単線の町

久芝

単線の町

ある日の空は、あの日の空と同じく青で塗られていた。白く濁った不純物の塊は上空に一切なく、そこまで青を主張しなくても良いのにと、一瞬空に突っ込みたくなる。

空を見ていると何だか電車に乗りたくなってくるのは、私だけかもしれない。

切符を買って、勝手に乗ればいいだろうと思われるかもしれないが、そう簡単ではない。まず電車の本数が1時間に1本あれば多いと思う感覚は、都会に住んでいる人には分からないと思う。1時間に確実に1本あることの安心感と信頼感は麻痺していると言われればそれまでだが、田舎に住む人にとっては当たり前の感覚。都会に住んでいる人にとっては違和感でしかない。その逆も然り。たまに1時間に2本の本数があると「おっ、JRもやるじゃん」と思うが、時刻表をよく見てみると特急だったりする。普段利用している駅に止まることはもちろんなく、ただ通り過ぎていく。

いずれにしても鉄道は使い勝手が悪く殆どの人が車を生活の足にしているので仮にこの常磐線が第三セクターに切り替わったとしても大きな問題になるかは微妙なところだが、その心配はあまりしていない。

まず東北本線のバイパの機能としてJR東日本は考えていると思う。あくまで東北と関東方面の南北の移動は東北本線がメインで、常磐線はその補完機能としてサブの位置だと思う。ただ、常磐線は東北と関東での印象が違うと考えているのは私だけだろうか。関東の人が考える常磐線は「混雑が激しい」「茨城と東京の移動に便利」「常磐線って東北まで繋がってるの?」と大きく分けると三つくらいの考えになるのではないだろうか。

混雑が激しいのは関東近郊であればどの電車でもあると思うが、常磐線はその中でも特に混む路線と聞いたことがある。実際調べたり体験したりした訳ではないので間違っているかもしれないが、ウィキペディに書いてあったから信憑性は全くゼロではないと思う。

茨城との移動に便利というのは言葉の通り、普通列車も快速も特急も多く走っている。茨城の人にとっては馴染み深く、なくてはならない存在なのではないかと勝手に思っている。

東北まで繋がっているのか?と考える人が多いのが事実ではないかだろうか。実際、常磐線が仙台まで繋がっていると知っているのはあまりいないと思う。鉄道好きなら常識的に知っているだろうが。

常磐線は今まで東北本線の影に隠れて生きてきた気がする。でもそれはある大きな地震がきっかけで全国的に知られるようになった。その沿線には建物の大きな事故が起きた場所もあり不遇の時代を迎えていた。しかし昨年、10年ぶりに全線が復活したニュースは記憶に新しい。

常磐線にはこのように色々な出来事があり、私もそれを近くで見てきた。沿線に住んでいることもあるが、うちの実家は小さいながらも商売を行っている。その中身は駅の業務委託。JR東日本から切符の販売・駅の清掃と管理、駅の中での物品販売を許可されている。

先祖代々その業務をなぜか委託されているらしくその始まりは誰もわからないが、私が思うに特別に儲かる仕事だとは思わない。駅の中で物品販売いわゆるコンビニみたいな物を行っているが、駅を出て5分くらいのところにローソンとファミマがあるのでうちが優位という訳でもない。それでも、朝の通勤通学の時間帯は途中でコンビニに寄る時間がもったいないこともあり、駅の中で買う人が多く意外と商品は売れる。おにぎり・サンドウィッチ、お茶にコーヒー。それなりに小さな町の小さな商売としては細々と生活出来ている。

私は普段この駅の業務委託を行っている。本当は普通に仙台の会社にでも就職しようと就活もしていた。この駅を利用する人のほとんどは仙台に通勤通学をしている。宮城県と県境の町の駅なので仙台のベットタウンではないが県庁所在地の福島市より仙台市の方が結びつきは強い。隣の駅から常磐線の特急に乗れば品川にまで行けるし、仙台まで行って新幹線に乗れば全国各地に行くことが出来るので、田舎の小さな駅ではあるが可能性は十分にある駅だと私は強く感じている。初めからこの仕事をしようと考えていたわけではない。

