「何、迷子?」

 放課後の帰り道、足下に擦り寄ってくる猫に向かっては弓弦はそう語りかけて抱き上げてやる。

 よく見ればあまりこの辺では見たことのないまだ若い猫だった。子猫と猫の間のような初々しさがあり、とても愛らしい顔立ちをしている。

 全体的に毛の色は白で、両耳に少しブチの模様が入っているのだが、その模様がまるで蝶のようなはっきりした模様をしており、その色は黒みがかった銀のように光っていた。

 少し変わった模様であったし、何よりも弓弦は通学路にいる猫は大概覚えているのだが、この猫と同じような模様をしたのは見た記憶がなかった。

 人間は正直大嫌いだが、動物全般、ことに猫は大好きだった。猫であればどんな猫でも一度で覚えてしまうし、違いも分かる。

 これは小さい頃から変わらない。人に何かされるのは嫌いだが、猫ならされてもいいし、猫のためなら何をするのもいい気分だった。

 尤も彼の家族は誰もが動物嫌いなのでそれを分かち合えることもない。

「おやおや、まだチビなのにご苦労さんだね。この辺の子じゃないだろう?」

 弓弦がそっと抱き上げてやると、猫は弓弦の顔を大きな瞳で覗き込んでくる姿は愛らしい。

「ねえ、お前、自分の家は分かるかい?」

 弓弦の問いに反応してなのか、猫は答えるように喉を鳴らした。

「そうか、分かるんだね」

 弓弦が暢気に子猫と会話を交わしていると、背後から吐き捨てるような声

がした。

「んなの、猫に言って分かるかよ、ボケ」

 そちらへと顔を向ければ、そこには彼の幼馴染みである本庄ほんじようみのるがいつの間にやら嫌悪感を露わにして立っていた。

 相手を確認すると弓弦は我知らずため息を一つ付いた。

 またか。

 それが彼の最初に浮かんだ言葉だった。ことが何であうとも

「稔、お前はとっても合理的思考の持ち主なんだろうけどね、実際、猫は人の言葉が分かるんだよ」

 それは弓弦の経験から感じていることだ。別に何処かのえらい人がそう言ったわけではない。だから相手を納得させる根拠はない。

 当然そんなことは稔の方も分かっているから更に相手を馬鹿にした態度を取った。

「へーへー、御高説承りますってか」

「いかにも信じてないって態度でどうもね。お前に期待なんてしちゃいないけど」

 稔のように信じないからあり得ないと何でも否定してしまえば簡単だ。けれどそれではつまらないと弓弦は思う。何よりも猫と話せないと思うより話せると思った方がよっぽどいい。

 それに同じ言葉ではなくてもこうして相手が語りかけてくるんだからやっぱり話せるんだよ。

 そう何度、猫たちに語りかけただろうか。そして何度、彼らから返事を貰ったことだろうか。

 それは稔の言った意味では通じたことにならないのかも知れないが、弓弦にはいつでも十分なものだった。

 こうして猫と話している方が人と話すことよりもよっぽど自然に感じてもいるのもある。

 だけど稔はそれが気に入らないんだ。違うか、自分が何をしても気に入らないと言うべきだね。

 弓弦がちらりと稔を見遣ると、案の定、苦虫を潰したような表情で見ていた。

 実際、稔にとっては幼馴染みの返事などどうでもいいことであり、彼は彼の任務を果たすことに徹しているようだ。それが彼にとって正しいことらしい。

「猫なんてほっておけよ。こんなところでまた遊んでねえで、早く帰らないとお袋さんがまた心配するぞ」

「……そうだね、でも僕はこいつの家探してやるからさ、お前は親の言い付け通りにさっさと帰るといいよ」

 最早答える義理もないのだが、相手への反発もあって弓弦は

「げ? マジですか、またですか、弓弦」

 先ほどよりも更に露骨に嫌味と嫌悪を籠めて稔が言えば、弓弦もそれに見合う答え方で返した。

「そう、まただね。だけど可愛そうだろ、こんな場所でいつまでも独りぼっちじゃさ」

 如何に季節が夏だと言っても見知らぬ場所で迷子になってしまった猫をこの場に残していくには不安が残る。少なくとも弓弦にはこの場にこの猫を何事もなかったように放置することは出来なかった。

