第2話

「うわ…ッ」

腕をつかまれ、引き倒された。

「なんだよ、その態度?」

野田に組み敷かれた。

「これだからイイトコのお坊っちゃんは…」

「え?」

「苦労なんか何も知りませんって感じの綺麗な顔で、人に媚び売って来やがったくせに」

「は!?」

「こっちは会社のためにシャカリキに働いて、ちょっと気に入った後輩に優しくしただけじゃないか」


(気持ち悪い)

汚らわしいものでも見るような目だった。

(僕はホモじゃない)

後輩の声は震えていた。


可愛いと思っていた。

仕事を教え、フォローをして、残業の時は差し入れもして、無償で手伝った。

部の飲み会ですすめられる酒を断り切れずに飲んで、かなり酔ってしまった彼を、介抱のつもりでほんの少し、───その体に触れた。

それが、上司に訴えられ、突然、異動命令が出た。

異動先でも知られているのだろう。

みんなの視線は冷たく、常に距離をとられていた。


「ふざけんな!」

野田は佑にそう吐き出した。

「ふざけてんのはアンタだよ」

下から冷静な声が返って来た。

「え…?」

見おろすと、簡単に組み伏せられた華奢な高校生の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。

「全部、アンタが自分で決めてやったこと。テメェがやったこと人のせいにしてんじゃねぇよ」

「おまえに何がわか……」

「わかんねぇよ」

───誰だ?こいつは。

野田はそう思った。

犬と遊んでいる横顔が後輩に少し似ている、そう思ったのに……。

なんの表情もない。なんの感情もうかがえない。ただ、冷静な視線だけがまっすぐに野田をとらえている。

まるで、暗い深淵を覗き込んでしまったかのような───

その佑の口元だけがわずかに笑みの形に動き、言葉が発せられた。

「それで?俺の首、締める?それともここでアオカンでもするつもり?」

野田の身の内に言い知れぬ震えが走った。

「クソ…ッ」

野田が乱暴に佑のあごをつかんだ時、

「佑!!」

声が聞こえた。

佑の顔に表情が浮かび、野田の手をむしり取ると声のほうを見る。

つられて野田もそちらを見た。

河川敷を物凄い早さで走ってくる男の姿。

ドッグランの柵も片手をかけ簡単に飛び越えた。

そして、その人物はあっと言う間に距離を詰め、まるで野球のスライディングのように足から滑り込んで来ると、ひるんで体を起こした野田の下から、佑の体を片手で軽々とかっさらって自分のほうに引き寄せた。