就活をしていた大学三年生の秋。

親父が死んだ。脳卒中であっけなく死んだ。

弟がいたが東京の大学に進学しており、おそらくだが駅の仕事をやるつもりはなかった。婆ちゃんと母親が駅の仕事をしていた。爺ちゃんは随分前に亡くなっていたので親父が仕切っていた。仙台の大学まで実家から通っていたので就活が終わって家に帰ると母親よりも婆ちゃんに駅の仕事をやってくれないかと頼まれることが多かった。母親がいないときにこっそり自分の部屋に来てボソッと話していく。

「タクがやってくれると、あたしゃあも助かるんだがね」と、ボソっと言いながらテーブルに小遣いを置いていく。賄賂だ。もちろん駅の仕事も二人だけに任しておくのは心配というか大変だとなんとなく思っていた。簡単そうに見えて実は重労働が多い仕事。朝は早くから駅の掃除、売店の品揃え、駅の管理、終電後の掃除、1日の売り上げ確認と細かい仕事が多かった。ただ、自分の人生を「駅の仕事」で埋め尽くしていいのだろうか?と単純に疑問に思っていた。この仕事をするために生まれてきた訳ではないし、いくらやりたいことが見つからないからと言って家業を継ぐのはどうかと思っていた。でも、親父が死んだことでそうせざるを得ない状況が迫ってきている。案の定、どこからも内定はもらっていない。50社ほど受けているが中々貰えない。友達は何社も貰っているのにと思う。冗談で「いくらで内定売ってくれる?」と話したこともある。「とりあえず1万でいいよ」と言われた時に、すぐに出してもよかったがそれと同時にそんな会社に何十年も勤めるのかとため息が出そうだった。

就活が終わって最終で帰るには10時半の終電に乗らないといけない。常磐線の終電はクソ早い。飲み会がある時は友達の家に泊まるのが恒例だ。10時半ではなくせめて11時にして欲しいと昔から思っていた。

終電で帰る頃には駅の周りは真っ暗だ。街灯はほとんどなくこの中を自転車や徒歩で帰るのは心細くなる。

ホームにあるベンチに少し腰をおろす。背もたれに背中を預け、反り返って空を見上げる。

星が少し見える。その右の方に月が見える。白っぽい月のように見えるから新月だろうか。風も涼しくなり秋の気配を感じさせる。草の匂いや空気の匂いがもう秋になっている。匂いに敏感で田舎暮らしの人ならきっと秋の空気の匂いを分かってくれる。

もう秋なのだ。

あの秋から2年経った秋の空。

あの頃とは状況が変わり駅の仕事をしている。後を継いだ。婆ちゃんは喜んでくれた。

「賄賂が効いたかね」なんて言われたこともあったが母親はあまり歓迎していなかった。手伝って欲しくない訳ではなかったが、「ずっとこの仕事でいいの?」と何気なく聞かれたことがあった。その時は濁していたが後を継ぐとは継続してその仕事をやり続けていくことで、生きている間の大半はそれに時間を費やすることだ。

真剣には考えていなかったのはあの頃も今も。まだどうにか出来る年齢ではあるとタカを括っているが、歳を重ねていくごとに色々な重さが増していく。

責任感は増えている。ただ、それはそれで気持ちがよく頼りにされるのも悪くない性分であるのは、きっと親父に似ている性質なのだろう。

基本休みは不定期で友達と遊びに行くのもあまり無くなってしまった。変わりに趣味のようなものを見つけた。

「前面展望」

この言葉はそこまで一般的ではない。ユーチューブを見ていない人にとって、鉄道に興味がない人にとっては「???」だが、興味のある人にとっては「はいはいはい」となる。前面展望とは鉄道の一番前のガラス越しにカメラを設置して前面を映している映像だ。運転士と同じ目線になり実際にその鉄道に乗ってどこかに出掛けている気がするのだ。今まで見た最長時間は東海道・山陽新幹線の5時間オーバーの動画をテレビでずっと見ていた。その街の景色を4Kとかで見れるのは素晴らしい時代になった。他にも色々な前面展望を見ていたが常磐線の東北の方の前面展望はあまりアップロードされていない。需要がないのか撮る人が少ないのか分からないが。

