Ⅳ.冥王と水仙


*****


「動くべき時に、か…」


ハデスは死者の受け入れが一段落したあと、誰もいない神殿の玉座の上で独りごちた。


確かにヒュプノスの言うことは一理ある。いくら主神ゼウスの娘という立場が彼女の身の安全を守っているとはいえ、コレーは年頃の娘だ。恋愛や睦事むつごとにも多少なりとも興味のある年頃だろう。そんな娘に恋愛経験の豊富な、それもハデス自分より若く見栄えのいい青年たちが言い寄ってこれば、彼らに彼女の心が傾いたとしても何ら不思議ではない。


彼らがコレー1人を永遠に愛し、幸せにするというのならそれでもいい。傷付くのは失恋した自分だけだ。しかし、オリュンポスに住まう男神に限ってまずそのようなことはあり得ない。彼女が涙を飲む結果になるのは火を見るより明らかだ。


ならばどうするか…。いっそ彼女を冥界までこっそり連れてきてしまおうか…。いや、それでは200年前と同じだ。また同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。しかし、正攻法で彼女を口説くことなど、とても自分にはでにそうもない…。


その時ふと、ひらめいた。


「…!そうか、正攻法か…」


ハデスは小さくそう呟くと、玉座から立ち上がり自身の所有する馬車に乗ってオリュンポスへと向かった。


*****


「…珍しいな、ハデス…いや、兄さんがわざわざ俺を訪ねて来るなんて。」


ここはオリュンポスにあるゼウス個人のための神殿。この間姉弟で集まった神殿と外観や造りこそ似てはいるが、ここはゼウスがゆっくりと寛ぐのを目的にして造られた神殿モノなので、内装はかなり異なる―というか、とても主神の神殿とは思えないほど散らかっていた。


「ごめんなぁ、普段あんま使わないモンだからさ、ちょっとばかし散らかってるんだよ。あとで誰かに片付けさせとくからさ」


ハデスは通された部屋の惨状を見てさらに呆れて溜め息をついた。ゼウスが普段執務室として使用している―と自称した部屋にはなぜかクッションが床に散乱し、足の踏み場もない。


「…自分の神殿だろう。自分で片付けくらいしたらどうだ」


「はは、兄さんは相変わらず真面目だなぁ。仕方ないだろ、俺だって地上の見守りとか…色々忙しいんだ。それに、ここ使う時は大抵ひとりじゃないしさ。」


「…まさか、女でも連れ込んでいるのではあるまいな?」


怪訝そうなハデスの視線を受けて、ゼウスはかぶりを振ってそれを否定してみせる。


「いやいや、さすがに俺もヘラの目と鼻の先の神殿でそんなことしないって!な」


「…もういい。お前の睦事の仔細しさいを聞くためにわざわざ冥界から来たのではない。今日私が来たのは…先日の結婚の件だ。」


ゼウスはその言葉を聞いて、待ってましたとばかりに目を輝かせた。兄の肩にポンと手を乗せるとうんうんと頷きながら言葉を紡ぐ。


「堅物のハデス兄さんもようやく決心してくれたかぁ~、…よし!そうと決まれば俺が最近地上で見かけたニュンペーを紹介して…」


「いや、それは必要ない。相手はすでに決めている。」


その言葉にゼウスは少し驚いたように目を見開いた。


「え?お~、マジか~!まさか兄さんにそんな相手が既にいたとは…こりゃあこの間お節介を焼きすぎて…」


「相手はコレーだ。自分で薦めた相手をまさか忘れてはいまいな?」


ゼウスの言葉を途中で遮るようにしてハデスが言うと、ゼウスはうんうんと大きく頷いて納得し、そして一拍置いてすっとんきょうな声をあげた。


「あーはいはい。コレーな、似合うと思ったんだよ。兄さんとコレー…ええええ!?コレーえぇ!?!!?」


ハデスは驚くゼウスを見ても、まるで予想通りだとでもいうように顔色ひとつ変えず、ただ淡々と追及する。


「まさか、ただの冗談のつもりだったとでも言う気ではなかろうな?お前も神の一柱…それも主神という立場だろう。自分の言葉には責任を持て。」


「いや、そりゃそうだけどさぁ…まさか兄さんがコレーを本気で見初めるなんて…」


ゼウスは頭を掻きながらハデスを見た。ハデスの冷徹な黒い瞳が自分の軽率さを見透かすように冷たくこちらを見ている。これは、覆すことはできなさそうだ。


「…わかったよ!なんとかするって。一応、コレーは俺の娘だしな!兄さんならその辺のヤツより、ずっと幸せにしてやれるだろうしな…。あとの問題は…コレーの母親のデメテルだけど…」


