1 パート1
次の日、香織の様子がおかしいことには多分彼氏になってなくても気づけたと思う。明らかにテンションが低い。
昨晩の雷は幸いにも近くまで来なかったのでそれほど怖くなかったはずだが、雨の量は凄まじく、俺でもちょっと怖いくらいだった。もしかしたらそれが原因かもしれない、というのが俺の考えの一割程度。
(絶対あの人のせいだろ……)
昨日の香織の家に入って行ったお母さんの車の助手席には人影があり、それを見た途端に香織は「うわ」と声を漏らした。それから見せた不安そうな、残念そうな表情に、俺は香織の祖母が帰ってきたのだと直感した。流石にそれが分からないほど適当に幼馴染してきたわけじゃない。
「では、一ノ瀬さん、前に出てこの問題を解いてもらえますか?」
黒板に数式を書き終えた先生が手を伸ばして香織にチョークを渡そうとする。
「……」
しかし、返事がない。
ざわつき始める教室で、遠くから拓真だけが俺を見ていた。
香織が先生を無視する場面なんて珍しいどころの話ではない。ずっと一緒にいた俺ですら初めて見る。
『一ノ瀬さんどうしたの?』
『分かんない』
拓真と視線でそんなやりとりをする。
祖母が原因ってところまでは間違っていないはず。幼馴染として結構自信もある。
だが、祖母が来たからって香織の様子がここまでおかしくなるのは本当に初めてのことだった。雷との相乗効果……かもしれないが、だったら今朝会った時点で雷が怖かった話をしてくれそうなものだし、昨日の時点でメールをくれてもおかしくない。
しかし、実際に今朝交わした会話は、
『ごめん、今日はお母さんに作ってもらった』
『全然いいよ。むしろいつもありがとう。……香織、なんか目腫れてない?」
『え、うそ…………ごめん、先行ってて』
『いや、待ってるよ』
『……ううん、先行ってて。お願い』
という感じ。結局俺は久しぶりに一人で登校し、しばらくして教室にやってきた香織は薄ーく化粧をしているようだった。元が美しいので生徒も先生も気づいている様子はないが、十年以上一緒に過ごしてきた俺には明らかだった。
思い返してみても、やっぱりおかしいよな。
別に自惚れている訳じゃなく、毎朝の登校を香織は楽しみにしてくれていた気がするのに、「先行ってて」なんて初めて言われた。
(うーん……祖母関連でなんかあったとしか思えないんだよなぁ)
しかもすぐに俺には話せないような内容なんだろう。
「一ノ瀬さん?」
「……? あっ、すみません」
先生に頭を下げてから首の角度がわずかに変わり、黒板を二秒ほど見つめた香織が立ち上がる。状況から、黒板に書かれた問題を解くよう言われたのだと推測したらしい。
先生からチョークを受け取り、見たばかりの問題をスラスラと解いた香織が席に戻る。
「ありがとうございました。さすがですね」
先生からの褒め言葉にお辞儀だけを返す香織。
それも普段より角度が浅かった。
しばらくして、終了のチャイムが鳴った。
『オレはいいから二人で食べて来いよ』
遠くの席で拓真が顎をふいっと香織に向けたのは、おそらくそんな意味だろう。
ありがとうを込めて頷き、今朝受け取ったお弁当を持って香織のそばへ行く。
「一緒に食べよ」
昨日もこうして誘ったので今日は周りから過剰に視線を向けられることもなかった。
まあ、幼馴染なのにそういう関係じゃないっていうのは結構知られていることでもあるし、嫉妬の目が少ないのはありがたいのだが、もうそういう関係なのでいつか知られた日にはどう説明したものか……。
いや、今はそれどころじゃないな。
「……っ。ごめん、今日は一人で食べたい気分なんだ」
俺の顔を見た瞬間、香織は唇を噛む仕草。頬まで動かして目を細め、いつも通り笑おうとして失敗した、そんな口角の震え。
これは……。
「俺──」
言おうとして
三日前、立場が逆で同じようなことがあったなとデジャヴを感じたのだ。
『斗真が今悩んでることって、私には話しづらい?』
そう言われた俺は、香織を思う気持ちと自分の本当の気持ちとの間で揺れ動き、無意識に泣いてしまった。あの時は香織と二人きりだったから良かったものの、今は学校だ。
あの祖母と何があったのかは分からないが、俺に言いにくいことなのはほぼ確実。そうすると以前の俺と同じような思いを抱えている可能性だってある。
昼食を自由な場所でとれるこの学校は、お昼休みに完全に二人きりになることはかなり難しい。屋上は昨日みたいに時間が経てば空くかもしれないが、校内では誰かに聞かれる可能性をゼロだとは言い切れない。同じ二人きりの状況でも、学校と家とじゃ安心感が別物だろう。
(そのくらい気を遣えよ俺)
「分かった。じゃあ俺は拓真と屋上で食べてるから、気が向いたらいつでも来てよ」
「うん……ごめんね」
「いいよ。そういう日もあるだろうからさ。気にしないで」
「うん、ありがとう。…………やっぱり私、」
何かを言いかけて、ふと気づいたように目を拭う。
「香織?」
「ううん、何でもない。今日のお弁当も美味しかったら教えてね」
「今日はお母さんに作ってもらったんじゃなかったっけ?」
「……そうだった。あはは、もうすっかり癖になっちゃってて。ごめんね」
「全然いいよ。じゃあ俺行くね」
「うん。いってらっしゃい」
手を振って見送ってくれる香織。
その寂しそうな笑顔を見て、嫌な過去を思い出す。
『一口だけでいいから、食べて』
『…………ん』
両親を失ったばかりの頃。
俺がパンを食べたりお風呂に入ったりするたびに見せてくれたのと同じ笑い方をする香織に背を向けて、俺は大きく息を吸う。
「拓真、屋上行くぞ」
真顔で呼ぶと、「おう」とこれまた真剣な声音の返事が返ってきた。
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