ティアドロップ;オンステージ

だいこん

第1章 深海発、異世界行き

第1話 海の底の涙


『次にお送りする曲は先週メジャーデビューを果たしたライブアイドルユニット、トレース・オブ・ティアーズから”楽涙らくるい”――』


 ちょうどコンビニを出るタイミングだった。

 曲のイントロが流れ出した瞬間、足が止まる。そのせいで、私は自分の後ろを歩いていた女の人にも気付かず、ぶつかりそうになってしまった。


 一言謝ってからコンビニを出ると、街灯の心許こころもとない明かりが夜道を照らしていた。夜の散歩の、いつもの帰り道だ。


「……メジャーデビュー、したんだ」


 誰に宛てるでもない呟きが夜闇に溶けて、消えていく。家に帰るまでの道すがら、ふと脳裏によみがえったのは数ヶ月前までの私だった。


 私――氷見坂瑠稀ひみさかるきは、元アイドルだ。


 ライブアイドルユニット、”トレース・オブ・ティアーズ”。ファンからの通称はアルファベットの頭文字をとって”TOT"。一週間前、メジャーデビューを果たしたそのユニットこそが、かつての私の居場所だった。思い出ももちろんある。


 初めてライブをした時の高揚感、観に来てくれた人から伝えられる生の感想。

 私を含めた四人のメンバーと過ごす、何気なくも楽しかった日常――ならどうして、今の私はそこにいないのか。理由は単純だった。


 卒業したからだ。

 私一人では、どうにもできない事情によって。


「……ただいま」


 家に着き、自分の部屋に戻ると時刻は深夜一時を回っていた。お母さんもお父さんも寝ている時刻なので、おかえりの声は当然聞こえない。


 代わりに聞こえたのは、いや、脳内に反響したのは、思い出の中にある声だった。


『――ねえ、アイドルやらない!?』


 本来、マネージャーが言うべきであろう言葉をぶつけてきたのが森嶋陽乃もりしまはるの。私とほぼ同時期にスカウトされた、高校生で同い年の女の子だ。


 陽乃は突出して凄いパフォーマンスができるわけじゃない。けれど不思議と目が離せない、自然と目で追ってしまう魅力の持ち主だった。さらには爛漫な笑顔と人懐っこい性格との相乗効果で、日を追うごとに新たなファンを獲得していく。


 カリスマ、天性の才能――ファンやスタッフの人達がそうささやく横で、しかし、私自身は陽乃との大きな差を感じていた。


『あっ……瑠稀、ちゃん、さん。握手いいですか……?』

『あ、はい。どうぞ』

『『………………』』


 数秒にわたる沈黙。反対側から聞こえてくる熱っぽい、やけにしめった吐息。

 時折、投げかけられる質問はうまく返すのが難しいものばかりで。向けられる視線が私のどこに向けられているのか、想像するのが嫌になった事もある。


『ありがとうございましたっ! ……わあっ、嬉しい! また来てくれたんですね! この間見せてくれたワンちゃんの画像、すっごい可愛くて――』


 隣から聞こえる声の明るさが、見えるファンの人柄が。光と闇のように私と陽乃の差を浮き彫りにする。


『――ひみひみがこう、髪を結ぶ時の仕草。切り抜きで欲しいんですけど。あ、ユニットの動画チャンネルに上げてくれれば助かりますので、はい』

『……そういうのはマネージャーかスタッフの人にお願いします』


 無愛想かつ塩対応のファンサービス。

 上手に笑顔が作れなくなった私。


 その末に出来上がったのが、TOTでの氷見坂瑠稀と私のファンだった。


『あはは……なんか、大変なことになっちゃったね。もうメンバーなのに』


 それでも私はアイドルを続けていた。

 あの日、あんな出来事が起こるまでは。


「ん……?」


 記憶の海を漂わせていた意識を引き戻したのは、スマホの通知音だった。


 気付けば時間は深夜二時、となるとメールの可能性は低い。友達からメッセージが送られたのか、あるいはSNSのアカウント宛てに――


「……なに、これ」


 はたしてその予感は、私のイメージから少し外れたところで的中した。


 SNSのグループチャット用アカウントに送られていたのはQRコードのような、しかし絵のようにも見える独特な記号だった。加えてノイズのようなものが走っており、送り主のアイコンにも同様の乱れが見受けられる。


