影絵童話集
霧ヶ原 悠
第1幕 呪いの姫と骨の王子
昔々というほども遠くなく、また昨日というほどにも近くないころ。
あるところに、ひとりのお姫さまがおりました。
お姫さまは森の中の小さな家にひとりで住んでいました。
なぜならお姫さまは、悪い魔女の呪いにかかっていたからです。
見つめる者を死に至らしめてしまう、恐ろしい呪いでした。
心優しいお姫さまは真っ白な布で常に目を隠し、誰も傷つけることがないようにと、森に住むことを選んだのです。
麗しい春の余韻がまだ残る、とある日のことでした。
お姫さまは風のそよぎと花の香りを楽しみながら、森の中を散歩していました。
するとどこからか、しゃらしゃらと不思議な音が聞こえてきました。
宝石が小川を流れていくような、妖精の羽から粉がこぼれるような、そんな不思議な音でした。
それがとっても素敵な音色でしたので、お姫さまは音を追って森の中をどんどん進んでいきました。
そして気がつけばいつの間にか、お姫さまは深い森の迷子になってしまっていたのです。
来た道を戻ろうとしても、視界を閉ざしたお姫様にはその跡すら見えません。
さらに悪いことに、お姫さまは張り出した木の根につまずいて、足をくじいてしまいました。
ひとりではどうすることもできず、お姫さまは途方に暮れてしまいました。
するとすぐ後ろで、草をかき分ける音がしました。
思わず体を震わせたお姫さまでしたが、なんと現れたのは若い男性でした。
どうしたのか尋ねる男性に、お姫さまは素直に全てを伝えました。
お姫さまの怪我を診た男性は、すぐに険しい声で言いました。
「これはいけない。すぐに手当てをしなければ」
そしてお姫さまを抱き上げると、力強い足取りで歩き出しました。
「私の城がすぐそこですので、お連れ致しましょう」
その声がゆっくりと穏やかだったので、お姫さまは安心して身を任せることにしました。
やがて、ギィという重たい扉が開く音がしました。
日の光が遮られたせいか、お城の中はひんやりとしていました。
小鳥たちの歌声も遠ざかり、どこか物寂しいように感じます。
ソファにお姫さまを下ろして、男性は薬を取りに行きました。
お姫さまは耳をすましてみましたが、遠くで風が鳴る音しか聞こえません。
このお城には、あの男性ひとりしかいないのでしょうか。
戻ってきた男性は、たどたどしく手当てを終えると言いました。
「もう日も暮れます。本日は我が城にお泊まりください」
そして左手でお姫さまの手を取り、その甲にそっと口づけました。
「どうかごゆっくり、おくつろぎください」
お姫さまはお礼を言おうとして、名前を知らないことに気がつきました。
「人様に名乗る名前など。そう、適当に王子とでも呼んでいただければ」
何か事情があるのかもしれません。
お姫さまはそっとうなずいて、これから男性のことを王子さまと呼ぶことにしました。
翌朝も、よく晴れた穏やかな日でした。
食事をご馳走になったお姫さまは、家へ帰ろうとしました。
ですが王子さまは、それをためらいがちに引き留めました。
「その足で一人過ごすのは、大変ではありませんか」
王子さまの言う通り、足首はまだ熱をもって、ズキズキと痛みを訴えていました。
「よろしければ、足が治るまでここで過ごされてはどうでしょう」
自分の呪いのことを思えば、お姫さまは無理にでも家に帰るべきでした。
ですが王子さまの声ににじむ寂しさを、無視することもできませんでした。
なぜならお姫さまもここを出てしまえば、ひとりぼっちだからです。
気がつけばお姫さまは、首を縦に振っていました。
ところがそれも、束の間の話。
お姫さまは自由に動けるようになるのを待っていたはずなのに、どこかそれを恨めしいとも思っていました。
足が治ってしまえば、お姫さまはこのお城にいる理由を失ってしまうからです。
曇った表情で立ち尽くすお姫さまに、王子さまは言いました。
「あと少し……そう、せめて、春の妖精たちが皆、北の空に帰ってしまうまで……」
こうして一日が数日になり、数日が数ヶ月となり、気がつけば、お姫さまがお城に来てから一年が経とうとしていました。
同じ時を過ごした王子さまを、いつしかお姫さまは心から愛するようになっていました。
ですがこの呪われた身の上では、想いを告げることなどできません。
王子様が何を好むのか、どんな顔で笑うのか。
それを見ることも叶わず、甘く切ない痛みを抱えては、毎日ため息をつくのでした。
月の雫がさらさらと夜の帳を伝い落ちてくるような、空を満たすほどの丸い月が輝くとある晩のことでした。
窓辺で憂いのため息をこぼすお姫さまは、しゃらしゃらという音を聞きました。
これは、あの日に聞いたものと同じです。
「やあ、こんばんは。いい夜だね、お姫さま」
音を探して首を巡らせていると、弾むような声で呼びかけられました。
「ボクは通りすがりの白烏さ。ねえ、お姫さま。王子さまの顔が見たいかい?」
お姫さまは驚いて、身を乗り出しました。
「安心して。ボクの言う通りにすれば、決して王子さまを傷つけたりしないから」
身じろぎする気配と一緒に、あの不思議な音があたりに響きました。
あれは、白烏の羽の音だったのでしょうか。
「だってさ、お姫さまも気になっているんじゃない? 王子さまのみ・ぎ・て♪」
楽しそうな白烏の声は、お姫さまの胸に滲んでいた寂しさに突き刺さりました。
お姫さまの手をとるときも、髪を梳くときも、王子さまはいつだって左手でした。
