香織にはまだ早い


『次の膝枕は中間テストの後までお預けだよ』


 ふとももの上で目を覚ました俺に、香織は嬉しそうな声でそう言った。


 嘘でしょ。

 毎日でもして欲しかったのに。

 そんな気持ちは、ご飯のお世話をしてもらってるだけでもありがたいのに生意気だと心の中の俺がなんとか押しとどめてくれた。


 でも、ちょっとくらい寂しく思うのは許して欲しい。


 だって本当に久しぶりの膝枕だったのだ。


 最後に母さんにしてもらったのがいつだったか、もう正確に思い出すこともできない。



 圧倒的な安心感。


 あんなの一度味わってしまったら、使い馴染んでいる枕でも物足りなく感じてしまう。流石にそれは大袈裟かもしれないが、心の底から信頼している香織の膝の上という安心感はどんな枕にだって生み出せやしないので、過度な誇張というわけでもない。


 安心感の主な要因はおそらく匂い。変な言い方になるが、匂いっていうのは何も香織本体から出ているだけじゃない。


 膝枕は仰向けにならない限りどうやっても鼻と衣服の距離が近くなるので、あの場では香織が着ていたワンピースの匂いが一番強く感じられた。もちろん色目無しに香織もすげえいい匂いするんだけど。


 衣服の匂いと人の匂いは安心感が違う。少なくとも今の俺はそう思ってる。


『今度は今回のとは少し違う膝枕してあげるね』


 付け加えるように香織は言ったが、違う膝枕ってなんだろう?

 まあ、その時になれば分かることなので深くは考えないことにする。


「……普通に楽しみなんだよなぁ」


「なにが?」


 テーブルの対面に座る香織が教科書から顔を上げて聞いてきた。

 学校が終わってすぐに帰宅した俺たちは、夕飯にはまだ早いということで一緒に勉強中。平均に届かないような点数で香織に膝枕してもらうわけにはいかないので、俺のやる気も湧いてくるというものだ。


 しかし、口に出るほど楽しみにしてるってなかなかヤバいな俺。

 どうやら胃袋だけじゃなく、後頭部と側頭部も香織に掴まれてしまったらしい。当然、暴力的な意味はない。


「今度してくれるっていう膝枕」


 本人に隠してもしょうがないので素直に白状すると、香織は蕩けるような笑顔を向けてきた。空気が数段階か甘くなる。


「ふふっ、私の新品のふともも、気に入ってくれたみたいで安心した」


「新品って。でも、うん……めっちゃ気に入った」


「なら良かった」


 さらに顔を蕩けさせる香織に、俺まで幸せが伝播してくる。

 学校では見ることができないとろんとした笑顔を俺に向けてくれていると思うと、最近はどうにも直視していられなくなるので困ったものだ。


 逃げ場を求めて教科書に視線を落とす。幸い香織も同じようにしてくれたみたいで、不思議がられることなく沈黙が過ぎていく。



 お母さんが認めてくれていることもあり、香織は最近毎日俺の家に来てくれる。

 今までは祖母がいない日でも俺の家にくる日と来ない日、つまり香織が自分のお母さんとご飯を食べる日がまばらにあったのだが、最近は学校が終われば俺の家に来て、夜九時前後まで俺と一緒に過ごしてくれるのだ。香織曰く、


「朝ごはんは毎日一緒に食べてるから」


だそう。それでもお母さん的には娘と一緒に夕飯も食べたいんじゃないかな、と思って直接本人に「三人で食べませんか?」と聞いてみたら、


「邪魔しちゃ悪いから遠慮しておくわ。でも、ありがとうね斗真くん」


と言われたので俺からはそれ以上なにも言っていない。今までも三人で食べることはそれなりにあったし、邪魔なんてことは全くないんだけどな。


「……よし」


 時計の短針が三十度ほど回転したところで、俺は声を上げて立ち上がった。

 今日は香織にしたいことがある。

 夕飯の準備もあるので長時間は無理だけど、そのくらいの方がいいと思っての時間調整だ。


「香織、ちょっとおいで」


「ん? どうしたの?」


 俺がプレゼントしたネックレスを胸の前で輝かせながら、香織が俺のいるソファの方へ近づいてくる。こうして実際に使ってもらえてると、あげた側としても嬉しかったりする。


 さて。


 目の前までやってきた香織は学校の制服ではなく、カジュアルな白のシャツに薄い紺色のカーディガン、そしてベージュのデニムという格好。ストレートの黒髪と相まって、馴れてない人が見たら天使とでも形容しそうな美しさだ。水色のクローバーもよく似合っている。


