第2話 吸血姫、鏖殺す


 黄昏の朱に、美女の銀髪が染まる。

 棺から出でた彼女は、およそ一切の衣服を身につけていなかった。

 年齢は十代後半か二十歳初めか。完璧な美貌と体を備えた、怖気を振るうほどの美女だった。

 美しきその横顔には、不敵。嘲笑と蔑み、支配者のみが持つ特権サディスティックが彩る。そこには裸でいる恥じらいなど微塵もない。

 当たり前だ。猿の前に裸を恥じる人間などいない。彼女と人間の差はそれ以上に相当するということ。

 ゆっくりと、裸足で混沌の場を踏みしめて歩き出す。長い銀髪が、夕と夜の境を泳ぐように流れる。

 それだけで、空間を不可視の重圧が握りしめた。

 こみ上げる酩酊感を、オルザックは耐える。まるで立ったまま落ちていくような感覚。数十人の兵士戦闘者が、裸の女一人に怯えている。

 赤いこの黄昏の光景は、夕と夜の間。死者アンデッドと生者の対比。そして生と死の間に引かれた線。その距離は、限りなく近く、薄く。


「う、ああ、あ」


 ふらふらと、ひとりの騎士が近づく。それが二人、三人へと増えた。


「お、女!」


「う、美しい!!」


 魅力されていた。彼女のこの世ならざる美貌に、魂を掴みかけられていた。単に見た目が麗しいからなどではない。この女に、人の精神に働きかける『魅了』の能力が備わっている。それも相応の精神力がない人間では、耐えきれないほどの。


