怪奇幻想短編『旧・電波塔』

真瀬 庵

旧・電波塔

 夏を迎える頃、私は新卒で入った会社を辞め、田舎の一軒家に引っ越した。

 二十代半ばにして、終わりの無い激務に嫌気が差したのだ。心身共に窶れ、ビル風の叫ぶような音が、電車の通過音が、人々の雑踏が、私を責め立てるようになった。全てから逃げ出したかった。

 鬱病の診断が下ったのとほぼ同時に、父の訃報が入った。

 私の物心がつく頃にはすでに両親は離婚しており、父と何かをしたような記憶は無い。それが死んだと言われても、実感は湧かなかった。

 子供は私一人だったため、父が暮らしていた一軒家の相続の話が回ってきた。叔父を名乗る人物に住所を聞くと、北海道沿岸の太平洋に面した寒村とのことだった。

 既に退職届を提出し、旅でもしようかと考えていたところだったため、これ幸いと引っ越しを決めた。

 七月末には社宅のアパートを引き払い、一軒家に移った。

 亡くなる直前まで父が暮らしていたという話だったが、家の中はがらんとし、家財道具は一切残されていなかった。おそらく、家を売りに出そうと考えた叔父が処分していたのだろう。おかげで引っ越しはスムーズに進んだし、なにより、死んだ人間の生活の痕跡を見ずに済んだ。

 田舎での生活は、擦り切れた私にとっては快適そのものだった。

 明朝に昆布漁の開始を知らせる町内放送に叩き起こされることはあったが(こんな過疎集落に漁業組合が残っていることに驚いた)、それ以外は、よく言われる余所者に対する好奇の目どころか、そもそも住民を見かけることすら稀であった為、距離の近い共同体の煩わしさに悩まされることも無かった。

 また、家から望む太平洋の景色には心が洗われた。

 家の前の海岸は小さな湾のようになっており、左手側から半島が伸びていた。右手側には雄大な太平洋が広がっているから、この家があるのは湾の右端、つまり西側にあたる。半島の先端にはトンネルの入り口が視認できた。私の家の横を通る旧国道は湾に沿って走り、半島を抜けるそのトンネルに差し掛かる。トンネルの向こうには、ここと似たような小さな集落が点在しており、バスで二時間ほど進むと、ようやく市街と呼べるところに辿り着く。

 近所には品揃えの悪い個人商店しかなかったため、食料の買い出しは週に一度、バスに乗ってその市街に出ることにしていた。

 買い物以外では、あまり外出はしなかった。人の目が少ないと言っても、こんな何も無い町を歩くだけで注目の的にはなってしまう。

 私は日がな一日読書をし、それに飽きたら、湾に広がる広大な海を眺めていた。陽光を反射する宝玉のような海面と、海鳥の鳴き声、そして左手から海上へと伸びる半島の緑が、常に新鮮な感動を与えてくれた。




 九月に入ったある日の昼、いつものように、ただぼーっと海を眺めていると、どっ……どっ……という微かな重低音を感じた。大型船の汽笛だろうか。ちょうど、遙か海上にコンテナ船が浮かんでいた。だが、汽笛にしては短く、心臓の鼓動に近い。

 ……どっ……どっ……どっ……。

 一体何だろうかと思考していると、ふと、誰かに見られている感覚を覚えた。部屋の窓辺にいて、眼前は海だ。そんな”誰か“など居る訳は無いのだが……。

 しばらく視線を彷徨わせると、半島の山の上に、三本の電波塔が建っているのを発見した。

 稜線に明らかな人工物があるのに、なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 トンネルの存在や、湾に沿って点在する民家ばかりに目が行って、見逃していたのか。

 左の電波塔が一番大きく、真ん中と右はどちらも同じくらいの高さに見える。麓の民家と比較するに、一番大きい電波塔で八十メートル、低い他二つは五十メートル程だろう。

 半島に立ち、こちらを見下ろすパラボラアンテナの複眼を持った巨人たちからは、人間など何とも思っていないというような、無邪気な残虐さが感じられた。

 ――視線の正体はこの電波塔たちだったか。

 相変わらず、脈拍のような静かな重低音が響いている。

 なぜか、一番大きい電波塔に、自然と目が行ってしまう。他の二基より大きいから当然と言えばそうなのかもしれないが、しかし、本当は目を背けたいような、怖いもの見たさのような、生理的嫌悪に似た感覚もあるのだ。それなのにも拘わらず……。

