キミにかたる御伽噺

楸こおる

本編

はじまりはじまり

 タイムリミットは月が真上を陣取るまで。



 ナーゼルの親友――カリムは、狼の氏族の長を務めている。

 多少気難しい面もあるが、それは上に立つ者として当然であるし、人柄そのものは悪くない。寧ろ粘り強く、本性は穏やかだ。精悍で見目も良く、気遣いが出来、若くして氏族の長とくれば、女が黙っていない。

 しかし、氏族長としての立場から女をどれだけ囲っても許される程の人徳と魅力というカリスマを兼ね備えた彼は、「妻は一人だけ居れば充分だろ」とサラリ豪語し、十二の歳で娶った異国の色彩を持つ奥方を未だ姫君よろしく大切に扱って、人目憚らぬ溺愛加減。

 弱き者を守ろうとする優しさと誠実さからくる慎重な冷静さを持つ半面、砂漠の民――流浪民であると同時に、略奪を生業とする盗賊でもある――特有の猛々しさと聡明さからくる大胆な手段の採り方は、カリムが上に立つ人間である事を証明するかのようなその二面性を、違和感なく溶け込ませる。

 そんなナーゼルの親友は、今年で約十年連れ添った愛妻と共に、翼竜を操って空の旅。

 比較的親交の強い氏族である獅子の長に会う為、今日の昼過ぎに発った。

 予定では深夜に帰ってくるとの事だが、こうして子供達をナーゼルに預けているところからして、予定はあくまでも予定という訳である。

 獅子の氏族長は自分以上に若くして長となりながら務めを果たしているカリムを随分高く買っているようで、気に入っているのだろうと思わせる言動をよくしていた。いつもあれこれと教唆もしてくれるから、その厚意に甘えてカリムもまた氏族を束ねる長として、色々教えを請うているのかもしれない。

 氏族ごとに毎年順番で司るは、砂漠に聳え立つ古い神殿での厳かな大祭。年に一度の大きな、厳粛なる神への感謝と敬意を払う。

 今年の大祭を任されたのは、ナーゼルも属する狼の氏族。

「まだ若い長を構えた狼では、大祭の風格に耐えられないのでは…」などと砂漠に点在する他の氏族達から懸念されている事を知っているが、前年務めた獅子の氏族長も、ナーゼルの親友よりは年上だが、それでも今年三十になると聞くから充分若い方である。

 ちなみに、今の獅子が長の座に君臨したのは確か十一年前だった。

 そんな獅子の若長が、昨年無事大祭を務め上げたのだから、自分達、狼の氏族もきっと成功させてみせる。

 ほんの数ヶ月前に六人目の子供を出産したカリムの妻は、子供の面倒もあるしと残る旨を告げたが、前年に大祭を司った獅子の氏族に挨拶をしに行くのに、今年の大祭を任された狼の氏族の長が一人だけというのも味気ない。

 何せ獅子の氏族長の妻は、元はこの狼で氏族出身の女性で、肉感的な肢体と艶やかにうねる見事な黒髪を持ち、いろんな氏族から求婚の絶えぬ絶世の美女だった。

 カリムの妻が嫁いできて右も左も判らぬ小娘であった頃、臈長けた美貌のその人には大変お世話になっていて、また可愛がられていた。カリムの妻も、本当は彼女に会いたいだろう。

 そもそも。カリムの妻はただでさえ遠いところから文字通り身一つで嫁いできた。寧ろ、彼が見初めて奪ってきた、と言った方が正しいか。

 その辺り、普段は穏やかに見えても、やはりカリムも一端の盗賊という訳で。

 十二かそこらで拐かされて慣れない環境に身を置き、即座に身籠ってから、ずっと彼女は頑張ってきた。

 普段、子供や他人の面倒ばかり見て自分の事は二の次三の次な嫁に、夫であるカリムも周囲の人間も「今日くらい、羽を伸ばしてゆっくりしなよ」と言い進めたのである。

 ナーゼル自身、十三で初子を出産し母となった彼女とはもはや十年の付き合いだ。「偶には旦那と二人きりで恋人気分を味わっても良いんじゃねーの」という気持ちだった。

 自分にしてみても、若長であり親友でもある彼の子供を任されるというのは名誉な事であるし、それだけ信頼されている証だ。たった一晩なら、迂闊に死なせる心配も少ない。

 砂漠の民であり盗賊でもある自分達にとって、死とは日常的な恐怖。

 駱駝に蹴られて当たり所が悪くて死んだ。オアシスで水遊びしていたら溺れて死んだ。砂に足を取られて沈んだまま死んだ。風邪を拗らせて熱が引かなくて死んだ。薬が手に入らなくて死んだ。砂鮫ビリュクに食い千切られて死んだ。蠍に刺されて死んだ。毒蛇に噛まれて死んだ。巨禽鳥ギニーヤヂカに啄ばまれて死んだ。――こうした逸話に事欠かない。