良いことを思いついた。

前面展望を撮影してみようと考えた。今まで駅の仕事をして鉄道があるのがあたり前だった。でも普通の人にとって鉄道を使わない人にとってはちょっとした非日常なのかもしれない。鉄道は人間の出会いと別れには必要な要素である。

今度の休みに撮影してみようかと思ったまずは一番前で久々に景色を見るところから始めてみようかな。子供の頃はいつも一番前に陣取ってよく見ていた記憶があった。親父も鉄道が好きで二人で前の景色を見ていた記憶がある。

休みの日。天気は曇りだった。午後1時を過ぎた頃に電車がホームにやってくる。4両編成の少ない編成だ。朝の時間帯や帰りの時間帯は多ければ9両編成になることもあるが、昼間の客が少ない時間帯は4両が基本で、最悪2両の時もある。

ドア開閉ボタンを押し中に入る。この電車はボックスシートありの電車だった。4両しかないけど車内は空席だらけだった。仙台までは1時間くらいで着く。立っていくには少し疲れるが疲れすぎることはない。先頭車の乗務室のガラスの所に陣取った。席が空いてるのそこに立っているのは違和感でしかない。田舎だから人が何かをやっているのが目立ってしまう。都会なら人に関心がなくて何かをするのにハードルは低いのだが、この先頭で景色を眺めることでさえも好奇の眼差しを感じる気がしてしまう。

扉が閉まり電車が動き出した。ゆっくりではあるが確実に加速していく。前方には一本の線路が続いている。いわきから仙台まで、途中の岩沼までは単線で岩沼からは東北本線と合流して複線となる。

私の勝手な思い込みをここで一つ。

「単線は複線に憧れ、複線は複々線に憧れる」

勝手な持論を炸裂させてみた。昔からそう思っていた。隣の芝生はみたいなことかもしれないが、単線よりも複線の方が賑やかな印象がある。逆に単線にはどこか哀愁とか慈悲といった感覚がある。だから前面で単線の線路を眺めていると心が揺れる。電車の揺れと同期しなぜ揺れているのかは分からない。

岩沼駅手前で左の方から東北本線の複線の線路がしばらく並行している。岩沼駅を境に2つが統合される訳だがこの場合、常磐線の方が東北本線に吸収された形になるのだろうか。そんなつまらないことを考えているともう終点の仙台駅に到着した。線路だけをずっと見ていたことと立ちっぱなしだったこともあり2倍疲れた。

駅を出てすぐの喫茶店に寄った。学生だった時よくここにきて勉強やレポートを仕上げていた。本当なら勉強は禁止なのだが、通い詰めるうちに親父さんと仲良くなりオッケーをもらうことができた。実家が駅の管理をやっていることを話したら結構気に入ってくれていた。おじさんは全国の鉄道を乗り歩くのが趣味らしく写真を撮るのも好きらしい。いわゆる「乗り鉄」と「撮り鉄」の初期の人なのだ。写真を見せてもらって常磐線の沿線の風景も何枚かあり管理をしている駅も通ったことがあると言っていた。勝手に親近感を抱き仲良くなっていた。最近は忙しくて顔を出せずにいたのでしばらくぶりに顔を出そうとしたがお店が休みだった。入り口に張り紙がしてあった。