「相も変わらずお優しいこって、ゆづ坊は」

「何とでも言えよ、みの坊」

 その呼び名は小さい頃、大人たちにそう呼ばれていた懐かしいものだが、今となっては二人とも今そう呼ばれるのは当然好きではない。だからこんなときに言うのは大なり小なりお互いのやることに対する不満表明であった。

 そのまま二人は暫く睨み合いとなる。

 その間も弓弦はひたすら静かに相手を見つめ続け、稔は挑むように相手との距離を縮めようとするが、どう見ても平行線からは抜け出せそうにはなかった。

 やがてそんな攻防に耐えられなくなったらしく稔の方が視線を逸らして、二人の会話を終了させるべく口を開く。

「じゃ、俺は帰るよ。んな猫なんて勝手に何処へでも行くから構わねえだろうにさ」

 嫌になるほど相手がお互いにどう思うか分かっているのに更に言葉の掛け合いは辛辣にしかならなかった。

「僕が好きでやるんだからいいだろ、別にお前に頼んじゃあない」

 売り言葉に買い言葉となり、再び暫く睨み合う形になった。

 どうしてだかこの頃、この自分の幼馴染みと口喧嘩することが増えたように思う。とは言っても喧嘩を仕掛けるのは弓弦ではなく、いつも稔の方であった。

 毎度毎度、弓弦が何かすれば稔がそれは違うと必ず異を唱えてくる、そんなパターンが繰り返されていると言う方が正しいかも知れない。

 弓弦としては毎度毎度、稔とのじゃれ合いなど特に望んではいないが、相手がやって来る以上避けようもない。

「そうかよ。まあ、お前はいつだって綺麗事が大好きだからな。さぞかし御満悦だろう?」

 稔の態度もさながら吐き捨てる言葉も辛辣であったが、受ける方も慣れたものでにこやかに返すだけだ。

「そうだね、少なくとも僕はいい気分だ。よくさ、しない偽善よりする偽善って言うじゃないか? 僕はそれでいいよ」

 これは別に稔をやり込めるために言ってるわけではなく、実際に自分でもそう思っているから口にしているだけのこと。

 こんな些細なことでいちいち何かに気を取られて大事なことを見過ごすのは沢山だった。

 要は不毛な相手との会話を終わらせたいが本音ではあるが。

 一方の稔としては会心と思われた攻撃が実は相手に何も与えられなかったことに衝撃と諦めが入り交じった表情となり、それ以上は何も言えなくなっていた。

 そんな幼馴染みを横目にしつつ、弓弦はざっと辺りの様子を窺ってみる。親猫どころか猫の姿すら見えなかった。

 やはりこの近くには親猫はいないらしい。

 大概なら親猫は側にいるはずだからそうだろう。きっと子猫は好奇心に負けて遠くまで遊びに来てしまったに違いない。

「お前のお母さん、直ぐ見つかるといいんだけどな」

 子猫は愛らしく弓弦を見つめ返し、ごろごろと喉を鳴らして甘えてくる。やはり寂しかったのだろう。

 こんなところで一人なんて寂しいよな。

 切ない子猫の気持ちが分かるような気がして、どうあっても家を、野良ならせめて母親を捜してやろうと決めていた。

 弓弦が家とは真逆の方向へ向かい出すと背後から稔の諦めと苛立ちが入り交じった声が届く。

「底抜けのお人好しが、また問題起こすなよ。お前またクラスでやらかしたらしいじゃないか」

 稔の言うのは恐らくさっきの教室での出来事だろう。弓弦にしてみればそんなことは今更珍しくもないのにと思うが。

「そうだね、稔、有り難く忠告だけ聞いておくよ」

 相手の気持ちなどお構いなしに弓弦は稔に素気なく答え、子猫を抱いたまま歩き出す。彼の興味は既に幼馴染みの少年にはなく、子猫に集中していた。

 稔の方は返事が欲しかったのだろう、彼にまだ何か言いたそうにしていたが、忌々しそうに足を踏みならすと弓弦とは違う方向へと凄まじい勢いで歩き出していった。

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