ぬいぐるみを洗う

ナツメ

ぬいぐるみを洗う

 書肆しょし憂月堂ゆうげつどうの戸は閉まり、磨りガラスの向こうはカーテンが引かれている。明かりも点いておらず、既に店じまいをしているらしい。

 裏手に回ると小さな庭があり、その真ん中あたりで女が膝をついている。深緑の銘仙をたすき掛けにし、屈み込むその先にはたらいがあって、女はその中にしきりに手を突っ込んでいる。


 ぞぶぞぶぞぶ


 と、妙に重たい、液体の泡立つような音がする。

「……何してるの、貴女」

 淡い紅色の小紋を着た女がいつの間にか縁側に立っている。

「あらおかえり姉さん」

 庭の女は顔も上げず、ぞぶぞぶと水をかき回している。

「もう日も暮れるっていうのに、こんな時間に何を洗ってるのよ」

「ぬいぐるみよ」

「ぬいぐるみぃ?」

 はっ、とわらって女は縁側に腰を下ろす。

「それで、貴女今日は何してたの」

「何って、店番よ。姉さんの代わりに」

「何かあった?」

「何も無いわよ」

「誰か来た?」

「誰かって?」

「お客よ」

「来ないわよ」

「そう」

「いつものことでしょう」

 ざば、と庭の女が盥の水を捨てる。土が濡れ、沈みかけた太陽を受けて赤黒く光る。

「じゃあ、は?」

 盥を抱える女の背に、縁側の女が声を掛ける。

 それを無視して、庭の女は手押しポンプで盥に新しい水を汲んでいる。やがて元の場所に戻り、また


 ぞぶぞぶぞぶ


 とやり始める。

「ねえ、誰か来たのね」

「……知らないわよ」

、来たの?」


 ぞぶぞぶぞぶ


 庭の女は答えない。

「来たのね。貴女また相手したの」

「してません」

「したんでしょう」

「してない」

 ざば

 水が流れる。地に染みる。ぬらぬらと赤黒く光る。

「忘れなさい、いい加減」

 それを無視して水を汲み、盥をかき回す。

 土はぐっしょりと濡れて、もう日は落ちたのに、塀の向こうの電灯の白々とした明かりを映して尚、赤黒い。

「貴女、それ本当にぬいぐるみ?」

「……ぬいぐるみよ」


 ぞぶぞぶぞぶ


 という、妙に重たい、粘ついた水音だけが響いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬいぐるみを洗う ナツメ @frogfrogfrosch

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