「しばらく旅行のためお休みいたします。」

きっと乗り鉄と撮り鉄の旅に出たのかもしれない。店を後にして近くのコーヒーチェーン店に入った。混んでいなくてラッキーだった。

二階の席のアイスコーヒーを持って移動し外が見える窓際のカウンター席に座った。ストローでグラスの中を掻き回し吸い込んでやっと一息入れることができた。

「ふう。やっぱり疲れたな。」

二回くらいで吸い込んだくらいでグラスの半分以上が無くなってしまった。それにしても氷が多すぎではないか。ストローで氷をガシャガシャしながら外を歩く人を眺めていた。右から左、左から右と人の流れが出来ている。ある意味複線かもしれない。そのほうが賑やかで活気がると思っている。

人生を鉄道や線路に例えることがよく周りではあるのではないだろうか。なんでか考えてみると良い時も悪い時も走っていかなければ目的地につかないからではないだろうか。

春は桜が見えて一見穏やかに見えるが、卒業や別れといった場面に鉄道は関わっている。一年で一番多くの悲しみに接している。夏はレールが酷暑にやられて曲がってしまう。でも人々の浮かれた気持ち、楽しい気持ちに一番接している。

秋は少し中途半端かもしれないが哀愁が漂うその中の中心が鉄道であると思う。冬は寒さと雪といった厳しい条件の中で前に進んでいく勇ましさを感じるのではないか。

いずれにシーンでも色々ある。親のレールの敷かれて、人生の分岐点、どこまでもまっすぐ進む人生はなど、人生と鉄道はいつも側を走っていて、どこかで交わるのか立体交差を走る人生を平地を走る人生、決して交わることのない物語を作っていく。

人の流れを見ながらそんなことを考えるのは健全ではない気がした。残りを飲み干し、千田駅に戻った。1時間に一本しかないので時刻表は必ず見なければならないのだが今日は見ていなかった。電光掲示板に「普通 いわき行 17時23分」とある。その下に「特急 ひたち 品川行 18時52分」とある。自分が乗る普通は特急に追い越されていく。おそらく岩沼駅で追い抜かれるのだろう。品川まで約4時間くらいかかるので急いでいない人向けではない。それでも相双地域の人にとってはなくてならない特急である。たとえ1日に数本しか走らないとしても。

田舎の駅にしては忙しい日々が続いた。普段の仕事の他に動画の撮影準備や商工会の打ち合わせがあったり、それでも都会の駅の忙しさの半分も言ってはない気がするが。

そして近々、沿線意見交換会が実施される。何の意見交換会かと言えば、

「常磐線、いわき−仙台間(正式には、いわき−岩沼間)の複線化事業に関して」

この話が町の広報誌に掲載された時は少し驚いた。この先も単線であろう区間が降って湧いたような噂話のようなことが、現実に起ころうとしていた。

なぜ今になって複線の話なのか?そもそも複線が必要なのか?と疑問しか浮かばない。常磐線の現状を考えればわかることだ。平日の昼間は2両編成が中心にも関わらず、利用者はあまりいない。通勤通学時間帯はそれなりに多くの利用はあるが、複線が必要なまでではなく、単線のままで2両編成を4両にするとか特急を多くするとか本数を多くするとか終電を遅くするとかの方が現実的である。

もちろん複線化のメリットは単線であることよりも数多くある。ただ、複線にしてしまうとあの複線から単線になる時の寂しさや哀愁が消え、その逆の楽しさや期待する気持ちがなくなってしまうのが、一番私は危惧する。

ただ仮にそうなったとしても全線開通は数十年後の話だ。予定は未定という言葉があるように、それは誰も知らない。ただ、あんな事故があったからもしかしたら国からのせめてもの償いの産物だとしたら、それで帳消しになる訳ではない。

3月。

駅が人の涙に溢れる季節。言い過ぎかもしれないが人の出会いや別れは駅から始まり駅で終わる。それがどんな田舎の駅だろうと改札を通った先とこちら側では空気が違う。

毎年そんな風景を見ているから飽きたりしないのかと思われるかもしれないが、同じシチュエーションはない。人も違うし育ってきた環境も背景も違う。だから面白いのだ。

それらを見るために駅の仕事をしていると言っていいかもしれない。

まだ春にはなり切れない3月。暖かい日が多くなり駅の仕事も少しずつ忙しくなりつつある。12月〜2月は忙しくはない。寒さのせいで人がいつもよりグッと少なくなる。日本海側みたく雪での寒さではなく、空っ風の寒さ。どちらの寒さも嫌だがより風の寒さの方が芯まで冷えてしまう。雪の寒さの中には勝手に暖かさも混じっていると思う。