 女と男の距離が迫る。わずか数歩までになったとき、唐突に兵士の首が宙へ飛んだ。一拍遅れ、吹き出す血。みるみる体が乾き切っていく。

 女の手には、いつの間にかあの細い石柱が握られていた。ひび割れて、中身が現れる。

 それは、長大な鍔の無い大剣だった。赤錆が浮かぶ表面に、刻無数の文字が刻まれている。

 すぅと、女が息を吸った。同時に、吹き上がる血が女の唇へ飛び込んでいく。赤い嵐をその体に全て収め、なお女に浮かぶは「物足りない」という表情。

 ほう、と吐息と共に口を開く。体温が無い、だが熱情を孕む吐息は、引き込まれるような艶やかさ。


「味が薄いわ。魅了に簡単にかかるし、本当にあなた達はそれで聖騎士なの?」


 ボトルの見た目だけが豪華な安ワインに失望するように、女の顔に呆れがあった。


「貴様……」


 オルザックが構える。先ほどの部下を抑えなかったのはこの女の動向を探るため。

 魅了で誘い、一瞬で三人の首を刎ねる力。その血を吸い尽くす。そして棺に収まっていたという事。導き出される答えは一つ。


吸血鬼ヴァンパイア……!」


「いかにも、私は真吸血鬼ハイ・ヴァンパイア、ランドルフ・ララル・ラディラーン王が息女、ラライ・ララル・ラディラーン」


 美女は両手で存在しないスカートを持ち上げる動作を行い、優雅に一礼。黄昏の闇の中で、彼女の目には朝の光が映っていた。


 吸血鬼と、女は名乗った。化け物中の化け物。人類の天敵、その最大の一つとかつて数えられた存在。死というルールに、抗う反逆者。


 それは、遥かな死者の頂で、血を吸って咲く一輪の黒薔薇。呪詛と、怒りと、憎しみと、冒涜が彼女を闇色に輝かせる。


「おはよう世界。おはよう餌共みなさん。いい目覚めね。爽やかすぎて笑っちゃう。ゴミみたいな世界がゴミのままで嬉しいわ」


「なぜ、こんなところに吸血鬼が封印されて……!?」


「……あらあら私の名前が知られてないの? 一体私はどのくらい寝てたのかしら。まあそんなことは」


「く、かかれ! 村人はいつでも殺せる! あの化け物女からだ! 目覚め立ての吸血鬼など、この人数ならば倒せる!」


「渇きを満たしてから知ればいいことね」


 怯えと、恐怖を振り切り兵士たちが走り出した。



 △ △ △


「な、んだ、なにが……?」


 何かが、現れた。女の声。血の匂い。暴力の音。聖騎士たちと戦っている。なんのために? なぜ? 混乱する思考を振り切り、まず己が何をするべきかをカインは考える。


「逃がさないと、みんなを……!」


 目の前に、何かが倒れた音。痙攣している。音から男の体格。騎士だろう。痙攣が止む。恐らく死んだ。


「く、なんだ、なにが起こって……!」


 杖を頼りに立ち上がろうとした瞬間、肩に手を置かれた感触。


「あら、さっきの盲人の神父役立たずさんじゃない。逃げてなかったの?」


 ギン、という鈍い金属音。血の匂いとまた誰かが倒れる音。女の声が、明るくカインに告げる。


「まあ下手に動いても巻き込まれるから、見えてないなら伏せてたほうが安全だと思うわよ」


「君は、誰だ!? なぜ、ここに、いや、村人を、信徒を巻き込まないでくれ、頼む!」


「その話は後ね」


 みしりと、頭を掴まれる感覚。強引に力で地面へ伏せられた。


「う、わ!」


「そこでおとなしくしてなさいな──死なれると血がマズくなっちゃうでしょ?」


 女の声が遠く離れていく。


 △ △ △


 切りかかる兵士が、次の瞬間には糸が切れたように倒れた。首筋に吹き上がる血。空間を鞭のように踊り、吸血鬼の唇へ吸い込まれる。

 またも一人倒れた。同じく血が宙を舞い吸血鬼の元へ。

 まるで手品のような手際で死んでいく兵士。血を次々と吸い取られていく。

 だがそれは手品ではない。魔術でさえない。


「あらあらほんと味が薄いわねぇあなた達、仮にも聖職者ならもう少し良い味なんだけれど。それになにこれ、弱すぎてカカシを相手にしているみたい」


 呆れた声を出しながら、大剣を軽々と構える全裸の美女。

 兵士を次々と殺傷していく現象は、単純無比かつ精密な剣の技術だ。年若い美女でありながら、元傭兵という実戦経験者を最小限かつ最短で急所を斬りつけている。かなりの研鑽と鍛錬を重ねた達人の動き。オルザックの眼にも剣の動きを捉えるのがやっとだ。


「あ、ひょっとしてこの剣が魔剣かなにかだと思ってる? これ、たしかに聖剣とか言われる物だけど不死者アンデッドのみに効果があるから人間にはただの鉄の剣なのよね。

つまりあなた達が弱すぎるだけなの、残念無念ね」


 ひょいとラライが首を傾げた。ヒュルリと矢がかすめていく。続けて放たれる矢、矢、矢。殺到する群れに、美女が微笑む。

 優雅なステップ。踊るような踏み出しに、加わる円の動き。剣で矢を的確に打ち払いながら、弓兵達へ迫る。一本とて白肌を傷つけられない。むしろ外れた矢が後方の味方を傷つけた。


「あらあら流れ矢が味方に当たってるじゃないの。ちゃんと狙わないからよ。悪い子には罰ね」


 裸の鬼の姿がかき消えた。音もなく兵の眼前に。一瞬の踏み込みによる縮地のような移動。即座に煌めく閃光。甲冑の隙間、首筋から血を吹き上げて弓兵が倒れる。

 恐慌を起こす兵達を、つまらなさげに切り捨てる。こぼれる血が渦を巻き、幾重にも糸を重ね、ラライに巻きついていく。


「やっと布地が稼げたわ。いつまでも裸じゃ格好がつかないもの」


 肩と背中の大きく露出していた。長い脚を大きく覆うつぼみのようなスカート。豊満な胸元には蝶のリボン。鮮血で一瞬のうちに衣服ドレスを作り上げた。裸足だった足にもピンヒールを履いている。

