Ⅲ.冥王と策略

*****


「…で、いつになったら求婚プロポーズするんですか?」


ヒュプノスの問いかけにハデスはあからさまに動揺した様子で ―しかしそれを隠したいという気持ちがあるのか、事も無げを装うように手元の神酒ネクタルの杯に視線を落としながら―、聞き返した。


「何のことだ」


「何って…勿論、コレー様との関係はいつになったら進展するのかとお聞きしてるんすよ」


ハデスとコレーが『大地の裂け目』で再会してから早数ヶ月―。ヒュプノスの問い掛けは一向に進展しない二人の関係に業を煮やしてのことだった。


「…別に私は、あの子のことをどうこうしようとは…。あの子自身が望んでくれるのなら、話は別だが…」


珍しく歯切れが悪く、ぼそぼそと言い淀むあるじに半ば呆れながらも、ヒュプノスは追及の手を緩めない。


「へぇ、じゃあこのままの関係を永遠に続けるつもりなんですか?彼女が自分から来てくれるのをひたすら待ち続けて、彼女の声が聞こえたらすぐさまカロン、タナトス、オレが順番に伝言ゲームみたいにハデス様に伝えて、ハデス様が平静を装いながらうきうきと外に出ていくのをこれからも毎回見送れってことですね?」


「…ちょっと待て。そんなに酷いのか?私は」


客観視で語られる自分の姿にさすがにいたたまれなくなったのか、ハデスは頭を抱え、深々と溜め息をつく。


「…だが、これ以上どうしろというのだ…。コレーは私の姪だ。私の事をある程度慕ってくれてはいるようだが、それはあくまで家族としての情だ。男女のどうこうというわけではあるまい…」


「しかし、他ならぬコレー様の父・ゼウス様が薦めた縁じゃないっすか」


ゼウスアレはいつでもいい加減な事しか言わん。コレーを薦めたのも単なるその場しのぎだろう。本気ではあるまい…」


「…じゃあこのまま諦めるんすか?」


「…諦めるとはいわんが、無理に変えるつもりもない。神々の時は悠久ゆうきゅうだ。そう焦る必要もあるまい。」


「……」


なるほど、つまり我が主は恐れているのだ。愛しい女性ひとの心を永遠に失うことを。もしも本当にコレーが彼のことをただのおじとして慕っているだけならば、そのおじに好意を抱かれていると知ったら彼を嫌悪することだろう。もう二度とここには近付こうとしないかもしれない。


だが、コレーの気持ちは本当にそうなのだろうか。


コレーが初めて『大地の裂け目』に姿を見せて以来、ヒュプノスたちは幾度となく主とコレーの仲睦なかむつまじい様子を見てきた。だが、その様子は単に仲の良い親戚の間柄だとは到底思えなかった。主を見上げる彼女の若緑の瞳が常に輝いていることに、健康的に日に焼けた頬が紅潮こうちょうして薔薇色に染まっていたことに、本当に主は気が付いていないのだろうか…。


(「…あーもう、焦れったいなぁ…」)


ヒュプノスは単に“眠り”を司る神に過ぎなかったが、このときばかりは大胆にも冥府の王に対して一計を案じた。


*****


「…………」


その日は朝からいつにも増して、普段から陰気なハデスの表情が暗く、深く澱んでいた。


「おはよーございます。ハデス様」


「ヒュプノス…」


物言いたげな表情のハデスの視線に込められた怒りや恨みのプレッシャーを飄々ひょうひょうとかわしながら、ヒュプノスはいっそ清々しいほどにわざとらしくすっとぼけてみせる。


「あっれ~?どうしました、ハデス様。ひょっとしてなにかいい夢でも見たんすか?」


「…っ……」


ハデスが押し黙るのを見て、それを肯定と受け取ると、主が見たであろう夢にあえて言及げんきゅうする。


「それはよかったですねえ…。コレー様への愛しさが増したんじゃないですか?」


「……っ…お前というやつは…!」


「ハデス様、わかっていらっしゃるとは思いますけど、夢は潜在意識から創られるモンです。もしも、ハデス様が夢の中でコレー様と何かとてもいいことをする夢を見たんだとしたら、それは無意識下でハデス様自身が望んでいる事ってことっすよ」


