主従関係はTPOに応じて

藤林凪々

プロローグ 第一話

 怒りで脳が煮えたぎるようであった。


 邪魔になるから外で遊んでいろ。そう言われたから出ていった。


 主催者の親族であるからという理由で参加させられた、今年の勤労を労う目的で開かれたパーティー会場にて言われた一言で、天宮日向あまみやひなたはホテルから飛び出した。

 会場内に溢れかえった人混みを掻き分け、ホテル最上階のパーティー会場を抜ける。


 当日受付担当をしていたホテルマン下島忠人しもじまただひと三十五歳独身はこう語った

――開場してからすでに一時間が経過していたので、もう重要な仕事はほとんどないと思って呆けていたのは事実です。そんな時、すごい勢いでそこのドアが開かれて、現れたのは険しい顔した子どもが一人。どうしたんだい、迷子かい? と一声かけたのですが聞く耳持たずという感じで。そのままその子はそこのエレベーターに向かって、標的を狙う野獣のような手つきでボタンを押していました。エレベーターはまるでたたかれた衝撃で目が覚めたみたいに開いていました。


 無意識に出世コースを外れた男をよそに、件の子どもはエレベーターに乗って下降していた。一階、一階と地上に近づくたびに会場を飛び出た勢いは削がれていくものの、当初より六十七階分削がれた闘志に未だ怒りの炎を灯していた。


 一階に着き、フロントの前を足早に駆け抜ける。

 ホテルから一歩出ると、選択肢は三つ。そのまままっすぐ進むか、右に曲がるか、左に曲がるか。どの道も二十メートルほど先まで暗闇が広がっている。

 幼稚園には自家用車通園。一人で留守番をしたことなどなく、夜寝る際は使用人をそばに置かなければ寝入ることすらままならない四歳児の日向にとって、その光景は、子ども向けアニメで年一程あるどんなホラー回よりもおそろしく思えた。


 戻ろうか。


 一瞬怖気付く。


 このままホテルの入り口へと方向転換し、言われた通り会場前のソファで本でも読んでいればいいんじゃないか。そういえば、会場前には受付があってそこに一人受付担当が座っていた。あの人と適当に団欒でもしておけば、あっという間に時間は過ぎるのではないか。


 そう思うと、なんだか自分の行いが馬鹿らしくなって、上体を半身に、足先は完全にホテル入り口へと向いた。

 そしてぶり返すように、思い出す。


 ――外で遊んでいろ。


 体を後ろへ振り向けるのに、何秒もかからない。なのに、水がたまったガラス瓶を弾いたみたいに、その言葉は頭の中で何度も反響した。

 子どもながらにプライドを感じて、急ブレーキがかかった車のように踏ん張りを利かす。

 結局、朝、車で家から幼稚園へ向かう際初めに曲がるのが左だからという理由だけで、左の道を選んだ。


 街灯もろくにない道は視界を奪い、その他感覚を研ぎ澄ませた。

 恐怖からなのか、いつもは日常にある何気ないものがダンジョンのトラップのように思える。都心へと向かう車のモーター音、寝る準備を始める野良猫たちの鳴き声、聞きなじみのあるコンビニの入店音すらも鼓膜を響かせ、心臓を圧迫する。普通に歩けば車が二台は通れそうな広い道を、老朽化した木造の橋を渡るかのように壁伝いで歩く。今朝雨が降っていたため、地面には数メートルおきに大小入り混じった水たまりが敷かれており、それを進路にして先へ進む。

 

 真っ暗な景色にだんだんと視界も慣れてきて、恐怖で身を寄せていたはずの壁もただ歩行をサポートするだけのものになり始めたころ、進路として決めていたはずの水たまりがついに途切れた。

 

 ふと、我に帰る。


 思えば、何が目的だったのだろうか。ただ怒りだけの猪突猛進ぶりだった気がするし、「外で遊んでいろ」という発言に対して揚げ足を取りたかっただけな気もする。日向が立ち止まった場所の近くは住宅街になっていて、どこかの家族の笑い声が聞こえた。その笑い声がなぜか、自分へ浴びせられているかのように聞こえた。


