「ねえ、僕を呼んでいたのは君なのかな」

 美味しい食事に満足しながらも食事の手を止めて、弓弦は傍らの少女に聞いてみた。勿論、違うと分かっていたけれど、そう尋ねた。

「いいえ、滅相も御座いません。あなた様をお呼びになっていたのは猫姫様にございます」

 そう彼女は答え、まっこと恐れ多くもとんでもないと更に付け加えた。

「とんでもない?」

「姫様はもっともっとお美しいですから。弓弦様も御存じでありましょう?」

 少女は和やかにそう微笑い、当たり前のように言う。

 弓弦は戸惑いを覚えながらも何処かそれに納得をしていた。

 ふと周囲の気配がざわめいた。此処には彼と彼女しかいないはずなのだが、不思議とそう感じた。

「ああ、お出でになりました」

 そう言うと少女はスッと弓弦から少し遠くの位置まで下がると、深々と頭を垂れる。

 音もなく襖が開き、幾人かの人が静かにまず入ってきたかと思うと、先にいた少女のように傅き、頭を垂れた。

 年の頃は皆同じくらいに見えるが、弓弦は何となく見た目どおりではないのだろうと感じていた。

 少女の黒髪が床に届くかのようなほどに長く、それを苦にするような風もなくゆったりと部屋の中へと入って来る。

 彼女が身に付けている着物や簪もまた豪奢でありながらも上品であり、まさに姫と呼ばれるに相応しいものばかりだった。彼女が身に付けているもの全てがこの手のことに関して碌に知識の無い弓弦ですら見事思うのだから然も有りなん。

 だが、何よりも目を引くのは彼女の、その所作だ。一挙手一投足、優美かつしなやかで、艶やかだった。

 切れ長の瞳がとても愛らしく、そして彼を誘った少女と同じく頭上には耳がぴんっと立っている。

 猫姫、成る程。そう思った。

「若君様、ご立派になられまして……お会いしとう御座いました」

 言いながら少女は弓弦の傍に腰を下ろし、彼の手を握って微笑む。よく見ればうっすらと瞳には涙すら浮かべていた。

「君が猫姫様?」

 弓弦はどうしても知りたくてそう尋ねる。こんな風に誰かを気にするなど久方ぶりだ。

「左様でございます。尤も貴方様にならば如何様に呼ばれましょうとも妾は嬉しゅうございます」

「君は僕を知っているの?」

「はい、ご幼少のみぎりからずっと見ておりましたから」

 その言葉に嘘が無いことは直ぐに理解した。そうしてあの鈴の音や歌声はきっと彼女のものだろうと言うことも。

「もしかして僕を呼んでいたのは君なの?」

「左様にございます。早う早うお逢いしとうて」

「僕に?」

「あなた様こそ妾が待ち望んでいたお方です故に」

 きっと普通ならば驚く言葉だろうが、弓弦にはそれが当然のように聞こえる。

「そうか、君だったんだね」

 だからそう返して微笑んだ。彼がそんな風に笑顔を浮かべたのはいつ以来だろうか。そのくらいはっきりと感情を表していた。

「若君様に分かっていただけていたとは妾はとてもとても嬉しゅうございます」

「若君……そう呼ばれるの悪くないね」

「若君様は若君様です故に」

 弓弦は少女の放つ鈴を転がしたような声にうっとりしていた。先ほどまでいた少女も確かに綺麗だったが、目前の彼女は一等綺麗だ。否、綺麗なんていう言葉で簡単に片付けられないとも思った。

「ああ、君はとても、とても美しいんだね」

「あなうれし。されど若君様とてお美しゅうございます」

「僕が?」

「あなた様の毛並みは最高のものでございます」

「毛並み?」

「ええ、それはもう最高でございますもの」

「まるで猫みたいに言うんだね」

「だってあなた様も」

「え?」

 気が付けば自分の身体の違和感に気が付いた。本来、ほどのどの長さであった髪がかなり伸びており、それどころか髪の色まで白くなっていた。

「ほんに立派なお耳ですこと」

 コロコロと微笑う少女を眺めながら、弓弦は自分の頭を触ってみる。するとそこには今までなかったものがあった。ふわふわした、艶の良さそうな手触りがする。

「……」

「お鏡を」

 猫姫がそう側にいた少女に伝えると何処からともなく鏡を取り出し、戸惑う弓弦にスッと差し出した。

「どうぞ、我が君」

 恐る恐る鏡を覗くとそこにはまるで知らない姿をしている自分を弓弦は見る。

 真っ白い、真っ白い、耳や髪。そしてそっと腰のあたりを見ればそこには立派でふさふさな尻尾なるものがあった。

「これは……」

「さあ、若君様」

 そんな呼びかけが聞こえた。

「お戻りを」

 甘く優しい声は弓弦をいざなう。それは――二度と戻れぬ道への案内――。

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