「香織にしてもらう膝枕はテストの後までお預けだけど、俺が香織にする分にはいいでしょ?」


「え、」


「え?」


「だ、ダメだよ。今日は学校で体育もあったし、私まだお風呂入ってない。変な匂いとかするかも」


 香織に限ってそれはないと思うが、気にしてるようなので俺は彼女の首元に顔を近づけた。

 すーっと、軽く息を吸ってみる。


「ちょっ……うそ」


「全然大丈夫。変な匂いどころか、いつも通りいい匂いする」


 シャンプーとは少し違うほのかな甘い香り。


「……ぅ、そ、そういうの、私以外にしたら変態だと思われるよ」


「する気も無ければする相手もいないから大丈夫」


 幼馴染である香織とならお互いに嫌がらないと分かっているからこそできること。それに、気心の知れない相手の匂いを間近で嗅ごうとするほど俺は変態じゃない。


「相手は、その気になったらすぐ出来ちゃうよ、斗真なら」


「なんか前に拓真にも同じようなこと言われたなそれ。自分で言うのもなんだけど、俺ってそんな美形じゃなくない?」


「ううん、美形だよ。前髪伸ばしてるから自分じゃ分かりづらいのかもね」


 そう言って香織が俺の前髪を持ち上げた。

 いつもより開けた視界に、香織の大人っぽさの混じりつつある童顔がよく映る。


「……ほら、かっこいい」


「俺には可愛い幼馴染の顔しか見えないんだけど」


「……か、」


 かっこいいのお礼に可愛いと言えば、香織は照れたように手を離した。褒め言葉は誰に言われても嬉しいものだからな。


 というか、こんなことしてる場合じゃないんだった。


「それで、匂いの問題は全くないんだけど、いい?」


「……うん」


 嬉しいというよりダメじゃないって様子だが、今日は香織に頑張ってもらおう。


 目的は、「してる側」の気持ちを知ること。

 香織は多分、俺が求めていたからまた膝枕をしてくれると言ってくれた。でももし相手の頭を重く感じたり、太ももが痺れたり、不快な要素を我慢させているのなら無理強いはしたくない。

 その判断をするには俺が誰かを膝枕してみるしかないのだが、拓真に頼むのは気持ち悪いし、まさか香織のお母さんに頼むわけにもいかないので香織本人にお願いするしかなかった。なお、俺の友達は少数精鋭である。


 香織と並んでソファに座る。

 さっきから緊張しているのか、香織の動きがぎこちない。俺もきっと香織がいきなり膝に倒してくれなかったら緊張していたと思うので気持ちは分かる。


「わっ」


 そして気持ちが分かるので、俺は香織の肩を抱くようにして自分の太ももに倒した。ネックレスはシャツの中に仕舞われている。


「どう? 新品の太ももの感触は」


 誰かの真似をして聞いてみる。


「よく、分かんない」


「そっか」


「……けど、すごくドキドキする」


 香織の場合は安心感よりも緊張感が優ったようだ。

 いくら幼馴染として俺に馴れているといっても、膝枕は初めてなので無理もないだろう。

 もともと香織は、「する」のは得意でも「される」のは苦手だったりするし。料理の手伝いなんかも繰り返し言ってようやくやらせてくれたくらいだ。


 側頭部の髪を優しく撫でてやる。


「な、なるべく耳は避けてほしいかも。今はすっごくくすぐったいから」


「りょーかい」


 ドキドキ、ドキドキ。

 そんな鼓動が伝わってくる気がする。


 やってみた感じ数分で脚が痺れることは無さそうだけど、何時間も寝るのはやめておこう。


「なんか、してる側もいいなこれ」


 相手が大切な人だと尚更、ずっと自分のそばにいてくれる気がして安心感に似た心地良さがある。


「される側は、私にはまだ向いてないかも」


「そっか。まあ、もしまたされたくなったらいつでも言ってくれれば」


 香織以外に膝を貸す予定は今のところ生涯入っていないので、言ってくれればいつでもしてあげられる。

 膝枕に対しても「まだ」と言ってしまうあたり、向上心が強い香織らしくて思わず口角が上がってしまう。


「ひゃっ」


「あ、ごめん」


 笑いながら髪を撫でていたせいか指先が香織の耳に触れてしまい、彼女の身体が小さく跳ねた。


「だ、大丈夫」


 そう言ってくれた香織の耳は真っ赤に染まっていたので、今夜はアイスでも食べさせてあげようと密かに決意する。



(初めて聞いた……)



 微かに色っぽくもあった小さな叫び声は、どういうわけかしばらく俺の耳に残り続けた。

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