広い平野に乾いた北風が吹き常磐線もこの時期には遅延や運休が多くなる。周りに風を遮る高い山や高層ビルはない。あるのは何もないたんぼだ。

「常磐線複線化」の話し合いは先日行われた。第一回目ということもありそれぞれの自己紹介がメインだった。国の官僚、東北地方担当者、沿線の首長、商工会議所のトップ、常磐線複線化実行委委員会の委員長、無駄な挨拶で終わった。建設的な意見交換は皆無だったが、複線化に関しては必ず行いたいとお国のお偉いさんが話していたのが印象的だった。なぜそこまでこだわる必要があるのか私には分からなかった。全国には改善しなければいけない路線が多くあるはずなのに、固執しているようにしか思えない。それはやはり何と言えばいいのかどこか心の中に色々申し訳ないという気持ちからくる懺悔の気持ちなのかと。複線化は経済的にはきっと効果が少しはあるのかもしれない。ただ残念ながらそれ以外は何もない。目立った観光地や工業地帯もない。交通の便もさほどよくなく、「売り」は何かと言われたら即答出来ない。全国にはこんな地域が山のようにあり何も特別この地域だけが悪いわけではない。自分一人だけじゃなくみんなもだからと安心するのは日本人の悪いくせだ。その癖を直すことは出来ないだろう。

久々に休みをとった。そして電車に乗って仙台に向かう。不思議といわき方面へ向かいたいと思うことはあまりない。そちら方面に向かう時は特急「ひたち 」に乗車し上野へ向かう時だ。品川までつながっているが私は今でも上野が終点だと勝手に思っている。特急が止まる最寄りの駅は「相馬駅」だ。そこから自由席に座る。仙台からは10両編成でやってくる。昔の「スーパーひたち」の頃はいわき−仙台間は4両編成しか走っていなかった。お盆休みや繁忙期に限っては7両編成+4両編成の11両の特別編成だ。それを見に駅にくる子供もいた。今で言う「撮り鉄」だろうか。入場券を買ってホームでその電車が通過するのを待つ。子供はきっとまだ乗ったことがないのかもしれない。お母さんはその電車の話をしながら子供に「今度、スーパーひたちに乗りたい」と言い、「今度の夏休みにでも乗ろうか」と約束をする。ホームの自動アナウンスが流れる。

「まもなく一番線に特急列車が通過いたします。黄色い線の内側へお下がりください」

駅を通過する時は幾分速度を落とすがそれでも風圧が普通列車とは違う。もう少しでこの駅を通過する。不思議だ。何で電車が来ると分かっているのにそっちのほうに飛び込んでしまいたくなる気持ちが自然と湧いてくる。引き寄せらる見えない力が鉄道には働いているのかもしれない。

通過電車あるあるかもしれないが中にいる乗客の顔を見ることが出来るか見たいな動体視力を鍛える遊びをしたりもする。駅の中で仕事をしていレバあるあるかもしれない。

通過していった特急の後ろ顔は喜んだり泣いたりしているように見える。車のヘッドライトやテールランプが人の表情に見えるように電車にもそれがある。テールランプは赤く光っておりやがてカーブしていき姿を消していく。その姿を見るたびあの頃のあの時を思い出す。