『――ようこそ』


 思わず体が飛び跳ねそうになった。

 脈絡みゃくらくのない単語が、謎の記号とその送り主を薄気味悪く際立たせる。瞬間、


「っ……!? 嘘、なにこれ――」


 視界がかすむほどの強烈な眠気が、私の意識を、甘い、闇の中へと引きずり込んだ。





 浮上する意識に従ってまぶたを持ち上げると、真上から注ぐ陽射しが私の目を差した。輪郭に沿って流れる横髪に、右半身に感じる硬い感触。


 感覚を確かめるように体を起こすと、そこで私は目を疑った。


 横になっていたベッドは木製のベンチに変わり、それどころか今いる場所は見慣れない店が建ち並ぶ、小道のような場所に変わっている。私がいたのは自分の部屋だった筈なのに、なんで――?


「……噓でしょ。どこなの、ここ……?」


 立ち上がって、正面にある喫茶店らしきお店の前に立つ。窓ガラスに映った自分の姿を見ると、夜の散歩から帰ってきたままの装いが映っていた。


 花冠を斜めに被る猫が描かれたプリントシャツに黒のジップパーカー、下ろし切ったジッパーの間からはちょうど猫が顔を覗かせている。


 ボトムスはレザーのショートパンツで――どうしてか今の私は、お気に入りである編み上げのロングブーツまで履いていた。丸いつま先をとりあえず整えつつ、部屋の中にいた私がどうしてこれを履いているのかはまったく分からない。


 自分の身なりを確認していくと、ふとある部分が目についてしまった。


「あ、前髪……」


 横になって寝ていたせいだろう。軽く頭を振ってから前髪を整え、両手の甲で後ろ髪を持ち上げれば腰まで伸びた黒髪が軽やかに背中を撫でていく。


 陽の光を反射してつやめき、風を切ってなびいた拍子に香るシャンプーの香りが少しだけ気持ちを落ち着けてくれた。

 そうして垂れ下がった横髪を右耳にかけ直し、正面に向き直ると、


「じーっ……」

「わっ……!?」


 いったい、いつから見ていたのか。

 ガラス越しに私をのぞき込んでいた女の子と視線が重なった。


「――ねえねえ! アオイ、サジ! お店の前に人来てた! お客さんかなぁ?」


 店の奥へ声を飛ばすと、その子はドアを開けて私と対面する。小柄な背格好に和柄のゴスロリ服を身に纏い、ほどなくして二人分の人影が女の子の後ろから現れた。


「……落ち着きなよメロ、戸惑ってるだろ」

「むむっ? その装い……もしやワイと同じ、”転移者”の方ですかな?」

「え……? いや、っていうか誰……ですか?」


 状況についていけていないのが自分でも分かる。淡雪のように白く、透明な髪をたたえた男の子の言う通り、今の私は戸惑いを隠せなかった。


 その子は中性的な雰囲気の持ち主で声は若干気だるげ、一方であまり耳慣れない喋り方をする女の子は私と同じ、現代的な装いに身を包んでいた。

 顎に手を当てて考えるような素振そぶりを見せると、その女の子は私の方を見て、


「とりあえず、まずは話を聞くところからですな。中へどうぞ。立ち話も疲れるでしょうし」

「それはありがたいん……ですけど」一瞬、敬語を使うか迷ってしまい、「あの、でも私――って!?」


 するといつの間に回り込んだのか、ゴスロリ服に身を包んだ女の子が私の背中をぐいぐいと押し込んできた。


「すごっ!? 髪長いし、ツヤツヤサラサラでいい匂いする~♪ あ、好きなトコ座っていいよ~。メロがお茶淹れたげるから!」

「あ、歩けるから、押さないでっ……!」

「……おれは食べれるもの作ってくる。葵さんは話聞いてあげたら?」

「ワイは元よりそのつもりですぞ。サジ殿」


 混乱した頭の中とは裏腹に、耳に飛び込んできたドアベルの音はひどくのどかなものに感じられる。


 私はいったい、どうなってしまうんだろう。

 どこまでも客観的な感想が脳裏をよぎったのは、今、自分の身に起こっている出来事を他人事として捉えているせいかもしれない。


 息をつく暇もなく、私はただ、流されるまま店の中へと連れ込まれた。

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