Desperate

yokamite

Golden 72 Hours

「はぁー食った食った……。」


 時刻は22時30分をちょうど過ぎたところ、友人と焼肉の食べ放題に行っていた俺はタン、ハラミ、ロース、カルビといった牛肉の味に舌鼓を打ち、得も言われぬ満足感と共に家路に就いていた。


「にしても飲みすぎたな……。すっかり水っ腹だ。」


 ぱんぱんに膨れた腹を擦りながら、俺は東京近郊にある自宅マンションの共用玄関前に到着すると、鍵を開けて自室である3階奥の角部屋を目指して今にも歩きだそうとしていた。


「食い過ぎたせいで苦しいし、今日はエレベーター使うか……。」


 普段は3階までなら階段を利用する方が確実に手早く辿り着けるため、エレベーターを使うことなどあり得ないのだが、腹の膨満感によって階段を上る気力が削がれた俺は奇しくも、その日はエレベーターを利用することに決めた。


 ──それが、俺にとって生の運命と袂を分かつことになるとも知らずに。


 エレベーターの右隣に設置されているボタンの上側を押して暫く待つと、すぐに1階まで降りてくる。大口を開けたエレベーターに誘われるまま、俺はその敷居を跨いだ。


 3Fと表示されたボタン押してドアを閉める。経年劣化によりガタガタと音を立てながら上るエレベーターの上部に設置された電子パネルに2Fの文字が表示される。


 刹那、耳を劈くような轟音と共にエレベーターが釣り鐘のように揺れだした。


「うおぉ!? なんだ!!」


 俺はその場に立っていることすら叶わず、思わず膝を折って地面に這いつくばる。一向に収まる気配のない揺れに、俺の動物としての生存本能が警鐘を鳴らす。


 次の瞬間、エレベーター内を煌々と照らしていた灯りが消え、一寸先すら分からない暗闇が俺を襲う。暗所恐怖症の俺は堪らずスマホをポケットから取り出して懐中電灯代わりに目の前を照らす。


 しかし、不幸は間髪入れずに俺を追撃した。灯りが点いたことに安堵し、油断していた俺は上からの気配に気づくことはなかった。


 エレベーターの天井に設置されていた換気扇がきいきいと音を立てて軋む。その音に驚いた俺は思わずその方向を見上げると、換気扇を留めていたネジが落下する。


 咄嗟に顔を背けて躱そうとするも間に合わない。俺は落下するネジをまともに喰らうと、ネジは俺の右側の眼球に命中して視力を奪う。


「ぐぅ、あああああああぁ……!!」


 俺は声にならない声で呻きながらじたばたとのたうち回る。そうしているうちに、一先ず揺れは収まったようだ。30年あまりの生涯においてただの一度も経験した事の無いような未曽有の天変地異に激しく狼狽した俺は、何とか冷静に現状を整理するよう努める。


 ──恐らく、さっきのは地震だ。それもかなりデカい。エレベーターは既に機能を停止しており、スマホから漏れる淡い光を除いて辺りはほぼ真っ暗だ。この1メートル四方の狭い空間にはたった1人、片目を失い大量に血を流した俺のみが取り残されている。俺はこの絶望的な状況における恐怖心から、年甲斐もなくぼろぼろと涙を流す。


 どこかで聞いたことがある。災害時における緊急人命救助においては72と呼ばれる原則があると。人間という脆く、か弱い生き物は「重度の出血、呼吸できる空気がない状況、氷水の中」では3分間、「猛熱・極寒など過酷な環境」では3時間、「水を飲めない環境」では3日間、「何も食べられない環境」では3週間が生存の限界期間だと。俺が置かれている状況は前二者には該当しないため、水を飲めない環境、すなわち72時間の死のカウントダウンが始まってしまったのだ。


 ──俺は先の見えない恐怖と不安に押し潰されて、意識を闇に手放した。



†††



 ズボンの湿り気に不快感を覚え、目を覚ますとそこは暗黒空間だった。あれから何時間経過したのかは分からないが、手探りに拾ったスマホの電源ボタンを押しても何の反応もないことから推察するに、1日以上は経過しているものと思われる。気が付くと、俺は失禁しながら床に倒れ込んでいた。


 ついこの前までは好きなものを好きなだけ食い、飲みたいものを浴びるほど飲んでいたというのに、エレベーターに閉じ込められたままの俺は何も手に入れることができない。閉所における暗闇と、空腹に喉の渇きがストレスとなって俺の心を押し潰す。


「誰か……。誰か助けてくれぇえええええええ!!!」


 そう叫んだところで、聞こえてくるのは通気口に木霊する俺の声だけだ。いっその事もう死んでしまいたい。誰か俺を殺してくれ。そう思っても、その願いが叶うことはない。ここには自死を選ぶための凶器もない。


 これは悪夢だと、そう思った俺は眠ることにした。次に目覚めたときには自宅のベッドの上にいるはずだと。だが、そんな願望も虚しく、エレベーターには終ぞ救助が来ることはなかった。そして俺は、二度と目を覚ますことはなかった。

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