 ……どっ……どっ……どっ……。

 見つめるうちに、遠近感が無くなってくる。

 電波塔と私との距離が、限りなく収縮していく。

 自己の境界が溶け、そして、吸い込まれ――。

 気付くと、部屋も景色も茜色に染まっていた。日没が迫っていた。

 一体何時間、私は立ち尽くしていたのだろうか……。




 電波塔が気になった私は、その夜、ネットで検索を試みた。

 「電波塔」のキーワードに加え、おおよその住所を入力すると、全国の鉄塔をマッピングしたサイトや、個人のブログが引っ掛かった。

 バツ印が書き込まれた地図には、背の低い二基の電波塔のみが記されていた。片方がラジオの送信に、もう片方が携帯電話の基地局に用いられていると判った。

 あの不気味な、一番背の高い電波塔については、個人ブログに記載があった。

 山に登って撮られた写真の下に、「今は使われていない旧・電波塔」という短いキャプションが付いていた。

 他にも何か言及していないかとスクロールしたが、旧・電波塔の次の写真では、隣町の展望台に場所が移っていた。

 ハイキングの様子をまとめた旅ブログのようで、それ以上の詳しい説明も無ければ、被写体を鉄塔に限定している訳でもなさそうだった。

 ということは、このブログの主は旧・電波塔について、地元の人にでも訊いたのだろうか。でなければ、旅の人が「今は使われていない」などと言えるはずがない。

 その後も深夜までネットを彷徨い続けたが、結局、旧・電波塔について言及していたのはあのブログだけであった。

 私は、悶々としながら床についた。

 瞼を閉じ、耳を澄ますと、あの、……どっ……どっ……どっ……という重低音が鳴っている。

 それは胎内を想起させ、不思議な安心感を覚えながら、私は微睡みの中に落ちていった。




 翌日も、私は旧・電波塔を眺めて過ごした。

 ……どっ……どっ……どっ……という重低音は、徐々に大きさを増しているように思われた。

 日が暮れ、楕円形に膨らんだ月が昇り、やがて朝が来ても、私は鉄の巨人を見つめ続けた。

 重低音が脳に響き、眠ろうにも眠れなかったのだ。

 東の空が曇り始め、あたりに濃密な霧が立ちこめた。遠くの景色が霞む中、あの電波塔だけは視認できた。巨人による監視は尚も続いていた。

 霧に閉ざされた海に、ぽつぽつと人影が現れた。赤や青といった原色のつなぎを着た漁師たちだ。腰の上まで海水に浸かり、片手に持つ杖のようなもので海藻を手繰っている。昆布を拾っているのだ。以前、町内放送で聞いたが、昆布漁が禁止されている時期には「拾い物」といって、漂流した昆布を集めるらしい。

 漁村ならではの光景に感慨を覚えていると、昆布拾いの一人がこちらを向いているのに気付いた。

 背筋を伸ばした状態で、私の方をじっと見つめている。

 顔は判らないが、近所に住む老人だろう。

 その直立した老人が、スッと右手を前に上げた。その人差し指が私をさしている。

 すると、周囲の漁師たちも昆布を手繰るのを止めて、上体をまっすぐに起こし、私を指さし始めた。

 それは波紋のようにじわじわと伝搬し、やがて、眼前の海にいた数十人の漁師たち全員が、直立で私を指さした。

 見つかってしまった。

 咄嗟に私はそう思った。

 電波塔を眺めている姿を見られてしまった!

 なんらやましいことなど無いはずなのに、私は焦燥感に駆られた。

 隠れるか? いや、逃げた方が良いか?

 自宅にいながら、針の筵に立たされているかのようだ。

 心臓が早鐘を打つ。

 その鼓動は、頭に響く重低音と一つになっていく。

 隠れなければ!