 怪我や病気や危険生物によって、呆気なく死ぬ。これが自分達の生活で、暮らし。

 流石にナーゼルは男で乳が出ないし、妻も妊娠中で乳が出るのはまだ先の話なので、彼女と同じく子を産んだばかりで母乳が出る親友バールの嫁が末っ子だけ預かってくれる事になった。これで赤子のご飯の心配もない。

 しかしながら、ナーゼルは常々不思議に思う。

 自分の親友であり、自分達を束ねる狼の氏族の長である彼は確かに年齢にしては貫録があり、盗賊としての側面を持つ以上は少々物騒で剣呑な部分があるのも否めないが、基本的には穏やかな日常を愛する優しい人間である。

 だからこそ、十二で女を攫ってきたのも予想外なら、すぐに孕ませた事も予想外だった。

 そんなカリムの母もまた、元は草原の民であったという。砂漠へ運ぶ荷を急襲され、そこでカリムの母は当時狼の氏族長であった男にそのまま戦利品よろしく攫われた。

 今でも思い出せる。自分達よりは薄い淡褐色の肌、青みがかった灰色の瞳と鳶色の髪、淑やかな色気が幼心に印象的だった佳人。

 確かに、子は多ければ多い程良い。

 だから遊牧の民は、財産に余裕のある男であれば妻妾を何人も囲うし、盗賊の性を持つが故に、時には略奪ついでに女も掻っ攫う。どこの氏族も、砂漠の民は基本は黒髪黒眼の褐色肌の人種だが、そんな風に拐かされてきた者やその子孫は、淡い肌や黒以外の色彩を持っている。自分の腹違いの兄弟や、カリムのたった一人の妻がそうであるように。

 油断すればすぐに死んでしまうような環境で生きているから、砂漠に生きる民にとって婚姻は早ければ早い程良いし、女に望むのは若く健康で、早い内から子供を産める頑丈さが備わっていれば尚良い。

 カリムが遠い地から攫ってきた、澄みきった美貌を持つ娘はその条件を満たしていたが、それでも十二で孕ませるのは流石にちょっと早いと言うか、男らしいが優しいカリムがそんなに大胆だとは思わなかった。――どんだけ自分のモンにしたかったんだよ。

 そんな親友の、今まで知らなかった一面を知って早十年。

 未だ彼女一人を妻にして、隙あらば求愛しているような男だから、今日の要件は獅子への挨拶とは言え、普段は氏族の長、子育てとお互い多忙で二人きりの時間など滅多に持てない。もしかしたら今頃、久々の恋人気分を思う存分楽しんでいるのでは。

 楽しむだけで済んでいれば良いけれど、愉しんでいたらどうしよう。……否、別にどうもしないけど。

 六人目を産んだばかりなのに、もう次の子供を産む羽目になってしまったら、ちょっと彼の妻が気の毒かもしれない。

 自分の奥方に熱烈なのは結構だが、お腹も偶には休ませてやらないと、元気な赤子が産まれなくなっちゃうぜ、我が親友よ。



「ナーゼルさん…」

「ん?」

「寝れない…」

「眠れねーか? 寒いか? もう一枚、布被るか?」

「んーん…。ただ、眠くないだけ」


 カリムの一番目の子供が困ったようにナーゼルを見上げてきた。名をムディルという。

 普段はおっとりしつつも意外としっかり者な母の下で面倒を見られていて、自身も長子であるが故に弟妹の面倒を率先して焼く、九歳にして大変良く出来た男児だが、その母は子沢山故に眼が行き届かない事があったり、彼女でも疲れから体調を崩す事はある。

 結婚して数年はカリムの義母がまだ三人生きていたのもあって子守に協力的だったようだが、不幸な事に三人共この十年の内にパタパタと亡くなってしまい、それ以降、ナーゼルはカリムの子供を預かる事が多々あり、子供の世話には慣れていた。

 ナーゼルもこの歳になれば、嫁くらいとっくの昔に貰っている。

 十六で得た伴侶は小柄で元気いっぱいな、勝気ですぐ手も足も出るお転婆だけれど、困るくらい可愛い人だ。今は身重なので、色々自制しないといけない辛い時期だけども。

 十七で授かった初子が三歳になった時、歩く練習として街の外まで散歩に出したのが拙かった。

 ナーゼルの眼の前で、小さな娘は、突如砂の波が割れ底から現れた獰猛なる牙を持つ小型竜――砂鮫に左足を食い千切られ、出血多量と激痛によるショックが原因が即死してしまった。

 死亡率が決して低くはない過酷な環境である事はナーゼルだってずっとここで暮らしてきたから身にしみて判っていたが、いざ長子を眼の前で殺されてしまっては。

 愛娘の甲高い悲鳴は耳を貫き、片足を食い千切られた肉は大量の血を朱い砂に撒き散らし、駆け寄った幼子の身体はまだ温かく柔らかかったのに、既に事切れていた。

 その時の悔恨と無念さは筆舌に尽くし難く、「外に出すのではなかった」「あの時、手がもう少し早く伸ばせていたら」と何度後悔し、眠れぬ夜を過ごし、涙を流してきたのか。数え切れない。

