新約・冥界神話 -冥王の嫁取り物語-

藤田 一五郎斎

プロローグⅠ:冥王と将来の花嫁

これはまだ、世界が常世の春だった頃。

"私"がまだ世界のことなど何もわからない、ただの少女コレーだった時の話。


「―コレー、いいこと?絶対にひとりでオリュンポスの外へ行ってはダメよ。わかったわね?」


「はい!お母様。」


そう返事をしながらも私は、初めて見る

神々の住まう地オリュンポス"の景色にすっかり魅了され、顔と足を動かすのを止められなかった。


神々の王・ゼウスと“豊穣”の女神・デメテルの間に生まれた女神とはいっても、オリュンポスに神としての席すらもたず、まだ“花”を司る女神としても半人前の小娘である私は今日これから開かれる結婚披露宴パーティ来賓ゲストではない。“豊穣”の女神として招待されているデメテルの単なるおまけだった。


好奇心の赴くまま、オリュンポスに建設された神々の神殿や飾り付けられた装飾品の数々に目を奪われながら歩いていた私は死角から現れた人影に気付かず、どんっと思いっきりぶつかってしまった。


「っ…!すまない…!」


その人物は私が地面に倒れる前に抱き止め、ひょいと持ち上げて助け起こしてくれる。


「ご、ごごごめんなさい…!」


自分の不注意を自覚し、普段から母に夢中になると周りが見えなくなることをよく注意されていた私はこの人にも怒られるものだと思って慌てて頭を下げた。


「…いや、謝る必要はない。下方にまで気を配らなかった此方の不注意だった。怪我はないか?」


そう言われて私はおそるおそる顔を上げる。

視線の先にいたのは、黒い服に身を包んだ長身痩躯の男神だった。陰りのある、痩せこけた顔は見るひとによっては『不気味だ』と感じるのかもしれない…。でも私にはすぐにその人が優しく誠実な人柄だとわかった。特にほんの少し緑を含んだ黒曜石のような瞳は、宝石そのもののように澄んでいて美しかった。


「あなたの、夜空の映りこんだ宝石みたい…」


吸い寄せられるようにその瞳を見ていた私の口からは、思わずそんな言葉が出ていた。そのあとすぐにハッとする。絶対ヘンな子だと思われた!ああ、どうしよう…また“変わった子”だって言われちゃう…!


しかし、その男神男のひとは私の言葉を聞くと、フッと表情を緩めたのだった。


「…それは…初めて言われたな…」


その人は腰をかがめ、私に視線を合わせてくれる。その表情はとても柔らかかった。


「…私の名はハデスという。“冥界”を治める者だ。其方そなたの名は?ここにいるということは…少なくとも女神ではあるのだろう?」


「あ、私は…」


何となく、頬が熱くなった。その理由を私はまだ知らない。


するとその時、後ろから母の呼ぶ声が聞こえた。


「コレー!コレぇー!何処へいったのー!?」


「…あ、お母様…!」


「コレー!」


こちらに気が付いた母が小走りで駆け寄ってくる。母はあまり男神を快く思っていない。それどころか、嫌悪ともとれる態度で接することさえあった。どうしよう、このままじゃこの人も…


私はどうしていいか分からずただおろおろしていたが、意外にも母はハデスと名乗ったそのひとを怒鳴りつけたりするようなことはせず、少し驚いたような表情をしながら私とハデス様の間に立った。ハデス様も再び立ち上がり、私からお母様へと視線を移す。


「…久し振りね、ハデス。貴方も来ていたなんて。」


「…ああ。久しいな、デメテル。今回はなんせ“オリュンポス十二神”同士の結婚だからな。さらに新郎新婦のヘパイストスとアフロディテはゼウスの息子と養女だ。親戚である以上、顔を出さぬわけにもいくまい。ゼウスとオリュンポスを徹底的に避けている其方がここにいる理由も、おそらく同じだろう?」


「…ええ。主催者のヘラに乞われて仕方なく…ね。私は一応“オリュンポス十二神”に名を連ねてしまっているし…」


母とハデス様のやりとりは少しぎこちなさがあったが、母からは他の男神に接する時とはちがう、少し安心しているかのような柔らかい空気が滲み出ているのがわかった。きっとお母様もこのひとの事は信頼してるんだ。私はそう確信した。