 幾つもの命で作られた毒々しい黒血。スカート以外は必要最小限しか覆っていない扇情のデザイン。


「お、おおおおお!!」


 怒号を上げてオルザックが突撃。駆動鎧の全身の刃が唸りを上げる。徹底的な力で叩き潰すやり方。

 オルザックが踏み込む。掲げた剣の豪快な打ち下ろし、つまらなさげに紙一重で避けるラライ。

 それを読んでいたように剣が起動を変える。力任せに真横へ凪ぐ剣先。しかし、ラライはいない。


「な!」


 剣の上にラライが立っていた。足音や衝撃さえ感じさせず、やはりつまらなさげな顔で。


「失礼、強引なだけの殿方ってキライなのよ」


 繰り出される目を狙った刺突。しかし刃纏う左腕が防ぐ。火花を上げて弾かれた。


「無駄に眠っていただけの吸血鬼骨董品が! 最先端たる聖騎士の装備の前では貴様など!」


 ラライが跳ぶ。深い闇と赤焼けが混じる空に浮かぶ月。そこに彼女が重なった。


「聖騎士? お前たちが? 奇跡一つ使えないのにまだ聖騎士と名乗るの? ──はははははは!!」


 神秘のように美しく、死神のように怪しく、女が笑う。見下ろす全てをあざ笑う。

 落下と共に振り下ろす大剣。火花を上げて受け止めるオルザック。


「だ、ま、れええええ!!」


 刃纏う拳が唸る。無防備なラライの腹めがけぶち当たり、腸をぶちまける、ことはなかった。


「な、ぐ、!!」


 オルザックの全身に、ラライの延びた銀髪が絡みついていた。一つ一つの刃に巻きつき、振動が止まっている。これでは切り裂けない。


「ば、化け物が!!」


「だから、最初からそういってるじゃないの。記憶力ないでしょ?」


 眼窩に、ラライの剣先がゆっくりと入り込む。感触を楽しむように、ジワジワと力をこめる。肉と骨を突き破り、錆浮く鋼が脳へ。


「や、やめ、や、がががが!!」


「なぁに? 聞こえないわ、もっと優しくお喋りしてくれないかしら。私気が弱いの、小鳥に語りかけるようにしてくれないと。それから生憎ね」


「や、ひゃ、やひゃしにたくなひ、いやああ」


「私、豚の言葉はわからないのよ」


 やがて、剣が止まる。オルザックの悲鳴が止まった。ラライの微笑みに、虚無が宿る。


「あらあら、今度は大人しくなったわね。そのほうがかわいらしくてよ」


 吹き上がる鮮血。ラライの唇へ。ガラガラと鎧が崩れる、中には土塊のように乾燥したオルザックの死体。


「ひ、ひいいいい!」「隊長が!」「逃げろぉ!」


 背を向け始める兵士たち。しかし動きが止まる。一人一人の脚に、ラライから伸びる銀髪が巻きついていた。


「リーダーがやられれば簡単に逃げ出す、これがこの時代の聖騎士なの? あはははは、相も変わらずのゴミと思えば良い時代になったじゃない! あの・・忌々しい聖騎士がこの体たらくになり果てるなんて、きっとこの時代は子犬のことを狼と呼ぶのでしょうね!」


 両手を広げ、吸血姫が嗤う。桃色の唇から覗くはサメの如き牙の群。優雅で、そして獰猛な表情。この場の全てを、この夜を、時代を、そして自らを笑う。


「いやだああ!」「助けてええ!!」


 いっせいに兵士たちが吊り上げられる。夕闇に無数に走る銀髪の光。響き渡る怒号と悲鳴、命乞い。


「さあ、あなたたちは……そうね」


「もういい、もうやめろ!」


 ラライを後ろから羽交い締めにして、カインが叫んでいた。


「はひ!? え、ちょっと、やだ胸に手が当たってるからやめてって!」


 先ほどまでのラライの余裕溢れる支配者の態度が崩れる。少し混乱しているようだ。


「やつらはもう戦う気がない、もう無駄に殺す必要はないはずだ!」


「ちょっと、ねぇ、離してって!」


「え、ああ、すまない。目が見えないもので」


 慌てて離れるカイン。見えない以上は勘で組み付くしかなかった。


「あー、ねえ、役立たずさん。ていうのも落ち着かないわね、名前は?」


「……カインだ」


「わかったわカイン。なんかよくわかってないようだけど、二つ、言っておくわね。一つ、私無駄に殺す気なんて最初からないわ」


「それならもう降ろしてやれば」


「有益に殺すつもりよ。全て無駄無く食らってあげないと」


「! やめろおおお!!」


 ドレスのスカートから一瞬で広がる血だまり。周囲一体を覆う。


「──降り注げ、血槍地突界レイン・メーカー


 吸血鬼の禍々しい魔術が発動する。拡大する血の池から次々と鮮血の槍ニードルが形成。釣り上げられる兵士たちを刺し貫いていく。声も無く息絶え、降り注ぐ血液を槍が吸い取ってゆく。そのまま繋がるラライの元へ。

 赤の奔流を吸い込みながら、ラライはまたも告げる。


「それから、二つめね。これ大事だからよく覚えてね」


「な、なぜだ、なぜ!?」


「王族たる私に汚い手で触れるな」


 吸血姫の平手打ちが、見習い牧師を豪快に吹き飛ばした。


 

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