抱きしめることも、抱きしめてもらうことも、一度としてありませんでした。
お姫さまが触れようとしても、やんわりと拒まれてきました。
白烏の言う通り、心の片隅ではどうしてだろうと思っていたのです。
「ね、気になるでしょ? でしょ? 見たいよね? 王子さまの右側!」
飛び回る白烏の楽しそうな声に、お姫さまはためらいながらもうなずきました。
「だよねえ! じゃあ教えてあげるよ、呪われたその目で王子さまを見る方法を!」
その方法はとても簡単で、拍子抜けするようなものでした。
準備を終えたお姫さまは、さっそく王子さまに会いに行きました。
白烏はお姫さまの後ろを静かについていきました。
王子さまの部屋のドアをノックすると、いつもの優しい声が返ってきました。
ドキドキしながら目の布を外し、お姫さまはそっとドアを開けました。
「あの、王子さま……」
愛しい王子さま。
ですがお姫さまは、凍りついたようにそこで立ち竦んでしまいました。
お姫さまは見てしまったのです。
王子さまがずっと隠してきた右側を。
あらゆるものを削ぎ落とし、暗闇の中でもぼんやりと浮き上がる骨の半身を。
そしてまた、王子さまも見てしまったのです。
それを知る者にはただ死の災いあれと、呪われた魔女の力。
お姫様がずっと隠してきた瞳を。
妖しい神秘の光を宿す、お姫さまの紫玉の両目を。
「うっ、く……!」
王子さまは左手で胸を押さえ、倒れこんでしまいました。
「王子さま!? どうして……私の目は、この呪いは、浄化されたはずでは……!」
混乱して動けないお姫さまを、白烏が嗤います。
「カァーッカッカ! バカめ、バカめ! あっさりと信じやがって!」
バサバサと耳障りな羽音を立てて、白烏は宙を飛び回りました。
「月の光を満たした水はあらゆるものを浄化し、洗い流してくれるって?」
お姫さまの目の前が真っ暗になり、心臓が早鐘のように打ちつけています。
「そんなもので解けるようなら呪いとは言わねえのさ! カァーッカッカ!」
悪意に満ちた嗤い声をあげながら、白烏は去っていきました。
お姫さまはその場で崩れ落ち、大粒の涙を流しました。
どうして自分は白烏の言うことを信じてしまったのでしょう。
少しでも怪しんでいれば、王子さまは傷つかずにすんだのです。
自分の体を抱きしめて泣き叫ぶお姫さまに、声がかけられました。
「ひ、姫……。貴女も……呪いにかけられていたのですね……」
胸を締めつける苦しみの中、王子さまは必死で声を絞り出しました。
「過去の傷に触れてはならぬと……聞かずにいましたが……」
お姫さまは王子さまに背を向けると、何度も謝りました。
その小さな背中が、また愛おしくて。
王子さまはどうにか立ち上がると、お姫さまのそばまで寄りました。
そして、後ろからお姫さまをぎゅっと抱きしめたのです。
「どうか泣き止んでください、姫。私はすでに呪われた身、貴女の呪いも効きません」
「ですが、そんなにも苦しそうにしているではありませんか」
「もう大丈夫です。落ち着きましたよ」
そう言って力をこめる腕は、もう震えてはいませんでした。
ほっとしたお姫さまは、王子さまの骨の右手にそっと自分の手を添えました。
「……いえ、失礼しました。私のような異形の者には触れて欲しくありませんか」
「いいえ、そんなことはありません!」
思わず振り向いてしまったお姫さまは、慌てて前を向こうとしましたが、他でもない王子さまがそうさせませんでした。
時がそのまま止まってしまったように、二人は見つめあいました。
けれども王子さまは、もう二度と苦しそうな顔をしませんでした。
永遠にも似た短い時が過ぎて、王子さまがそっとお姫さまに尋ねました。
「……私を、恐ろしいと思いますか」
「いいえ。私は、貴方がかけてくれた優しい言葉を覚えています」
お姫さまは首を横に振りました。
また、王子さまが尋ねました。
「……でも、醜いでしょう?」
「いいえ。誰よりも気高くあろうとする貴方を、どうして醜いと思いましょう」
お姫さまは、また首を横に振りました。
そのまま瞼を伏せて、今度はお姫さまが尋ねました。
「貴方こそ、私を恐れないのですか? 嫌だと思わないのですか?」
「愛しい貴女を、そんな風に思うはずがありません」
そっとお姫さまの髪が耳にかけられ、冷たい骨の手が薔薇色の頬を撫でました。
「この澄んだ紫水晶の瞳を、私だけが見られることに、幸せを覚えるほどです」
今まで触れてくれる人なんて、ひとりもいませんでした。
話をしてくれる人も、傍にいてくれる人も、誰ひとりいませんでした。
お姫さまの目に、涙が浮かびました。
「私にとって世界は、長く薄布の向こうにありました。そこには、色も形もなかった」
「ええ、そうかもしれません。ですがこれからは、そうではないのです。呪われたもの同士、共に生きましょう」
そして二人は、口づけを交わしました。
二人のそばをしゃらしゃらと音が通り過ぎて、部屋を満たしていきました。
「ああ、森の精霊たちが歌っている。祝ってくれているのでしょう」
あの音は、悪意ある白烏の羽の音などではなかった。
導きと祝福の、森の中に住んでいる喜び歌うものたちの声だったのです。
二人は幸せな眼差しを交わし、もう一度深く、口づけたのでした。
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