「…ところで、この幼い女神はもしや其方の…?」


「ええ。娘よ。コレーというの。父親はゼウス。聞いているでしょう?あの男と私の間に起こったことは…。」


「…ああ。聞いている。そうか。このが…」


ハデス様が再び私に視線を向けた。私はどきりとして、半ば反射的に母の後ろに隠れた。緊張するような、嬉しいようなむず痒いような、なんだか不思議な気持ちだった。


母の後ろからひょっこりと出した私の頭を、ハデス様がふんわりと優しく撫でる。そしてまた母に視線を戻しながら言う。


「…聡明そうなだ。ゼウスではなく其方に似てよかった。其方の娘ということは、大地の力を…?」


「ええ。“花”の女神よ。…コレー。ハデスは私の弟、そしてあなたの父の兄でもあるの。おじさまに御挨拶なさい。」


「…!こんにちは。ハデスおじさま、“花”の女神、コレーです。どうぞよろしくお願いします。」


母の後ろから飛び出し、服の裾を摘まんで頭を下げる私をハデスおじさまは優しい瞳で見守っていた。


「…そうか、コレ-。覚えておこう。…ではな、デメテル。あとで会おう。」


そう言って踵を返し、黒い外套マントを靡かせて立ち去ろうとするおじを私は思わず引き留めた。


「あの、待ってください!」


「…?」


振り向いてくれたハデスおじさまに私は駆け寄り、体の前できゅっと手を結んでゆっくりと開いた。


私の小さな手のひらから一輪の白い花が芽吹く。私はその花をハデスおじさまに差し出した。


「どうぞ」


ハデスおじさまは一瞬、驚いたように目を見開いたあと、私の作った花を受け取り、それを眺めながら言った。


「…驚いたな。其方は無から花を生むことができるのか…。しかし、何故これを私に?」


「あの、結婚式には白いものが良いってヘラおばさまが言ってました。ハデスおじさまの服は真っ黒なので…その…」


「こら、コレ-!」


傍らのデメテルがぴしゃりと言った。そこで初めて私はおじさまに対してとても失礼なことをしたかもしれないと思い至った。


ハデスおじさまは服もマントも真っ黒だったけれど、シワも汚れも綻びひとつさえない。服の留め具や装飾品に使われている金や宝石も、目立たないようわざと鈍くしか光らないものを選んでいるだけでピカピカに磨かれている。細かいところまでよく気を配っているのが子供の私にもわかった。


「ご、ごめんなさい…!でも、あの…白いお花を胸に飾ったら…もっと素敵だなって…思ったの…。」


俯く私の頭を、おじさまの手が優しくぽんぽんと撫でた。


「私が礼を欠かないよう、気を遣ってくれたのだな。確かに婚礼に出席するには、些か暗い色で来てしまったようだ。其方のお陰で花嫁やヘラから小言を言われなくて済む。どうも有難う。」


ハデスおじさまは微笑んで夜空の色の外套マントを颯爽と翻しながら行ってしまった。その後ろ姿を、私はふわふわとした、なんともいえない夢見心地な気持ちで見送った。


この感情を理解するには私はまだ幼すぎたのだ。


「コレ-、そろそろ私たちも行きましょう。」


お母様にそう声を掛けられてようやく我に返った私は、母のあとに続いてメイン会場となるヘラおばさまの神殿前へと向かったのだった…。


*****


「みんな楽しそう…」


私は神殿の階段に腰掛け、自分の膝の上に頬杖をつきながらそう呟いた。


厳格な雰囲気の結婚式はあっという間に終わり、披露宴とは名ばかりの神々の宴会場には私の腹違いの兄姉たちも大勢来ている。しかし、生まれの差はたかが数十年とはいえ、既に神としての役割を担い、“オリュンポス十二神”に名を連ねる彼らが私のような半人前を相手にしてくれるはずもなかった。皆の話題は自分達を信仰する土地の話、そこに住まう人間たちの話、そして恋の話…どれも私には“遠い”と感じるものばかりだ。


ふと、ハデスおじさまはどうしているのだろうと思った。ハデスおじさまはゼウスお父様やポセイドンおじさまと並んで主賓席についていたはずだが、今はそこにいない。取り巻きの神々相手に盛り上がるお父様とポセイドンおじさまは、自分達の兄がいないことに気付いてもいないようだった。


私はそっと、披露宴会場を抜け出した…


*****


披露宴会場を出た私はなんとなく、オリュンポスの外れを目指して歩きはじめた。後ろからは会場のあちこちであがる、神々の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。でも、なんだか私は自分がそこにいるのが場違いな気がして、いたたまれない気持ちになっていた。


私の探していた男神ひとは、私が目指していたオリュンポスの外れにひっそりと人目から隠れるように佇んでいた。


「…ハデスおじさま!」


「…!コレ-か…」


「おじさまもこちらにいらしたの?」


「…ああ。私はああいう席は昔からどうも苦手でな。」


「あまり上手に皆とおしゃべりできないから?」


「…そうだ。血の繋がった姉弟とはいえ、私と彼らは住む世界がちがう。考え方も異なる。そんな彼らと…どう接していいかわからないんだ。」


その言葉をきいて、なんだか私はホッとした。


「…そっかあ、ならおじさまも私と一緒ね。私もね、わからないの…どうやってお兄様やお姉様と仲良くなったらいいのか…」


「…そう、か…。」


ハデスおじさまは少し意外そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。


少しの沈黙のあと、再びおじさまか口を開く。


「…ここから見る地上の景色は美しいな…。特に、あちらに見える花畑は色とりどりの花が咲いていてとても華やかで美しい。これを見られるだけでも、わざわざ天界オリュンポスまで足を運んだ甲斐があったというものだ…」


おじさまが褒めてくれたのは私の作った花畑だった。おそらく、私が“花”の女神だと知ってあえて話題にしてくれたのだ。半人前とはいえ神にとって仕事を褒められることは至上の喜びだ。私の顔は自然と綻び、私は嬉しさのあまり思わず早口になっていた。


「そうなの!これまでは赤やピンク、黄色のお花が多かったのだけれど、今回は青や紫も使って色をつけてみたのよ!今回はあまり配置にはこだわらなかったけれど、ゆくゆくは同系色ごとにまとめて植えたいと思っていて、そうすればきっとイリス様の虹のように綺麗に…」


興奮してつい敬語を失念していたことに気付いた私はハッとしてハデスおじさまに頭を下げた。


「あっ…ご、ごめんなさい…。私、ハデスおじさまに生意気な口を聞いてしまって…」


「いや、構わん。そういうくだけた話し方の方が私としても気が楽だ。其方は私の姪だしな」


ふっと表情を和らげながらそう言うハデスおじさまの懐の深さに私はほっと胸を撫で下ろした。


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