中山みちるという男

むきむきあかちゃん

中山みちるという男

 中山みちるの朝は早い。

 四時半に起床。薄茶のシャツに焦茶のパンツ、それにツウィードのチェック柄ジャケットを羽織ると髪を七三分けに整え歯を磨く。これが全て済むころ時計は午前五時を差す。

 次はゆったりとしたブレック・ファストタイムだ。豆から挽いたモカコーヒーをお気に入りのクリーム色のマグカップに注ぎ、スコーンにクリームとピーチジャムを塗って食べる。この際、彼は必ずちょっとムーディーなジャズを流し、二十五分かけてゆっくりと味わう。

 こうして時計は五時二十五分を迎え、中山みちるは郵便受けに届いた新聞を開き、残りのモカコーヒーを口に含みながら一ページ一分のペースで読む。新聞を読み終わるころコーヒーも飲み終わり、これでおおよそ六時。

 以上の約一時間に及ぶ体内に物を入れる作業が終わったところで、彼は唇に薄ピンクのルージュを引き、薄茶のアイブロウで眉毛を仕上げる。

 残りの時間、七時までの間は小説を読んで過ごす。一人がけのカウチに腰掛け、背中に登りたての朝日を受けながらの読書だ。

 七時になると彼は家を出る。自宅から職場までの通勤時間はおよそ三十分。

 職場に着いた彼は誰よりも先にタイムカードを切り、自分の椅子に座ってPCを起動する。そしてなんとしてでも彼より早くタイムカードを切ろうと部屋に滑り込んでくる社員、林徹次に向かって笑顔で言うのだ———

「どうしたんだい林くん。今日も遅いじゃあないか」


 その日の中山みちるも、先述のモーニングルーチンを律儀に果たして颯爽と職場へ足を向けた。だがその朝はいつもとは一味違っていた。

 職場の部屋に入ると、そこには落ち着いた様子で椅子に腰掛けPCのキーボードを打ち鳴らす林徹二の姿があった。林徹二は細い目を目いっぱい開いて口角を引き上げて言った。

「どうしたんだい中山くん。今日も遅いじゃあないか」

 その瞬間中山みちるの精神状態は平穏たるものではなくなった。

 彼は自席に浅く座ると右親指の爪の先を前歯で噛んだ。パキッと音を立てて爪が割れた。

 だが彼はそれすら気に留めずPCの電源を入れた。

PCは普段の2.3倍の時間をかけてのろのろと起動した。その間も彼が親指の爪を一秒に二回のペースで噛んでいたことは言うまでもない。

割れた爪はキーボードに当たると引っ掻くような不快な音を発した。それを耳にした中山みちるは今度は左親指の爪を噛み始めるという訳であった。

 七時三十五分、林徹二が中山みちるの肩を叩いた。

「おい中山くん、顔に汚れが付いているよ。トイレに行って鏡で見てきなよ」

 中山は黙って席を立つと、トイレに向かった。

 彼は幾度思い出しても顔に汚れがつくようなことをした覚えはなかった。

 顔をしかめながら鏡に立った彼の眼球は、途端に一気に毛細血管が浮き立ち真っ赤に染まった。

 彼の下唇と顎には、割れた爪から流れた血がべっとりと付いていた。

 中山は急いで鼻から下を水で洗い流した。

 そしてもう一度鏡を見て彼は気づく。

 ルージュが取れてしまっている。

 それだけではない。つけたはずのアイブロウも全く見えず、そこにあるのは黒くて細くて薄い貧相な眉毛だけだった。

 そういえば、今朝読んだ新聞の一ページの大見出しにはなんと書いてあっただろうか。

 思い出せない。

 今朝食べたスコーンにつけたジャムはピーチジャムだったか?

 今朝読んだ小説の主人公は誰だったか?

 思い出せない。

 思い出せない。

 彼は発狂した。

 彼は蒸発した。

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中山みちるという男 むきむきあかちゃん @mukimukiakachan

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