ぬいぐるみ一つだけ~僕たちが高校を卒業できない理由~

神坂 理樹人

第1話 consolation

 厚手の黒いカーテンから部屋に差し込む朝日が小さなテディベアに当たっていた。


「日に焼けると毛色が悪くなっちゃう」


 桂木紫苑かつらぎしおんはテディベアを優しく抱きかかえて、真っ暗な部屋の中でも特に暗い壁際に置かれたベッドの隅に移動させた。


「ここならもう、暑くないね」


 テディベアの頭を優しく撫でて、紫苑は微笑む。切れ長の目をいっそう細めて一番大切にしているそのぬいぐるみの背中が焼けていないか丁寧に確かめた。


 青い血管が透けるほど白い肌はもう一年も日の光を浴びていないから。バラの茎と見間違えそうな細い指はほとんど食事をとっていないから。腰を越えるほどまで長く伸びた黒髪は紫苑が生きるために必要だったから。


 漆黒に紫色を一滴を落としたような深い色の厚手のドレスには、バラの刺繍ししゅうと折り重なるようにつけられたフリル。白いパニエで広がったスカートに頭には赤いバラの飾りがついたヘッドドレス。部屋着だというのに、そのまま舞踏会に放り込んでも遜色そんしょくないような格好だった。


 絨毯じゅうたん敷きの部屋の中は、大きなソファ、真っ白な机、ベッドは天蓋てんがいに薄いカーテンがついている。それらの上には朝の満員電車のように様々な動物のぬいぐるみが並べられている。


 この部屋が、紫苑の生活のすべてだった。


 そっと手元のうさぎのぬいぐるみに指を伸ばす。左手の人差し指でぬいぐるみの口元を撫でると、指先から赤い鮮血が一筋浮かび上がった。


「悪い子ね」


 紫苑は指先を舐めながらうっとりとしてうさぎの頬を撫でた。その口元にはカッターの刃が隠すように埋め込まれていた。


 血の滴る指を吸いつくように舐めながら、紫苑はスカートの奥の秘所へと傷のない右手を伸ばす。粘つく液体に濡れる秘境の先を撫でながら、血の流れる指を強く吸うと口の中に鉄の味が広がっていく。息が少しずつ荒くなっていく。甘い声が吐息に混じる。


 それから紫苑は暇を持て余すように一人慰めに興じていたが、結局最後まで果てることはなかった。


「……はぁ」


 紫苑は冷静になって溜息を漏らしながら、手を拭いてゴミ箱にティッシュを投げ捨てる。部屋の中の娯楽はこれしかないというのに、それすらも満足に達することもできない。


 もうこの部屋だけが自分の居場所になって一年以上経つ。原因は高校二年生の時に紫苑が起こした自殺未遂騒動だった。


 指先ほどの長さの袖をまくって自分の左腕を見る。手首に平行になるように何本もの傷跡が残っていて、あの時の傷がどれなのかすらわからない。


 あの日、紫苑は空き教室で初めて手首を切った。使ったのは眉を整えるためのカミソリだった。


 赤い血が止まることなく流れ、傷口に全身の神経が集まったかのような熱い痛みが走っていた。ほこりの積もった教室の灰色のタイルが、少しずつ少しずつ赤く染まっていくのを見ながら、紫苑は生まれて初めて快感に達する感覚を知った。


 ただその代償は大きかった。


 元々過保護だった父親は、自殺未遂の原因が学校にあると決めつけ、紫苑を部屋に閉じ込めた。部屋の外に出ることができるのは、風呂と食事とお手洗いのときだけ。それも必ず侍従じじゅうを近くにはべらせていなければならなかった。


窮屈きゅうくつね。何がいけなかったんだろう」


 あの時本当に死にたかったのか、それともただ騒ぎを起こしたかっただけだったのか。それすらも今の紫苑にははっきりとしない。


 朝日から避難させたテディベアを抱き寄せる。部屋の中に置かれたぬいぐるみは愛らしさの象徴であり、五十を超えるそのすべてが父親からのプレゼントだった。今抱き寄せているこのテディベアたった一つを除いて。


「今日は、来るかな」


 テディベアの頭を撫でながら送り主の顔を思い出す。紫苑が物思いにふける前に部屋のドアが叩かれた。


「お嬢様、お食事の時間です」

「わかったわ。すぐに出るから少しだけ待ってちょうだい」


 部屋を出る直前、紫苑は自分の部屋を見渡した。


 たくさん飾られたぬいぐるみたち。それと自分になんの違いがあるだろう。父親によってこの狭い部屋の中に飾られているのは、同じではないか、と思う。


「お嬢様?」

「何でもないわ。行きましょう」


 夕方になれば、あの人が来るかもしれない。それだけを楽しみにして、紫苑は今日も部屋に飾られ続ける。

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