 体が熱くなり、衝動的に何か物に当たりたくなったため、近くにあった水たまりへ照準を定め、踏みつけた。水しぶきが少しだけ上がり、顔にかかる。視界が水分で滲んだため、袖でぬぐった。


 のに、なぜか水滴はまだ頬を伝った。頬だけでない。頭からそれは流れた。指先で頭をつつかれたみたいな感覚。頭頂部から流れる感覚が全身へと推移していく。


 雨だ。


 そういえば、今日は雨が降るからと家を出る際に傘を持たされた覚えがある。その傘は当然今、ホテルの一室で本来の仕事を忘れ休養中だ。


 どうしようか。新たに生まれた問題と向き合う。


 少し悩んで、帰路に向かうことにした。雨が降って怒りが冷めるとは少し出来すぎた話だが、ここが潮時かもしれない。そう思って体をひねり、元来た道へ振り返る。


 そこで日向は、その日一番の危機感を覚えた。


 水たまりを追いかけてきた、のだ。どの水たまり?


 その昔聞いた、パンのかけらを森に入る際の道標として使用したのに、森の小鳥たちにそれを食べられて迷子になる兄妹の童話を思い出した。

 とどのつまり、日向が道標として使用した水たまりは、雨水に食べられたのだ。


 日向がいたホテルは、それはまぁ十分な目印となるほどに高く目立つ建物であった。その建物が見えないということは、十分な距離を歩いてきてしまったことになる。下手に行動を起こせば、より深刻な迷子になるかもしれない。


 不安の積もる日向をよそに、雨は止む様子がなかった。

 通り雨かもしれないと軽率な考えが生まれないほどに雨音は勢いを増し、風も吹き始める。雨風をしのげる場所を探さなければと思った。

 特に何か持ち合わせているわけでもないのに、体がだんだんと重くなるのを感じる。それは体力がないことが要因であるのではなく、服が水を吸って重くなっているからだ。

 鼻がむずむずしているわけでもないのに、くしゃみが止まらない。


 急がなくては。

 

 さっきまでは石橋をたたくように踏み出していた一歩が、徐々に速さを増していく。

 一度熱くなった体が、逆に冷えてきた時だった。周辺を闇雲に走り回り、終ぞ雨宿りに適した場所を見つけた。


 公園だ。

 立ち止まった場所から10メートルは先にあるそれは、遠目から見ても住宅街のど真ん中にあるにしてはやや広い。子どもの背丈くらいの高さの石でできたフェンスが周囲を囲む。向かって左手には程よい距離でキャッチボールができそうなくらいのグラウンドが広がり、片や向かって右手には、滑り台やブランコ、砂場といった遊具が固められている、いたって普通の公園。


 そのいたって普通の公園が日向の目に留まり、地上の楽園と思えたか、その答えは公園のど真ん中にあった。一つの公園を、うまいこと二つの用途に分ける形にしている東屋が、日向には見えたのだ。


 間髪を入れず、走った。

 雨の影響で公園の土壌は荒れていて、一歩踏み出す度にべちゃべちゃとした気持ち悪い感覚に襲われる。まるで侵入者を迎撃するかのように雨風は勢いよく向かってくるが、気にしない。日向はやっとの思いで最後の10メートルを走り抜けた。


 十分に疲弊した状態で、東屋の支柱に手をかける。呼吸を整えると同時に、体の熱は一気に冷めて、寒気を感じる。

 くしゃみを一発。目を閉じる。

 目を閉じたまま、支柱を手さぐりに小屋の中央へと寄った。走りながらおぼろげに、小屋の中央に木造のテーブル一つと、その周りにベンチが置かれていたのを見たからだ。

 そして、手探りのまま目的のベンチにたどり着くと、くしゃみをした際に閉じた目を開いて、丸くした。


 日向と同じくらいの子どもが一人、ベンチで眠っていた。

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