 初の我が子を喪ってしまった辛い過去を持つナーゼルとアニサは、その衝撃が凄まじく、アニサは特に「また子供を喪うのが怖い」と、暫く子作り自体を恐怖していた。

 あのヤキモチ焼きの可愛い人が、怖くて子供を産みたくないからと、ナーゼルに他の妻を持ってほしいと震えながら訴えて。そんな要求に馬鹿正直に応えてしまったら、この可愛い人は二度とナーゼルに心から笑ってくれなくなるだろう。

 だから気長に待ち続け、同じ恐怖を持ちながら、宥めすかし説き伏せて、同じ恐怖を乗り越えて、今やっと二度目の妊娠に至っている。

 ナーゼルだって辛かった。産み育んだアニサはもっと辛いだろう。

 二度と喪わせないと誓って、ナーゼルは妻が無事出産を終えるまでは、自分の欲はひたすら我慢する事に決めた。安定期に入っても禁欲を続けているのは、ひとえのその為だ。

 アニサに似て元気な子供を産んでほしいと願っているから、ナーゼルは滋養の良いものをかっぱらう為、ここ数ヶ月は積極的に盗賊稼業に乗り出している。

 先週の荷からは、蜂蜜を手に入れた。

 滋養強壮の代名詞みたいな戦利品に歓喜したのも束の間、蜂蜜は一歳未満の乳児には良くないのだと若長である彼に教えられ、妻共々ガッカリしてしまった。この美味なる甘露をいずれ産まれてくる我が子に味あわせる事が出来るのは、少なくとも後二年くらいは待たねばならないらしい。辛い。

 そんなナーゼルだから、親友であり長でもあるカリムの子供達を預かって子守をするくらい、造作もない。誠心誠意、身の回りに気を付ける。何せ彼の子供達を預かるなんて結婚する前からなので、とっくの昔に慣れているのだ。

 小さな子供の存在もまた、ナーゼルとアニサに「子供が欲しい」と思わせるキッカケになったのだから。

 長子である小さな少年の頭を撫でて、一先ず調理場に向かう。


「起きてんのはお前だけか?」

「うん。皆、アニサさん囲んで寝てる」

「俺の嫁さんがチビ達にモテモテなのはどういう事なの」

「モテモテなのはナーゼルさんの方でしょ。あんまりよそ見とかしちゃダメだよ。アニサさん、泣いてたよ」

「えっ」

「うそだけど。怒ってたけど。でも、泣きそうな顔してるの、何度か見ちゃったから」

「……反省してます」


 冗談や挨拶みたいなノリでしかないけれど、自分が女性に軽く誘い言葉を掛けるのは、もはや癖というかルーティンのようなものなので中々治らないのだが、その度に勝気な妻が怒ってみせる裏側で泣きそうだったなんて知ってしまうと、本気で砂に埋まりたくなるナーゼル。

 そんなつもりはなかったが、結婚前はそれなりに浮名を流しそれなりに遊んでいたから、同じ狼の街で育ったアニサは嫌というほど知っていて、随分気にしている事くらい知っていたのに。

 ナーゼルが今回預かったのは、末っ子を除く五人。

 四番目と五番目は双子でどちらも女児だから、これは持参金と布を用意するのが大変だぞ、とカリムは今から頭を悩ませている。

 嫁入りには持参金と布支度がお約束。女の子が多い家は大変なのだ。


「ムディルはまだ眠くないんだよな?」

「うん、ちっとも。…でも、皆がちゃんと眠ったのかくにん出来たから、いいんだ」


 一瞬だけ、兄の顔になる。

 そんな少年に微笑ましさを覚え、「じゃあ、チビ達には内緒な」とナーゼルは言い、鍋に駱駝の乳を注いで火を点けた。

 独特の臭みと味をまろやかにする為に、刻んで乾燥させたハーブの瓶とスパイスの瓶を幾つか取り出して適当に振り、緩く木匙で掻き混ぜて味を調える。


「ナーゼルさん?」

「今ミルク温めてるから、そこに座んな。駱駝の乳しかねーけど、良いか?」

「うん。ラクダのは飲みなれてるし、へーき。でも、ずっと前に飲ませてもらった牛のミルクは飲みやすかったなぁ」

「んー。牛の乳はなぁ…平原地方の遊牧民と交渉するか、奪うかのどっちかだかんなぁ…。――よし、そろそろ良いか。熱ィぞ、火傷すんなよ」


 木の椀に温めたミルクを二人分、均等に注ぐ。フワリと甘く、乳臭い。


「ありがと…」

「じゃあ、眠れるように、一つお話してやるよ」

「ナーゼルさん、何かお話してくれるの?」

「御伽噺みてぇな話さ」

「えー、何? おとぎばなし?」


 ワクワクした眼でナーゼルを見上げながら熱いミルクにふぅふう息を吹き掛けていたもうじき十歳になるムディルに、ナーゼルはもう一度笑って、囁くように言葉を紡ぐ。


「そう。――御伽噺みてぇな話だよ」


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君に語る御伽噺

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