第20話 だから私は今に酔う


 はたしてどれくらいの時間が経っただろう。

 三分か、五分か。いいや、体感ではもっと短かった。


 次々に形を変える一升瓶は元からそういうものなのか、あるいは半美さんのスキルによる賜物なのかは分からない。しかし、突如現れた魔物の群れが、半美さんの千変万化極まりない戦いぶりによって駆逐されてしまったのは紛れもない事実だった。


 でたらめ、常識外れ――圧巻という他ない光景が、脳裏につたない単語をよぎらせる。

 あれ、どこまで話したんだっけ。ああそうそう、元の世界に戻る方法ね。互いに無事を確認し合い、再びお墓の前に集まってからくだんの話は再開された。


「元の世界に戻る方法を教えられない、もういっこの理由。たぶんだけど、私はその方法でしてるから」


 開口一番、不穏な単語が飛び出した。


「失敗って……?」

「帰れたっちゃあ帰れたんだけどね。でも不規則に、こっちの世界に来たり、あっちの世界に戻ったり……その繰り返しが今まで続いてる。まるで自分の体質が変わっちゃったみたいでさ、瑠稀ちゃんももう気付いてたりするんじゃない?」


 半美さんの問いかけに私は遠慮なくうなずいた。


 おとといはバオムさんの店先で、昨日は私たちのカフェで。半美さんは唐突に、かつ不自然な形で姿を消している。元の世界であった出来事を話すときの語り口が妙に生々しかったのもある意味では決定的だった。お酒に酔った人の虚言にしては、実感が伴いすぎている。


 体調は平気なのだろうか。バイトをクビになったと冗談めかして言っていたけれど、もしかしたら身の回りの事もままなっていないのでは。

 浮かび上がった懸念が、口をついて出てしまう。


「体調とか、大丈夫なんですか? 身の回りのこととか……」

「えっ、急に母親みたいなこと言い出すね瑠稀ちゃん……まあいいけど」


 半美さんはひと口お酒を流し込み、


「こっちに来ればお酒これがあるからどこでも酔えるし、ラッキーな事に博才ばくさいもあるからね。あたしは」

「博、才……?」

「大雑把に言うと賭け事の才能ってこと。競馬に競艇、あとは麻雀もやって稼いでたかな。そもそもあたしが頑張れてた理由は――」


 紫陽花あじさいのように淡い紫色の瞳と視線が重なる。


「ひひっ。瑠稀ちゃんのライブに救われてたから、かな」


 つい、忘れそうになっていた。

 半美さんはアイドルだった頃の、私のファンである事を。


 話に耳を傾ければ、TOTを知ってくれたのは大学四年生の就活をしていた時期。度重なる面接と不採用通知に疲れ果て、ふらりと立ち寄ったライブハウスで偶然私を見つけてくれたらしい。そこまで聞いて、ひとつの予感に行き当たった。


「もしかして、その頃は今と雰囲気違いました?」

「んん? ああ、そりゃもう全然!」半美さんは豪快に笑い飛ばすと、「就活してた時は髪も黒くて短かったし、スーツ着てることの方が多かったからね。似合わない黒縁の眼鏡までかけて……それになにより暗かったし」


 暗かったとは自身の性格を指しているのだろう。同時に私は半美さんに見覚えがなかった理由に納得してしまう。


 記憶にある半美さんであろう女の人と、今の半美さんのイメージがひどくかけ離れていたせいだ。しかし考えてみればなるほど、髪をピンク色に染め、お酒の匂いまで漂わせて就活に臨む人など常識的に考えているはずがない。


 頭の中で情報を咀嚼そしゃくしていると、


「最初はさ、単純に見た目が好きだったんだよね」


 誰の、とまで問う必要はなかった。半美さんの目を見れば、瞳に映っているのは私しかいない。


「でも、だんだんと……ステージでパフォーマンスする姿を眺めてたら目が離せなくなって、この子の事、もっと応援したいなって思い始めて。気付いたらほぼ週一で通ってたよね」