「…くっ…」


「そのせいでハデス様がちょっとくらい自己嫌悪におちいっていたとしても、それはオレたちのせいじゃないです。なぁ?オネイロス」


ヒュプノスはきっぱりと言い切るとかたわらの少年を仰ぐ。それを受け、ヒュプノスより高い位置で毛布にくるまったままふわふわと浮かぶ非常に小柄な少年が、眠たそうに欠伸あくびをしながら間延びした気のない返事を返した。


「ん~~?んん~そうだね~?そうなのかなあ~?そうかもしれないねえ~……zzz 」


彼の名はオネイロス。“夢”を司る神である。夜の女神・ニュクスの子で、ヒュプノスらとは兄弟に当たるがその性質上常に眠りの深淵にあり、また実に曖昧で不確かな存在だ。彼一人では特に何もできないが、“眠り”を司るヒュプノスとコンビを組むことで恐ろしいほどの能力を発揮する。それこそが“夢”だ。


通常、神々は不死であるが故に眠りによる回復を必要としないが、それでも疲労…こと精神的な疲労の回復には睡眠は効果的な手段であった。特に神酒ネクタルの品質がオリュンポス産のものと比べて大きく劣るうえ、冥界の澱んだ空気によりじわじわと生命エネルギーを削られ、さらに『死者の受け入れ』を業務としている忙しさから精神的にも疲弊するこの冥界においては定期的に睡眠をとることが精神の安定に必要不可欠であった。


そのため、ハデス自らが定期的にヒュプノスの“眠り粉”を浴びて睡眠をとることを推奨し、そのタイミングはヒュプノスに一任していたのだが、昨夜はまんまとそのヒュプノスにしてやられてしまったわけだ。しかも、ヒュプノスが人間たちのもとを訪れる時のようにオネイロスをともなってハデスを眠らせたものだから、ハデス自身が目を逸らし続けていた内なる欲望が夢として具現化してしまった。オネイロス自身は通常は“夢”に干渉することはない。だから昨夜見た夢は、自覚はなくとも他ならぬハデス自身の中に確かに存在している欲望ものなのだ。


「……もうよい。今日来た死者たちをつれてこい。」


ヒュプノスへの追及を諦めたハデスは玉座に腰掛け、苛立ちを滲ませた強い口調で告げる。しかしながらどういうわけか、いつもならば数人から数十人の死者の魂を伴って広間に入ってくるタナトスの姿がまだ見えなかった。


「…どうやらタナトスも今朝は寝坊したみたいっすね」


「…お前の策略ではあるまいな…?」


疑うような主の視線に、ヒュプノスは肩をすくめてみせる。


「…違いますよ。違いますけど、そーいえばハデス様のお耳に入れておきたい事が」


「…何だ」


「コレー様に関することですが…どうやらアポロンとヘルメスがコレー様に好意を抱いているようで、最近デメテル様の神殿の周りをうろうろしているとか」


「…確かなのか」


「実際に見たわけじゃありませんが、デメテル様が警戒を強めてコレー様の付き人をかなり増やしたそうなので、まぁ本当でしょうね。オレをはじめ冥府の神は皆ハデス様に心酔してますが、アポロンは優れた容姿をもつ神々の中でも一二を争う美青年、ヘルメスは知ってのとおり口達者でなぜか人好きされる性格です。しかも二人とも父親譲りの無類の女好きで泣かせた女は数知れず…。もし、あの二人が本気で口説いたら…、世間知らずのコレー様はコロッとだまされて泣きを見ることになるかもしれませんね。」


「……」


「ハデス様、神々の時間は悠久ですが、心は悠久じゃありません。動くべき時に動かないと後悔するかもしれないっすよ」

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