 部屋をぐるりと見回すが、どこに隠れても見つかってしまうような気がする。

 海に視線を戻すと、漁師たちは移動し、すぐ目の前の浜に集まってきていた。彼らの目線も指先も、常に私を捕らえている。

 まずい。一刻の猶予も無い。身体が震える。

 ……どっどっどっどっどっどっ。

 重低音、あるいは心臓の鼓動が、全身を支配し思考を奪っていく。

 そのとき、机の上の携帯電話が、不快な電子音を発しながら振動した。

『地震です。地震です。』

 鳴動に混じる、機械的な女性のアナウンス。

 次の瞬間、床が、いや地面が、ぐわりと大きく波打った。

 思わずしゃがみ込んでしまう。

 かなり強い揺れが十数秒続いた。

 立ち上がり見ると、海辺の窓の外には、もうすぐそこまで漁師たちが迫っていた。ふらふらと動きながらも、虚ろな目と指先は私を捕らえ続けている。


「来るなあっ!」


 恐怖に竦む己を奮い立たせ、威嚇するように声を張り上げた。

 漁師たちは怯んだ様子も無く、我が家ににじり寄ってくる。

 ピンポーン、ピンポーン。

 そのとき、インターフォンの間の抜けた音が鳴った。

 玄関に回り込まれたか?

 玄関は、海とは反対の旧国道側に面している。あいつらが鳴らしたのだとしたら、すでに家は包囲されていることになる。


「駐在の斉藤ですー。叫んでたみたいですけど、大丈夫ですかー」


 警察だ! 助かった!

 私は玄関の戸を開け、警察官の制服を着た斉藤と名乗る赤い丸顔の男に、不審な漁師たちのことを早口で捲し立てた。

 はあ、と要領を得ない様子の斉藤を家に招き入れ、窓辺に連れて行く。

 しかし、すぐ近くに居たはずの漁師たちの姿は消えていた。


「いやあ、見間違いじゃないですかねえ。そもそも、今日はお祭りなんで、拾い物も含めて漁は全面的に禁止なんですよ」


 では、さっき見た漁師たちは一体なんだったのか。寝不足が祟り、幻覚でも見ていたのだろうか。

 私は次いで、斎藤が言った祭りについて尋ねた。


「なんでも十九年ぶりとかで、私がここに赴任したのは十年前とかなんで詳しくは知らないんですけどもね。“セイネン祭”とかなんとか……。あと電波が――」

「電波塔ですか!?」


 私は思わず語気を強めた。あの不気味な旧・電波塔について、なにか聞き出したかった。

 斎藤は困ったようにこめかみを搔きながら、


「ああ、いや、祭りの一環なのか、電波を使うような物――携帯とかテレビとかは、今日は使っちゃだめみたいで。まあ、私らみたいな漁業関係じゃない人は、そんなの付き合ってられないですけども」

「東の半島に建っている、旧・電波塔はなにか関係あるんでしょうか」

「はあ。電波塔なんて、今まで気にしたことも無かったです。でも、お祭りで電波塔は使わないですよ普通」


 ははは、と斉藤は赤ら顔をほころばせると、仕事があるからと言い、玄関に向かった。


「いやいや、さっきの地震で怪我が無くて良かったです。それでは」


 斉藤が玄関の戸を開けると、霧の道路に、大勢の漁師たちが立っていた。

 正面の一人が杖のような道具を掲げると、斉藤の頭に勢いよく振り下ろした。

 うぐっ、とくぐもった声を残し、斉藤は玄関に倒れた。額からは血が滲んでいる。

 幻覚じゃ無かった! 逃げないと殺される! どこに逃げる! 戦うか? 武器は無い! 逃げよう! 玄関はだめだ!

 一瞬のうちに、思考が巡る。

 海側の窓から外に出られる!