「…口達者なお前の出番だ。そもそも、これはお前の発案なのだから、それくらいの責任は取って然るべきだ」


「ええ…俺にデメテルを言いくるめろってのか?」


「…一度はそうやって子供まで孕ませたのだろう?ならば話し合いくらいできるだろう」


「うーん…」


ゼウスは小さく唸りながらデメテルの顔を思い浮かべた。“豊穣”の女神・デメテル。彼女はコレーの母親であり、そしてゼウスとハデスの姉でもある。彼女はその昔、それはそれは可憐で穏やかで美しい女神であったのだが、とある一件によりすっかり気難しく男嫌いな女神になってしまっていた。また、オリュンポスにも呼ばれなければ基本寄り付かないため、直接会ったのも随分と前だ。その時は例の一件をなじられて、思いっきりビンタされたっけ…。


「…俺めちゃくちゃ嫌われてるんだけどなぁ」


「…それはお前の行いが招いたことだ。私の知ったことではない。」


「…ハッキリ言ってくれるよ…ったく。それで、コレーの方はどうするつもりなんだ?」


「…お前から良い報告が来るまでに、心を寄せてもらえるよう努力はしておく」


「ンな悠長な!…あ、でもそうだ。コレーを本気で落としたいなら一応秘策を伝授するぜ?」


「…お前の秘策という時点で全くアテにならんのだが」


ハデスは怪訝そうに眉根を寄せた。


「そう言うなって!これでも俺は女を落とすことに関しては百戦錬磨だぜ?この腕に抱いた女は数知れず、生ませた子供も数知れずってな。」


「…最低な自慢だな」


ハデスは軽蔑の眼差しを隠そうともせずにゼウスの顔を見ると、そのまま扉をくぐって神殿の外へと歩き去ろうとする。


その背中にゼウスはこう言葉を投げ掛けた。


「ハデス~、女ってのは結構強引な男に惹かれるモンだぞー!あんましのんびりしてないで、さっさとやることやって自分のモノにしておけよー!?じゃないとデメテルに太刀打ちなんかできないからなー?」


その声は聞こえているのかいないのか。それをゼウスが確かめる間もなく、突然訪ねてきた冥界の長はこれまた突然に帰って行ったのであった。


*****


それから、さらに数日が過ぎたある日の事―


例のごとく『大地の裂け目』にて逢瀬おうせを重ねるハデスとコレーだったが、今日はコレーの様子がいつもとどこか異なっていた。


「…どうした、悩みでもあるのか」


そうハデスが訊ねると、コレーはおずおずと言葉を紡ぐ。


「あのね…、どうしてかはわからないけれど、お母様が最近とても厳しく私の行動を見張るようになったの…。今まではこまめにここに来られたけど…これからはそれも難しいわ…。お母様は男のひとを…特に男神を嫌っていていつも私から遠ざけようとするの。でも、誤解しないでね、私はハデスおじさまが好きよ?とても親切にしてくれるし、優しいし…、それに……その…ええっと…」


急にモゴモゴと言い淀むコレーの姿はとてもいじらしいが、残念ながらこの時ばかりはハデス自身にそれを愛でる余裕がなかった。コレーの口ぶりから彼女がこんなふうに頻繁に自分を訪ねてここに来ることはないのだということを察し、顔にこそ出さないものの内心ひどく動揺していたのだ。


「と、とにかくね!おじさまには本当に感謝してるの…。ここに来る度に、神酒を撒くのも、土を耕すのも手伝ってくれて…、冥界のことや神々について色々と教えてくれて…、本当は実際に行って冥界をこの目で見てみたかったけれど…、お母様を心配させるのも、そのせいでおじさまに迷惑をかけるのも私の本意ではないわ…。だから、せめてどうかこれを…」


そう言ってコレーが差し出したのは珍しい紫色の水仙の切り花だった。


「私がおじさまを思い浮かべながら作った特別な花なの。とても強く気高い花だから、神酒に挿せば冥界でも暫く持つし、土がもう少し豊かになれば、この地でもきっと花を咲かせることができるわ。これをね、おじさまに預かっていてほしいの。私は次にいつ来られるかわからないけれど…この花がいつの日にか冥界と地上の両方に咲いて、生ける者にも死せる者にも安らぎを与えてくれると信じて」


「ああ…わかった…預かろう…」


ハデスは絞り出すようにそう呟くと、コレーの手から花を受け取った。と、同時にそれを受け取ったのとは反対側の手でコレーの細い腰をがっちりと抱きすくめる。


「え、えっと…?ハデ…スおじ…さま…?」


突然の抱擁に戸惑うコレーの体をそのまま抱き寄せ、彼女の可憐な姿を他の者の目から隠すように、夜空のような漆黒の外套マントの下に隠した。


「…ただし其方そなたの身柄ごと…だが。」


僅かに周囲の砂と葉を巻き上げながら二人の身体を覆い隠し、ひるがえった外套が途端に周囲の光を反射して色を変える。冥府の王の外套は身隠しの外套であった。一度その中に隠れてしまえば声すら外界から遮断するため、何人たりともその姿を見つけることは叶わない。


ハデスはそのまま近くの木立こだちに待機させていた自らの馬車に乗り込むと悠々とコレーを冥界へ連れ去った…


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