小学校の夏休みは長く感じていた。でも毎日やることがあるので少しだけ忙しかった。朝六時にはラジオ体操に出向きよく分からないまま体をほぐし、午前9時から学校のプールに行く。それが終われば塾や習い事。どれも子供ながらに奴隷の毎日のように思っていた。くそつまんない。そんな感じだけどこんな感じで言えば大体伝わる。ただその中でもお盆は特別だった。どこも休みなので必然と時間が生まれる。その時はよく東京のじいちゃんばあちゃん家に行っていた。こっちにいる時にもじいちゃんばあちゃんはいるのだが、特別感が全然違う。まず東京に行く楽しみというか、スーパーひたちで東京に行ける楽しみがある。じいちゃんとばあちゃんの家は東京の西の方にある。上野からは山手線で高田馬場まで行って西武新宿線で本川越行きに乗りなさいとよく母親に言われた。僕が降りる駅は特急以外は止まる駅で本数も半端なかったのでそれだけで楽しかったし、僕の希望が全部叶う夢の場所であった。好きなものを食べさせてくれるし行きたい所には連れて行ってくれるし欲しい物は買ってくれる。どれも素晴らしいのだけれども、一番好きだったのは近所の商店街に晩ご飯の食材を買いに行く時についていくことだ。

大体立ち寄る店は記憶している。最初に酒屋に行って魚屋に寄って、少し八百屋に寄って肉屋に寄って家に帰るのがルーティンだ。

最初の酒屋、確か「阿部酒屋」だった気がする。そこの店主はばあちゃんと同じくらいのばあちゃんで色々話している。僕もよく行っていたので挨拶すればお小遣いをもらったりお菓子をもらったりして印象が良いばあちゃんだ。そこでは瓶ビール1ケースと焼酎やウイスキーを何本か頼んで配達してもらう段取りをしていた。子供ながらによく飲むなと思っていた。両親は下戸なので。

その後に魚屋による。確か「山田鮮魚店」だった気がする。そこでは決まって「カツオの刺身」を注文する。今までその注文が断られたところを見たことがないので魚屋の仕入れ力が半端ないのかもしれない。あとは煮魚ようにあんまり聞いたことない魚を注文していた。「カスベ」とか言ってた気がする。それがどんな魚か分からない。見た感じはカレイぽいけど違うと思う。とにかく煮魚がじいちゃんが好きだった。

八百屋は本当たまにしか行かないのでどんな名前だったかわからない。色々思い返してみても野菜が食卓に並んだこと、食べている姿をほとんどみたっことがなかった。

最後に「三池精肉店」による。このルートは家かた離れた酒屋から順に家に近くなっていることについ最近気がついた。ただ適当に買い物してるのかと思ったらそこには戦略があった。

肉屋ではよく「ステーキ」を買っていた記憶がる。自分が遊びに来ていることもあるかもしれないが、じいちゃんがステーキが大好きで良く食べていた。ばあちゃんはもっぱら刺身だ。ステーキと一緒にハンバーグやコロッケを買って家に帰る。買い物袋が増えていく。手伝いのつもりで何個か袋を持つ。その時に見るばあちゃんの優しい笑顔は今でも忘れていない。

よく色んな話をした。戦争のこと自分の母親のこと、その中でも人生についてのことが多かった気がする。難しことを言うのではななく、生き方とか人との関係性について。教えるというよりも経験談を話していたのだと思う。わかる部分は何となくうなずき、イマイチな部分に関しては聞こえないフリをしてたと思う。

じいちゃんと深い話をしたことは子供の頃はなかったかもしれない。よくお使いを頼まれていた記憶しかない。特に多かったのが近所のたばこ屋へのお使いだ。ハイライの丸い缶の奴を買いに行っていた。自販機ではそれは売ってなく必然とたばこ屋のおばちゃんに注文内容を伝え手に入れる。よく買いに来るので顔を覚えられすぐに店の奥からそれを持ってきてくれる。今ではあれば全体に子供にタバコなんか売ったりしないのその当時は何もなく、「いつも一人でお使いに来て偉いね」と言葉をかけられ、去り際にラムネをくれる。それが欲しくてお使いを引き受けてたのもあるが、一番はお釣りを全部貰えるのだ。大体五千円札をくれるのでお釣りは結構な額になる。それ専用の貯金箱も当時作ったりした。「タバコ貯金箱」。よその人が見たらこれは何だと!!言いそうだけど。