「堀井?」

佑があっけに取られたような顔で、自分を後ろから抱き込む男の顔を首をねじって見上げている。

堀井と呼ばれた男は野田を真っ直ぐににらんでくる。

「あれ?堀井、来るの明日じゃ…」

佑の問いに堀井はため息をついた。

「この状況でまずその質問?」

立ち上がりながら、腕の中の佑も一緒に立たせる。佑より頭半分以上背が高く、ガッシリとした体つきをしていた。

「リキが行けってうるさかったんだ」

佑は堀井の腕を押しやるようにして体を離す。

「田上に言われたから来たんだ?」

佑の顔に不服そうな表情が浮かぶ。

「今そこ?」

「そこ」

堀井は佑の頭に手をかけ、そばに引き寄せると、

「それだけのはずないだろ、バカ」

と声をひそめて言った。

佑は上目遣いに堀井を見る。堀井はその目をとらえ、だがすぐに視線を外すと片手で髪をかき上げた。

「ぃ…でッ」

堀井が声を上げた。

佑が堀井のほおをつねった。

「俺のことバカって言った」

「だから、今……」

堀井は言いかけて、ため息をつく。

「ごめん、悪かった」

堀井の言葉に佑の顔に笑みが浮かぶ。

その佑が野田を見た。その時には、その顔にはなんの表情もない。ただ、視線だけが真っ直ぐに野田を見てくる。

野田はその目に射すくめられたように動けなかった。

「佑」

堀井の声に佑の視線がわずかに動く。

野田は一歩後ずさり、そして踵を返して走り出した。


「やっぱりヒョウかピューマだな」

堀井のつぶやきに、佑が怪訝な顔でのぞき込んできた。

「誰?あれ」

堀井は野田が走り去ったほうをあごで示した。

「最近この辺に越して来たっていう会社員。家帰って来た初日にここで知り合った」

佑の答えはそれで終わった。

「おまえ、電話じゃ何も言ってなかったよな」

堀井は毎晩、佑と電話で話をしていた。そして、必ず“おやすみ”の声を届けていた。

「あんな変な奴のことなんか、せっかくの堀井との電話で話したくないよ」

「………………」

堀井はまた髪をかき上げた。

佑はそんな堀井を見て微笑み、

「多恵子さんに俺の居場所聞いて来たの?」とたずねた。

「ああ、おそらくここだろうって」

「じゃあ、タロと一緒に遊ぼうよ」

佑は堀井の腕を引いた。

それからしばらく、二人はタロと遊んだ。

「ちょっとタイム」

息を切らしながら、佑が芝に寝転んだ。

「あー、疲れた。もうダメ」

そんな佑のすぐそばに堀井も腰をおろす。

「ねえ、堀井」

「ん?」

「さっき、凄い早さで走ってきて、柵も軽々と飛び越えてきた堀井、カッコ良かったよ」

佑は照れたような笑顔でそう言った。

「……おまえは」

堀井はかき上げた自分の髪を、その指で握りしめた。その手を佑の顔の横について、顔を近づける。

「ちょっ…、人がいる」

佑は回りを見てそう言った。

河川敷には散歩をしているのだろう人影が見えた。

「タロ、ちょっとここ座って。動くなよ」

堀井はそう言ってタロを佑の顔の横に座らせた。そして、タロの体の影に隠れて、佑にキスした。

唇を離すと、佑は目を開け堀井を見て、少し恥ずかしそうな、それでも嬉しそうな笑みをふわっと浮かべる。

堀井はその笑顔を見ただけで、泣きたくなるほど胸が締め付けられた。

「そろそろ戻ろうか」

佑の言葉に、堀井は目をしばたたかせて、その手を取って立ち上がらせた。

「どしたの?」

佑が堀井の顔をのぞき込むようにしてくる。

「なんでもない」


「いえ、明日出直します」

堀井は佑の父親の言葉にそう答えた。

佑の家のリビングである。

佑の父の祐一は、堀井に今日泊まることをすすめたのだ。

「本来、明日お伺いするお約束でしたのに、いきなりやって来てご迷惑をお掛けするわけには参りません」

堀井のしっかりとした物言いのせいか、祐一はわずかに口角を上げ、

「うちは全く構わない。どうだろう?多恵子さん」

と、ダイニングに続くドアのところに立っている家政婦の多恵子に声をかけた。

多恵子は顔をほころばせ、

「ええ、もちろんです。全く問題ございません」

と声を弾ませて答えた。

堀井は以前一度、佑のことで話をするためにこの家を訪れており、祐一はもちろん多恵子とも面識があった。

堀井は隣にすわる佑を見た。佑は堀井と目が合うとニコリと微笑んだ。

「では、お言葉に甘えて」

堀井がそう答えると、多恵子がすかさず、

「真澄さん、嫌いな物はあります?食べ物で」

と聞いてきた。

「あ、いえ…」

いきなり“真澄さん”と下の名前で呼ばれて面食らった堀井は、そう答えた。

「そうですか」

多恵子は満面の笑顔でうなずいた。

「堀井、俺の部屋で寝る?」

「え…ッ!?」

佑の問いに堀井は少し上ずった声を上げた。

「和室でもどこでも好きなところを使いなさい」

祐一は佑にむかってそう言った。

「お布団もお出ししなきゃね」

多恵子がそう言ってリビングを出て行く。

「堀井、こっち。布団、俺の部屋に運ぼう」

「あ、ああ…」

佑が堀井を促して多恵子のあとを追う。

「あ、では、お世話になります」

堀井は祐一に頭を下げ、佑に続いた。

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