて怒ったかのように同時に立ち上がった。智也はぐにゃりと歪む視界の中で、いったん踏みとどまって彼らの接近を待つ。そして少し足元の方から攻撃を始め、体をなぞるようにして口まで登っていく。これで何とか狙いのズレを減らせる、と踏んだのだ。

 一体目については何とか余裕をもって倒せた。だがそのすぐ後ろから飛んできた二体目に関しては、そんな悠長なことはしていられなかった。ほとんど目の前ぎりぎりで何とか命中した。蝉は苦しみながら飛びのき、地面に落下して暴れ回る。

 至近距離でその声を聞いてしまった智也は、両耳から生暖かいものが流れ出るのを自覚しながら、一歩ずつ踏みしめて進む。


 先ほどから後ろの優子が何か叫んでいたが、もう何も聞こえない。智也は半狂乱になりながら、目の前の敵に液を噴射する。

 その個体は倒れている上条礼司の上に立っていた。他の個体とは違い、翅が目に悪い極彩色に輝いている。

「――終わらせなイ。僕タチの夏ハ、まダッ…………!」

 それは重なり合った複数の人間の声でうわごとを言うが、智也には聞こえていない。

 智也は消火器の中身が切れたことに気づき、とっさに容器を両手で持ち替えた。

 針が付きだされる直前、智也は蝉の頭部に消火器を振り下ろした――グシャッ、と嫌な音を立てて、蝉の頭から透明な体液が飛び散る。それが聞こえなかったのは不幸中の幸いだろうか。だが、智也はその頭部の損壊を見たためではなく、単に三半規管の限界のために口を押えた。

「うっ、うげえええぇぇぇぇっ!」

 ひくひくと痙攣する蝉の足元に、智也の吐瀉物が降り注ぐ。

「ごめん、智也君……!ありがとう!」

 自分自身も耳から血を流しながら、それでも優子は智也を労って脇を駆け抜ける。なお、彼女は先ほど智也に攻撃された個体も、積極的に頭を踏みつけてとどめを刺していた。

 針を拾って武器にすることも智也が発案していたが、どうも昆虫たちの体に刺すとすぐに消えてしまうようだ。それでも優子は防御程度には使えるだろうと思い、一本だけ手に握りしめている。

 智也の戦いを悲痛な表情で見ていた一方で、何気なく、自分でできるだけのことはしていたのだった。


 優子はがらりと教室の扉を開け、自分のロッカーに駆け寄る。幸い、教室の中には敵は一体もいなかった。

 優子はロッカーの中のポーチの中から、自分の武器を引っ張り出す。そしてそれを右手に巻き付け、背中には針が突き刺さった。


「…………えっ」


 優子は全身を鈍く冷たい感覚が通り抜けるのを感じながら、振り返る――その左目に、ちょうど狙いすましたかのようにもう一本の針が命中した。


「っ!ああぁっ!!?}


 優子はロッカーに背中をぶつけ、そのままずるずると床に崩れ落ちる。当然、ぶつかった拍子に背中の針は体内に深く入り込んだ。


「覚えていマスカ?最初に私たちがアナタ様を攻撃シタのも、ちょうどこの窓からでシタネ。」

 窓から醜いツギハギ顔がぬうっと突き出すが、彼の声は優子には聞こえていない。

「今日はあのお守りの残りを、二つとも使ってしまわれたのですネ。手荷物検査の結果は毎日聞き取っておりましたし、あれが最後であるとわかっておりマシタヨ。ゲッゲッゲッ……。」

 彼は窮屈そうに窓から足を踏み出し、教室の中にその巨体を落下させる。そして机を弾き飛ばしながら、こちらに向かってどたどたと近づいてくる……。


 だが、優子の意識はもう、彼らが作った夢の中に落ちていくところだった。

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