買った代物をじいちゃんに手渡す時の笑った顔が今でも記憶の奥の方に残っている。

高校2年になった時、ふと家出をした。急に学校に行く意味が分からなくなり現実から逃げたくなった。いつも通り朝は自転車で学校に向かうためにペダルを漕いで行く。足取りがだんだんと重くなっていく。ウエイトをつけてトレーニンングしている訳ではないのに漕ぐたびに重さがましていく。立ち漕ぎしても漕げなくなったので自転車から降りて自分の足を密¥るけどもいつも変わらない短い足がそこにあるだけだった。

「いくのやめた」

声に出した。誰もいなくてよかった。来た道を引き返す。どうしてだろうか?戻る道を自転車はスムーズに進んで行く。重りが全くなくどこまでも漕いで行けそうだった。

家に帰ると両親は二人とも仕事に行っている時間だったので鉢合わせることはなかった。部屋に戻り荷物をまとめてとりあえず家をでた。念のために書き置きをして。

駅に行くと親にバレるので隣の駅から電車に乗ってまずは仙台に向かった。直接東京に向かえばよかったのだが、まず携帯を契約したかった。携帯を持たせてもらっていなかったのでプリペイド式の携帯の契約を地元ですると足がつくと考えて馴染みの仙台の携帯ショップで行おうとしたが、忘れていた。自分が未成年であること。未成年の場合必ず親の同意が必要で書類に署名・押印が必要だった。

「今度持って来るのでとりあえず契約できませんか?」と粘ってみたが「無理です」と言われた。あまり後ねていると家に連絡されそうなのであっさりと引き下がった。

荷物が入ったスポーツバックを肩から下げ仙台駅まで戻った。普段友達がいると思っていたのだが、こういう困った時とかに相談できる人が誰もいないことに気がついてた。

自ずと駅にある公衆電話から東京のじいちゃんばあちゃん家に電話をかけた。

「あのさ、これから行ってもいいかな?」

「気をつけてきなさいね」と、あっさりとオッケーしてくれた。

 仙台発の特急スーパーひたち48号が上野に向かって発車する。途中、うちが管理している駅を通過していく。一瞬駅の中の誰か、もしかしたら祖母と目が合ったような気がした。通過したら急に眠気が襲ってきたので、残りの数時間はねていた。

あとはもう色々な人に怒られまくった。両親はもちろん普段一緒に生活している方の祖父母、学校の担任など、色んな大人に怒られまくったけど、東京のじいちゃんばあちゃんは怒らなかった。何も聞かず夏やすに来た孫と遊ぶくらいの感覚で接してくれた。

だから、二人には頭が上がらないと思って何とか孝行をしたいと考えていたけど、二人とももういない。

2年後の三月。何か特別に変わったかと言えば特にはなくただ日々を過ごしている。相変わらず常磐線の複線化については定期的に会合が行われているが、当初に比べてだいぶトーンが落ちているのは参加した人からの感想でわかる。元々、夢の話だったと思えば何も落ち込む必要がない。今日もちゃんと常磐線は走っているのだから。

いつもと変わらない日常を送っていると少し変わったことがあった。

駅でおこわを売り始めた。母親とばあちゃんの料理が得意な部分を活かして売り始めた。これが意外と人気が出ている。地元のフリーペーパーの取材やタウン誌の取材が来たりしている。そのおかげで駅に人が集まるようになった。電車に乗らなくても人って駅に結構集まれるんやなとしみじみ思った。

休みの日には「前面展望」を撮影している。始めてみると意外と恥ずかしもどこかに行き撮影に集中してしまうので周囲の視線を感じない。カメラから見る景色はどこか違う。おんなじはずなんだけどどこか違う人生を走っている気がしている。だからいいのかもしれない。

他の人生を味わえるのが鉄道なのかもしれない。

今日もこの町に鉄道がやってくる。

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