「……ありがとう、ございました」


 わずかな迷いが距離感を狂わせる。言葉を、過去形にしてしまう。


「純粋にそう思ってもらえたなら嬉しいです。……沈んでた時期もあったので」

「……まあ色々あるよね。卒業って聞いた時はびっくりしたけど、またこうして会えるなんて思わなかった。お礼も伝えられた――しっ!」


 ぐっと伸びをして半美さんが息を吐きだす。瞬間、どうしてだろう。草原くさはらを撫でる風のそよめきが、不意に胸騒ぎを運んでくる。


 二度ある事は三度ある。半美さんはきっと三度目も――そう思えばこそ、唇は無意識のうちに動いていた。


「まっすぐに感想伝えてもらったことって、活動後半はそんなになくて……でも半美さんみたいに、一途な人がいるって事も知ってました。だから」私は淡い微笑みをたたえながら、「……異世界こっちでも会えて、私も嬉しかったです」


 偶然か、必然か。

 勝手な推測になるけれど、異世界に転移するという突拍子もない出来事がなければ、元の世界で私たちが巡り合う事はまずなかったように思う。


 世界は私たちが想像するよりも広く、狭い。今自分が立っている世界の事を考えれば、それは文字通りの意味にさえ捉えられる。

 今度帰ってきた時は、酔ってない状態でカフェまで遊びに来てください。私の言葉に機嫌よく頷くと、半美さんの視線はお墓に向けられた。


「友達は……その身を犠牲にする方法を選んでまで、あたしを元の世界に帰してくれた。で、さっき失敗だとか言っちゃったけど、あたしは全然そう思ってないんだよね。これはこれで楽しいし、友達の行いだって無為むいにしたくない」


 だから、と言って面持ちに浮かぶからりとした笑みは、その胸の内を如実にょじつに映し出していた。


「たまに酔ってるけど、ぜんぶ忘れず生きてるよ。またね――」


 瑠稀ちゃん、と聞こえたような気がして、すぐにそれは気のせいだと思い知る。強く吹いた風が耳を惑わし、強引にまぶたを下ろさせる。


 はたして次に目を開けた時、目の前にいた人の姿は舞い上がる木の葉とともに消えていた。跡形もなく、まるで最初からそこにいなかったかのように。しかし、風が運んでくるお酒と香水の残り香だけが、その存在を強く胸に訴えかけてくる。


「……”常に”の間違いじゃないんですか。たまにじゃなくて」


 やはり猫のような人だった。かすかに湧き起こる寂しささえも、再会の期待を前に薄れていく。


 いなくなる時が突然ならば、次に出会う時もきっと――


「……ん?」


 突、然――?


「あ……!」


 何気なくポケットに手を差し込むと、頭の片隅にこびり付いていたうすらぼんやりした違和感の正体がわかってしまった。手に掴んだのは一枚の紙切れ、半美さんが注文したものをまとめたメモだった。


「最悪……もう噓でしょ」


 どうして渡し忘れてしまったんだろう。スマホを渡した時点で中途半端に安心してしまったのがいけなかった。


 別れの余韻よいんがやるせなさで上書きされていく。メモを渡すべき相手はもういない。風に飛ばされそうな軽い感触がいっそうむなしさを助長し、肩を重くさせる。やはり今頃は元の世界だろうか。


 考えていても仕方ない。どうにか割り切った私はお墓の前まで足を運び、半美さんがしていたのと同じように膝をつき、合掌する。


 知ってる人の、知らない人のお墓――けれどよくよく考えれば、私と半美さんを繋いでくれたのはこの人と言えるのかもしれない。であるならば、面識はなくともせめていたむ事ぐらいはしたかった。


「……行かなきゃ」


 異世界に転移してはや数日。にも関わらず、日々の過ぎゆく速度はめまぐるしく、一日一日が色濃く記憶に刻まれている。今日という日も、きっとそうなるのだろう。

 街に向かい歩き出せば、春風のように涼しげな風が髪を優しく撫でていく。


 帰ろう、みんなのところに。

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