 私は決心し、窓を開け外に転がり落ちた。靴は諦める。

 部屋には私を指さした漁師たちが侵入しており、外に転がる私を見下ろしていた。間一髪だった。

 玄関から家を回り込んで、複数の漁師たちが私を追ってきた。さっきまでと違い、動きが早い。

 体勢を整え、私は霧の中を走り出した。

 湾に沿ってあの電波塔の方に向かえば、どれだけかかるか分からないが、やがて市街地に着く。そこまで捕まらずに逃げるのだ。

 ……どっどっどっどっどっどっどっ。

 重低音は、もはや絶え間なく響いていた。まるで町中が心臓になったかのようだ。

 霧の中に、私を指さした漁師や、白い紙で顔を覆った海女(彼女らは私に興味を示す様子は無かった)が現れるたびに、私は進路を変更し、砂浜に民家の砂利にアスファルトにと、裸足のままで走り続けた。足裏の痛みなど、感じる余裕は無かった。

 気が付くと、半島の先まで私は来ていた。

 しかし、そこには隣町へと続くトンネルは無く、代わりに細い山道があるばかりだった。

 鼓動のような重低音はより大きく空気を揺らし始める。

 どこかで道を間違えたなどということは無い。アスファルトの道が急に途切れ、山へと向かう土の道に変わっているのだ。

 引き返そうかと振り向くと、濃密な霧の中に、無数の人影が、幽鬼のように蠢いていた。

 ふと、足下に冷たい痛みが走った。潮が満ちてきている。

 ――急がなければ。

 私は息を切らしながら、山道を駆け上った。

 土は柔らかくぬめっとしていて傷ついた足裏に優しかったが、同時に、なにか生物の臓器を思わせる気色悪さがあった。

 深い草木に覆われた半島という緑の巨人の胎内に、自ら呑まれていくようである。

 呼吸は辛く、次第に足も上がらなくなり、歩きかそれ以下の速度になっても、恐怖から逃れたい一心で、私は山道を登り続けた。

 傾斜が緩やかになり、広場のような場所に出た。どうやら山頂らしい。

 目の前には、あの旧・電波塔が聳えていた。鉄骨には太い血管のような筋がいくつも走り、蠢いている。四方向の地面から伸びた脚が合流する、塔の股の部分には巨大な繭とも心臓ともつかない物体が脈動していた。

 ……どっどっどっどっどっどっどっどっ。

 聞こえていた重低音の正体はこれであった。

 生命体なのか何なのか分からないが、早く逃げなくては。

 隣町に行くための下山道を探ろうと、広場の反対まで移動し、私は言葉を失った。

 見渡す全てが、海に没しているのだ。私が登ってきた山道も、もはや海の中だ。

 霧と海と、広場の旧・電波塔だけが、世界の全てであった。

 私は膝から崩れ落ちた。その姿は端から見ると、旧・電波塔に祈りを捧げる巡礼者に思えたかもしれない。

 やがて、旧・電波塔は脈動を止めた。

 塔の股にある巨大な繭は、その内部から光を放ち始め、ぶちぶちと筋繊維を断ち切るような音が響いた。

 繭の中から月のような球体が現れ、世界に、青く冷たい光を滴れた。

 ヒュォォォォォーーー。ヒュォォォォォーーー。

 風切り音に似た産声を谺させながら、その球体は天に昇っていく。霧の海を遙か超え、上空に浮かぶ満月にその輝く球体が近づくと、満月は干し葡萄のように暗く枯れ、海に墜落した。

 ヒュォォォォォーーー。ヒュォォォォォーーー。

 天空には、繭から出た輝く球体のみが残った。

 私の全身は高らかに響く産声に共鳴し、意識は原初世界に溶け落ちて……。




 私は、暗い病室のベッドの上で目覚めた。

 手足の感覚は鈍く、記憶もぼんやりとしていた。

 巡回の看護師が、私が起きたのに気づき、私は軽い検査と説明を受けた。

 北海道沿岸を巨大地震と津波が襲ってから、五日が経過していた。

 私が住んでいた、あの小さな湾の集落は壊滅状態となり、私を除く住民のほとんどが安否不明らしい。

 倒壊した家屋の木材に載った状態で沖に流されていた私を、救助隊が発見したのだそうだ。

 病室に備え付けのテレビは被災地の状況を映している。

 海辺には、渾然となった木片の山だけがあった。

 ちょうど、あの半島の部分だった。

 山の上には津波の被害を免れた三本の電波塔が立ち、麓の惨状を見下ろしている。

 病室の窓から、少し欠けた月が私を見つめていた。


                                   【了】

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